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季節外れの嵐による豪雨と大風が、ひた走る馬車を強く揺さぶっていた。
車内の会話も聞き取りづらいほどのそれにギャビーは眉をひそめる。
「こんな日に出かけるのは、やっぱりやめたほうがよかったんじゃないかしら」
馬車で駆けているのは下に海原を望む崖際の細い道である。天候のため、外は暗くその風景を見ることもできないが、想像するその足元の風景にギャビーは身をこわばらせた。
ギャビーと並んで座席に座っているのは、彼女と恐ろしく似通った顔である。ギャビーと違い、特に不安は感じない強い響き、けれど同じ声でミアは言った。
「どうしても今日とのご希望だったから仕方ないわ。付き合わせられるギャビーには迷惑をかけるけど。ごめんね。ローレンス様……ルヴァリス公は気難しいから」
「迷惑なんて……そんなことはないけれど。でも確かに公爵様だものね」
湾曲ながら、公爵をわがままであると二人で揃って評したことに気が付いて、ギャビーとミアは笑いあった。
「国に三家しかない大貴族の公爵家様だもの。下々の都合なんて斟酌しっこないわ」
「でも義理のお父様になるのだから、仕方ない。わたしは今日だけでいいけど、ミアはずっとお付き合いすることになるから大変ね」
「うまくいくように頑張るしかないわ。そのためにギャビーにも無理を言って今日出てきてもらったのだし」
ガブリエラ“ギャビー”・ヴェスパーの妹であるミカエラには恋人がいる。彼は、三大貴族のメリベル家の次男である。いや、もう恋人という言い方は正しくない。婚約者、と評すべきであろう。親同士はすでに顔を合わせている。会っていないのは、ギャビーだけだ。
「ミア」
ミカエラを呼びなれた愛称で呼ぶギャビーの声は不安ばかりだった。
「わたしはあなたの邪魔になっていないかしら」
ギャビーの言葉に、ミアは微笑んでその手を握ってきた。
その温かさが「そんなことはない」と強く物語るようでギャビーは自分も穏やかな表情で握り返すことができた。
ヴェスパー家は町の中ではそれなりに力のある商家である。ルヴァリス地方メリベル市は、もともと大きな港を持つ貿易の盛んな町であり、古くから商業に携わり町をまとめてきたヴェスパー一族は名士と言って差し支えない。
ギャビーとミアはすでに二十代の半ばになりつつあるが、それは両親が、娘の良い結婚相手を探していたからだ。貴族ではないものの富豪の娘であり、容姿と教養に恵まれた、大変価値のある娘だ。ようやくミアに文句ない相手が来た。
それでも大アルビオン連合王国の公爵家に、爵位を持たない平民の娘が嫁ぐというのはなかなかに前代未聞の出来事である。それを許すのはヴェスパー家の資産や地位と、ミアの相手のランディ・メリベルがほぼ確実に公爵家を相続しないという見込みのあるおおらかな立場だからだ。
なにより、ミアの美貌も大きいだろうが。
春の快晴の日のような美しく澄んだ明るい青の瞳。女中の手で器用に編み込まれた艶のある金髪は日差しのように心を明るくさせる。
美しいパーツが理想的な位置に配置されたその顔立ちは、とても自分も同じだとは思えないほどに華やかでギャビーは時々見とれることがあった。
そんなに自分の顔が好きなの?とミアは笑う。確かにギャビーとミアは全く同じ顔をした双子だ。それでも自己肯定感や自信、他者への配慮の優しさがミアを美しく見せ……そしてそれを持たない自分を醜く感じさせるのだ、とギャビーは気が付いている。
ギャビーはミアの右目が特に好きだった。
ただ一点、自分と違うと明確に判断できる場所だからだ。
ギャビーとミアは目の色まで同じだが、ミアの目には一点だけ違う場所があった。右目の外側上四分の一ほどに、綺麗なオレンジ色がにじんでいるのだった。部分光彩異色症は彼女が幼い時に怪我をしたからであって、視力こそ落ちなかったものの、喜ぶべき事態ではない。
けれど海に差し込む夕日のような瞳をギャビーは愛している。
それをじっと見つめながらギャビーは問う。
「お義父様は、わたしの存在を認めているの?」
「認めて下さっているわ。だからこそ今日ギャビーを呼んだのでしょう」
ギャビーは、裕福な商家の産まれで、ミアと同じ美貌を持ち、常識や教養、家庭を維持する能力を身に着けている。けれど決定的な違いがあるのだ。
ミアはギャビーをとても大事に愛してくれているけれど、世間はギャビーを厭うている。
ギャビーにとってミアだけが、永遠に変わることなく輝いて美しいものだった。
だからこそ本音を言えば、ミアがランディと結婚してしまうことは辛い。今まで自分だけのものだった愛しい人がいなくなってしまうことは身を削られるような苦しみだ。それでもミアが幸せになることは嬉しいと思えた。
ランディと気持ちを伝えあったミアは、本当に女神の様にキラキラとしていて、その美しさはギャビーのつまらない不安など吹き飛ばすほどに愛しかった。ミアから紹介されたランディもまた、ギャビーを見下したり嫌悪しない好青年だった。
「……ミアとランディが、ローレンス様を説得してくれたんじゃないかと思うわ」
ギャビーの言葉にミアが何か言い返そうとするのを微笑みで遮った。
「わたしを理解してくれる人は少なくても、『いる』のだからわたしはけして不幸じゃない。ミアがそういう妹でよかったし、ミアが選んだ相手もそういう人で、本当に嬉しいわ」
「当たり前でしょう。ギャビーを嫌う人間なんて、選びっこないじゃない」
ミアは心外だ、とばかりにわざとらしく頬を膨らませて、そして息を吐き出して笑い転げた。
「大好きよ、ギャビー」
ミアはギャビーの頬に手を伸ばしてきた。その指には巨大なサファイアの嵌まった婚約指輪がある。
その瞬間。
突然、重力を失ったような不快な浮遊感が二人を襲った。
二人には知る由もなかったが、海面から崖を伝うようにして吹きあがった強風が馬車の足元をすくったのだ。
悲鳴を上げたミアをギャビーはとっさに抱き留める。浮き上がった分だけ叩きつけられた衝撃が激しく、二人はドアにしたたかにぶつかった。ミアの体重の分だけギャビーはなおさら強く打ち付け、息ができないほどの痛みに襲われる。片輪が浮き、車内の角度がありえないものに変わった。
御者と馬の悲鳴が、風の音に混ざって届いた。
たぶん、運も悪かった
後になってみれば、重心が傾いた馬車の下にあった崖が雨でぬかるみ、崩れたのだと推測できる。足を取られる形で、馬車は海に向かって滑り落ちていったのだろう。ずっと聞こえていた激しい音は、車輪が吹っ飛んだものだ。
「ミア!」
海に落ちるのは間違いない、と理解したギャビーは上側になっている扉を尋常ならざる力で蹴飛ばした。扉が外れて激しい雨が降りこんでくる。
ミアだけは、馬車の外に出して崖に捕まらせなければ。彼女を放り投げるだけならまだ間に合う!
歯を食いしばって考えたギャビーだが、一瞬遅かった。滑り落ちる途中の岩に、馬車はその弱い脇を激しくぶつけ。
轟音と暗転がギャビーを襲った。