89話 メフィストフェレス
メフィストフェレスは空間を転移し帰還した。ウルゴス神と名乗る怪し気な存在との戦闘において、死の危機を感知したからだ。本来はウルゴスは殺しておき、関東地域も支配するつもりであったが、神を名乗る魔王の力が読みきれなかったので、慎重を期して撤退した。
引き際を見定めるのは大悪魔にとって極めて重要な素質であった。討伐されなければ、有名である大悪魔たちは人々の想いからすぐに魔力を吸収して回復するのだから。
闇の転移を行い帰還した先は暗かった。暗闇に沈んでおり、全く光は射さない。だが、メフィストフェレスにとっては暗闇などどうということはない。大悪魔は闇を見通すことができないわけがなかった。
コツコツと石畳に足音を響かせて歩くと、反響してくるので狭い部屋だとわかる。自身にとっては何度も使ってきた部屋のために戸惑うことなく、暗闇に手を伸ばすとドアノブの感触が返ってくる。ドアノブをひねり、カチャリと開けると強い日差しが差し込んできて、目を細めてしまう。
軽やかに手に持つステッキを回しながら見渡すと、そこは見慣れた都心部である。高層ビルが建ち並び、店舗が軒を並べる。よく見ると東京とは僅かに違う雰囲気だ。空気が違う、看板などもどことなく違和感を感じる。ただそれは東京を見た事があるものだけが感じることで、普通は気づかないかもしれない。
東京都に近い景観を持ちながらも独特の雰囲気を持つ都市。そう、ここは大阪である。
メフィストフェレスは機嫌良さそうに歩き始める。出てきた家屋は小さな雑居ビルで、ともすれば風景に溶け込んでしまう建物であった。事実厄災前も注目されることはなかった。今は既に出歩く人間すらいないために、もはや誰の目にも止まることはない。
見かけはナイスミドルの男はステッキを回しながら歩く。厄災前は数多くの人々が行き交う街であった。
メフィストフェレスは古来から生きている。この街並みも昔から知っている。蟹の看板や、マラソンをしている者の看板があった。ちんどん屋の人形もあった。
それがこの街の象徴。遠くのものならば、観光に行こうと考えるほどの離れて住む人ならば、誰もが思い浮かべる大阪の街並みだ。それだけ印象というのは大事である。
「まぁ、地元民にしてはとっくに存在しないと笑うネタとなるのでしょうが」
ステッキをくるくると回しながら、メフィストフェレスは考える。考察する。それはきっと笑えないことなのではないかと。東京の象徴が東京タワーであったように、大阪はそれらが象徴ではなかったのかと。
「人は象徴を頭に記憶します。その象徴をなくした時、そのものは存在があやふやになる。今の象徴はどのようなものとなるのでしょうか」
大阪の、道頓堀の新たなる地元民を見ながら薄く笑う。酷く楽しげに、酷薄に楽しげに。
「そう思いませんか、見知らぬ人よ」
街角からのそのそと足を引きずりながら現れた地元民へと話しかける。地元民はメフィストフェレスを見えているのか視力があるのかわからない白く濁った瞳で見てくる。頬が削げて肉が垣間見えて、骨が覗く。出鱈目に生えた乱杭歯がグチャリと口を噛み、その肉体はボロボロだ。服は破れ血が固まって赤黒くなり、体臭は劇毒のように臭う。
新たなる地元民、ゾンビである。人を喰うという本能だけで蠢く不死の存在。メフィストフェレスに話しかけられて、音に反応したのか顔を向けてくるが、特に襲いかかることもなく、顔を背けてまた歩き出す。ずりずりと肉片を地面に落としながら、去っていく背中を見ながら、メフィストフェレスはフッと笑う。
「この街の新たなる象徴を作りませんとね。ゾンビたちだけでは少し弱い。東京都には負けないと皆さんも思うでしょうし」
周りにはゾンビたちが行き交っていた。日差しの中を目的なく、のそのそとゆっくりと無意味に徘徊している。よくよく見ればガラス張りの喫茶店やブティックなどにもゾンビたちはいる。カップを持って椅子に座り身動ぎすることなく人形のようなゾンビ。ブティックで服を見ているふりをして歩くゾンビ。嘗ての生活を覚えているのか、人としての習慣を忘れずに行動している。
笑えるのが、オフィスビルにいるゾンビたちだ。紙片を持ちながら、他のゾンビたちと取引でもするかのように顔を合わせて身体をゆらゆらと揺らしている。死んでからも会社で働きたいとは嗤えてしまう。
その様子をひとしきり見て、メフィストフェレスはふむふむと顎を擦りながら歩く。
「知性が微かに芽生えているようです。これも魔力のお蔭でしょう。未来においてグールの街となってくれると面白いのですが」
グールが新たなる街の住民となれば、特色もあり面白い街になると口端を曲げる。
そうして暫く歩き、空間が歪んだ場所に辿り着く。街を一つ丸ごと包囲するように聳え立っている薄闇色の壁だ。高さは100メートルはあり、侵入者を拒んでいる。ヨロヨロと身体を傾けて、障壁を越えようとしたゾンビがいたが、壁に当たったかのように阻まれて、それでも越えようと手足を動かすが入れないと考えて、くるりと身体を反転させて去っていった。
メフィストフェレスはその様子を見ても、気にすることはなく障壁を何もないかのようにあっさりと超えていく。そうして障壁を超えた先には多くの人間たちが存在していた。
