56話 戦争開始だな
イーストワンと呼ばれた避難所は、僅か一ヶ月も経たないうちに、想像しなかった世界へと変わっていた。
選ばれし者たちが、6階以上に住んでおり、階下の人々よりも食糧も水も多く配給されている。戦闘する人たちなので、カロリーは多めに、祓い師は清めないといけないことが多くあるので、今では貴重な水をも多く貰っていた。
そのため、階下の避難民に憎まれ始めている。理性では必要だとはわかっているが、飢餓に苦しむ人々は理性よりも感情を優先するのである。しかしながら無理もない。飢餓とは人間が一番苦しむものだと言われている。この状態で憎むなと言われても納得はできない。
とはいえ、このやり方は極めてまずいと祓い師の中でもリーダーとなった神凪シュウは当初よりも酷いことになっていると思い直していた。
「そろそろこちらも限界ですね?」
今は祓い師たちに与えられた階の会議室にシュウはいる。集まれる祓い師は全員集めており、総勢30人近い。とはいえ、見習いも含めているので、実際に戦える人間は20人足らず。疲れ切った深刻な顔をして、それぞれ椅子に座っている。
「もう限界ですよ、シュウさん。我々に与えられる水ももはやペットボトル一本。既に清めの儀式にて力を得ている者たちは、その神聖力を失い始めています」
「1万人がどれだけ食糧や水を消費するのか、私たちは本当には理解出来ていませんでしたね」
シュウは顔を押さえてため息をつく。飲料水だけではない。他にも多くの事柄で使うので、水は膨大な量を必要としていた。選ばれし者たちはふんだんに水を使っていると階下の人々は考えているだろうが、こちらもほとんど変わらない状況であった。
これでは無駄に避難民の反感を得るだけになってしまう。いや、既になっていた。
「スエルタちゃんたちがくれた水が無かったらもう限界だったよね、パパ。さすがはスエルタちゃんだよ。私の憧れの女性だよ」
音恩がふんふんと興奮気味に言うが、たしかにそのとおりだ。スエルタたちが去っていき、10日間。ウルゴス神に選ばれたという符術師が作ったという式神で連絡を取り合い、すぐに水がふんだんに使えると聞いて、密かに融通してもらった。
自衛隊員の中でも泥沼派閥に反感を持つ者も多いので、密かに運び入れて避難民にも配給し、なんとかやってきていたのだ。たしかに娘の言うとおり、あの水が無ければまずかった。あちらは食糧も育てているらしいが、神と名乗る者が住む城だけはあると、皆が感心している。
それでも、もはや限界だ。全てを融通して貰っている水で賄うことなどできないので、保有している水を配給しているが、もはや給水しなければ、階下もここも水が尽きてしまう。食べ物ももはや残り少ない。
もはや早晩暴動が起こるのは間違いない。何しろ階下の避難民は階上の人々は食糧も水も持っていると勘違いをしているのだから。いくら持っていないと言っても納得はしないだろうことは火を見るよりも明らかだ。
泥沼議員は現状を理解しているのだろうかと、シュウは疑問に思うが、今日でなんとかするつもりなのだろう。
「今日は救出部隊が来る予定日。予想と違い、悪魔と組んでおらず、本当に真っ当な自衛隊が来てくれれば助かるのですが……」
「ん〜。どうだろうねぇ。わいの式神が進軍してくる自衛隊を確認したけど、一見すると普通の人たちに見えますよ?」
式神カラスを飛ばして、都内へと監視に向かわせていた紫煙はいまいち自信なさげに報告してくる。
「総勢1000人程度。戦車30台、装甲車20台、輸送トラックたくさんってところです。悪魔の姿は見えませんね」
「なら、最悪の予想は外れていたと言うことでしょうか? 途上にゾンビたちはいますか?」
悪魔が共にいなければ、真っ当な部隊なのだろうかとシュウは確認するが、紫煙は眉根を顰めさせて怪訝な口調となった。
「そういや……おかしいで? なぜかゾンビたちは周りにおらんなぁ」
「祓い師の姿は見えますか?」
「う〜ん……いえ、おらんなぁ。姿見えないで」
紫煙からの報告を聞いて、顔色を変えて、シュウは椅子から勢いよく立ち上がる。
「それはおかしい。祓い師が隠れている必要はありません。姿が見えず、ゾンビは近寄って来ないのであれば、そこには理外の力が働いているはずです! 悪魔と組んでいる可能性があります。すぐに自衛隊員へ通達しましょう」
最悪の予想が当たったかもしれないとシュウは皆へと指示を出すが、それは少しだけ遅かった。
「申し訳ない。君たちに動いてもらっては困るんでね」
嗄れた声音がドアから聞こえてくると、老人がニヤニヤと嗤いながら入ってくる。アサルトライフルを構えた自衛隊員たちも10人ほど入ってきて、銃口を祓い師たちに向けて威嚇してくるのであった。
「泥沼議員、これはなんの真似でしょうか?」
険しい顔でシュウは突然の来訪者に、詰問をする。
「頭が切れる馬鹿者ほど操りやすいということだ。そなたたち、このディストピア計画がうまくいかないと、ようやく理解したのだな」
入ってきたのは泥沼議員であった。いつもどおりの狡猾そうな笑みをニヤニヤと浮かべて、シュウたちを睥睨してくる。その態度はもちろんのこと、シュウは泥沼議員のセリフに聞き逃せないことがあったので、尋ね返す。
「うまくいかないことがわかっていて、避難民と私たちを分けたのですか?」
シュウにとって、そのセリフは予想外のものだった。泥沼議員は最低でもうまくいくと信じていたと考えていたのだ。だが、皺だらけの顔を醜悪な笑みへと変える泥沼議員の姿を見て、それは間違っていたと悟ってしまった。
この老人を少し甘く見ていたのだ。映画などでよくいる現状に気づかない小悪党とばかり思っていた。ここは現実なのに、頭からそう考えていたのだ。政治家の頭が悪いはずはないのに。特に謀略についてはそうだ。
冷たく光る銃口に、皆が険しい表情となり警戒する中で、泥沼議員の答えはシュウの思っていたことよりも、上回っていたことを証明した。
「祓い師の馬鹿めが! ここまで言っても気づかないとはその馬鹿さ加減に恐れ入るわ!」
手の中に黒き水晶を持ち、吐き捨てるように泥沼議員は言うと、その身体がどろりと溶け始めた。まるで硫酸でも身体に被ったかのように溶けていきながらも、その態度は余裕があり、苦しむ様子はない。
「まさか、悪魔だったちゅうんか!」
紫煙が信じられない思いで、溶けていく泥沼議員へと詰問する。
「そのとおりだ。祓い師や自衛隊員と避難民との溝を作り出し、お互いを憎み合わせて負の感情から成る魔力を精製する。……予想と違い、なぜか魔力は全て大地に吸収されてしまったが、魔力が生まれることは確認できた。問題はない」
もはや、溶けた肉塊となっている泥沼議員は、手に持つ水晶を割った。パリンと砕けると、禍々しい黒き魔力が泥沼議員であった者を覆う。不気味に蠢く赤黒い肉塊は、魔力を吸収するとその体色を泥の色へと変えていった。
「クハハハ。この力は素晴らしい! 貴様らの驚く顔を見て愉悦が走る。儂こそが、魔王連合『唐傘』の魔王が一人。情報部門の魔王にして、潜入の天才、泥田坊のマッドクレイ。泥の体である儂の魔力は感知することもできなかったであろう?」
哄笑するマッドクレイは、その体から膨大な魔力を吹き出して、シュウたちを威圧しようとする。漆黒の波動が襲いかかると、ガクリと膝をついて、青ざめて動きを止められてしまう祓い師たち。
「クハハハ。無様だな、祓い師たちよ。過去においては狩られるしかなかった儂がこの世界では圧倒的な力を振るえる。実に愉快、実に愉快だ。クハハハ」
「あ、あなたたちは悪魔に従って良いのですか」
動くこともできなさそうなシュウが、なんとか絞り出すように声を出し、アサルトライフルを持つ自衛隊員へと問い掛ける。だが、自衛隊員たちの顔には侮蔑と嘲笑があった。
「馬鹿だな、祓い師さんたちよ。この世界は悪魔に支配されちまったんだ。とすると、どう生きるか? 俺たちは搾取する側になりてぇんだ。これからは俺たちは人間を虐げて、懸命に働く奴らから上前を跳ねて贅沢に生きていく予定なんだ」
「愚かな。悪魔に魂を売ったが最後、悲惨な最期を遂げることになりますよ?」
「昔の話だろ。今は悪魔たちは魔力が欲しい。その魔力を回収するために、人間という手足が欲しいのさ。安心しろよ、避難民たちはこれから俺たちが奴隷として使ってやるからな」
ゴミのような言葉を吐いても、罪悪感の欠片もない自衛隊員。その姿を見て、この自衛隊員たちは悪魔に魂を売ったのだと悟り、シュウは苦々しい顔になる。