元はビルが乱立し、家屋が建ち並び、店舗が軒を並べる栄えていた街並みは一変していた。
もはや建物というものは何も無い。真夏の日差しの中で瓦礫の山が広がり、その中を疲れ切った顔で痩せ細った身体に鞭を入れて、人々はいくつもの集団に分かれて瓦礫を片付けている。
重機などは何も無い。皆は人力で瓦礫を運んでいる。風呂敷のようにぶ厚い布を籠のようにして、コンクリート片を山のように入れて、汗だくとなって顔を真っ赤にして、よろよろと一歩一歩ゆっくりと歩いていた。
老若男女、その全てが働いている。猫の額ほどの小さな更地がポツポツとあり、陽射しを防ぐことしかできないテントが建っている。
「オラァっ! 急げ、働け、俺たちが一番に建物を建てるんだよ!」
その人々の中で怒鳴り散らす男たち。集団ごとに分けられている中で、数人のリーダーがツバを飛ばして、金切り声をあげて発破を入れている。
瓦礫で歩きにくい地面。鉄骨が飛び出して、鋭く尖ったガラス片がある中で、薄手の服で働く人々はその声を聞いても虚ろな表情で決められた場所に瓦礫を捨てていく。疲れ切っているのだ。もはやリーダーの金切り声も騒音としか感じないのだろう。リーダーは暴力を振るうことはなく、指示を出すだけだからだ。
「あぅっ」
瓦礫に足をとられて悲鳴をあげて転ぶ子供がいた。薄手の服のために身体は傷つき、運んでいた瓦礫が転がり散らばる。うぅと泣き始めるが助けるものはいなかった。
リーダーも特に倒れた子供に暴力を振るうこともしない。疲れており、そのような体力もないのであろう。いないものとして扱われることに子供の精神は荒み、憎しみを覚える。魔力が薄っすらと立ち登り、メフィストフェレスはクックと嗤う。
とても良いことだ。上手くいっている。暴力を振るわれることよりも、無視されることの方がきついのだ。
「ここで俺らが一番に更地にする! そうすれば、飯を腹いっぱい食えるんだ! 働け、働け」
リーダーの声に、乾いた雑巾から絞り出すように体力を使い、人々は働く。彼らの目的はただ一つ。任された場所の瓦礫を片付けて、更地にすることだ。いくつもの集団の中で一番に終われば、食いきれない程の食糧と水を与えられる。そのために頑張っていた。
捉えた人間たちを100人程の集団にしてメフィストフェレスは大量に作り、仕事を与えた。まずは建物を破壊する。上位に入った集団は食糧をたっぷりと与えた。今は更地としたら、上位の集団は食糧をたっぷりと与える。
100人の集団に、30人分しかメフィストフェレスは食糧を与えていない。満足に食べることもできずに痩せ衰えていく者たちは、上位に入ることで食べ物を貰えると知り、懸命に頑張っていた。
しかし、ただ仕事を任せているわけではない。
周りを見渡すと、クックと含み笑いをする。集団ごとに分けられているテントの中でいくつかは焼けており、地べたに寝込んでいる者たちもいた。
「良いですね、良いですね。夜には夜のお仕事をしているようです」
メフィストフェレスは人間たちの醜悪さに笑いを抑えきれない。昼は更地とするために瓦礫を運ぶ。
そして夜は他人を蹴落そうと火をつけたり、瓦礫を加えたりと集団ごとに妨害工作をしていた。上位に入るには、妨害工作も必須なのだと人間たちは考えたのだ。
そのために夜は疲れ切っているにもかかわらず、人々は見張りを立たせて無駄に体力を使っている。もちろんそんなことをしているために集団の仲は最悪だ。この先、次は建物を、更には田畑を。小目標を作り、人々の仕事への熱意を向上させる。将来的には、皆が憎みあい、傷つけることに無頓着となる悪魔のような心になるだろう。
食糧を貰えるという蜘蛛の糸が必要であったのだ。人の足を引っ張りあい、暮らしを豊かにする。現状をなんとかしようと、藻掻く姿は醜悪でメフィストフェレスは酷く満足していた。
今では魔力が多少なりとも採れており、この先であれば、選抜した人間たちを魔力スライムとして、良い悪魔たちの食糧になる。他地域の悪魔たちへの輸出品としても良い。
「あぁ、世は魔界戦国時代。面白い世界となったものです」
悪魔は争うばかりではない。狡猾なる策を立てるのも悪魔は得意だ。いや、大悪魔であればあるほど、戦いよりも策を用いるのだ。
「この世は魔界。ありがとうございます悪魔王よ。ですがこの世界を支配するのはわたくし。頂点に立つのは、あらゆる悪魔を支配するのはこのわたくしメフィストフェレス」
はははと心底楽しそうにメフィストフェレスさ哄笑する。このさきの戦いも楽しみだ。人々の苦しむ姿も、争い合う様子も面白い観劇だ。
「場を用意すれば、あとは人間たちが勝手に動く。これ程楽しくなるとは思いもよりませんでした」
メフィストフェレスの一番好きなことは、人々が堕ちる姿を眺めることだ。
瓦礫が広がり、幽鬼のように働く人間たち。
「豊臣秀吉の真似をしてあげるんです。ここの者たちは涙を流して歓喜してください」
悪魔を使わずとも、堕ちていく人間たちを楽しげにメフィストフェレスは眺めるのであった。
大阪の主、大悪魔メフィストフェレスがそこにはいた。