「そういうわけだ。わかったか、祓い師? どれ、お前たち、同じ人間として止めを刺してやれ。儂の最期の優しさと言うやつだ」
共に戦ってきた戦友に裏切られて死ぬ。その心には憎しみが宿り、魔力を最後に生み出すだろうと、泥のスライムと化したマッドクレイは、洞穴のような口を広げて指示を出す。
「はっ。了解です。悪いな、お前ら」
自衛隊員たちはアサルトライフルのトリガーに手をかけると、見下す視線で膝をついている祓い師たちへと殺す前に言葉をかけるが
「悪いのはこちらです。申し訳ありませんね」
シュウが冷たい視線を向けて言葉を返し、その身体がぼやけていく。
「撃てっ!」
異変を感じて、自衛隊員たちはアサルトライフルを撃つ。銃口から無数の銃弾が放たれて、シュウたちへと襲いかかる。高速の銃弾を人間の身で躱すことなどできないと思いきや
「なっ!」
自衛隊員たちは結果を見て、目を見張って驚く。蜃気楼のようにぼやけているシュウたちを銃弾は貫くが、霧のようにかき消えてしまったからだ。
ゆらりゆらりと幽鬼のように揺らめいて、シュウたちは幻のように消えていこうとする。その様子を見て、慌ててトリガーを再度引くが、同じように揺らめく身体を貫くのみであった。そのまま揺らいでいき、消え去ろうとする祓い師たち。
「これが祓い師なのか!」
「銃弾が効かねぇのかよ!」
動揺を見せて、慌てふためく自衛隊員たちだが
「『幽世隠遁』の術だ。慌てるでない」
マッドクレイだけは冷静に崩れた泥山に開く洞穴のような口を歪めて泥の腕を振り上げる。
「以前ならば逃げ切れたであろうが、もはやこの魔界では児戯に等しい」
勢いよく泥の塊でできた腕をマッドクレイは振り下ろす。床に振り下ろされた一撃はコンクリートの床を砕き、蜘蛛の巣状にひび割れを作り、禍々しい波動を広げていった。
その波動を受けて、揺らいでいた虚ろなる人影はピントを合わせたようにはっきりとして、祓い師たちの姿を露わにする。
「なにっ!」
シュウたちは、術が破られて動揺する。他の祓い師たちも狼狽えて混乱する中で、マッドクレイはぐふふとくぐもった嗤いを見せて口を開く。
「神聖なる幽玄の世界に逃げて、別の場所へと移動する幽世の術。悪魔は絶対に追うことはできない奥義……だったなぁ。この部屋の壁も床も天井も既に泥たる儂の身体を侵食させておる。もはや空間を飛ぶ法術は使えんわい」
泥の身体を蠢かせて、泥を辺りに散らばせてマッドクレイは嘲笑うと、腕を上げる。いつの間にか、部屋は泥に囲まれており、禍々しい瘴気を発していた。
「無駄無駄、無駄だぁ。汝らはここで死ぬ運命。兵士たち、もう一度攻撃をせよ!」
「はっ!」
アサルトライフルを構え直し、自衛隊員たちはトリガーを引く。シュウは一斉に移動するために、メンバーを集めていたことを後悔して唇を噛む。予想よりも魔王の力は強い。
「撃てっ!」
自衛隊員の掛け声と共に銃弾は放たれて、無駄でも防ごうと紫煙が符を構え、音羽が音恩を守ろうと覆い被さる。
だがライフル弾は符の法術では防ぐことを許さずに、庇った母親の身体を貫通させて、音恩を殺そうとした。
けたたましく銃声が響き、ライフル弾により祓い師の死体が積み重なるとマッドクレイは嘲笑う。すぐに阿鼻叫喚の地獄へと変わるだろうと射殺される祓い師たちを眺めるが、予想外の光景に目を剥く。
突如として視界を埋め尽くすように霧が吹き出てきたのだ。
銃弾はシュウたちの目の前で停止していた。音速の銃弾は空中に生まれた霧に阻まれてピタリと止まり、ポロポロと床に落ちていってしまったのだ。
「なにっ! 法術? 何者だっ! ここは儂の空間。どうやって入った?」
霧に含まれた膨大な神聖力を見て、驚きながらマッドクレイは叫び問いただす。人間ではあり得ない神聖力を霧は放っており、理外の存在が現れたと悟ったのだ。
「失礼しまちたです。でも泥の壁では誰の侵入も防げないと思うのですよ」
霧から人影が見えて、姿を現す。
「このあたち。ウルゴスたんの巫女と魔王のパレスたんがお前を倒しに来たのです。しゃららーん」
現れた小柄な幼女は、スカートの裾を掴み、ニコリと微笑み、美しい所作でカーテーシーをするのであった。




