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青くさい宝石

作者: 細井真蔓

 窓の灯りは点いていた。と言っても、彼はめったに外出しないので、寝ている時以外はだいたい点いている。どうせ呼び鈴を鳴らしても返事はないだろう。僕はボタンを押しながら、鳴り終える前にドアを開けた。


 彼はいつも通り、部屋の真ん中に置いたバランスボールに座っていた。座りながら運動ができるというのは、彼にとって非常に合理的らしい。僕は突然の来訪者に一瞥もくれない横顔に声を掛ける。

「穂積さん、帽子なんて被るんですね」

 彼は手にした野球帽を、しげしげと眺めている。

「この帽子が私に似合うと思うのなら、君の目は確かだね」

 当然、僕もそれが彼の帽子だとは思っていない。

「また何か面倒な帽子なんですか」

 僕は部屋の片隅に置かれた小さなベッドに腰を下ろした。

「面倒な帽子か。なかなか端的で好ましい。ふふふ、面倒な帽子ね」

 彼はいかにも楽しそうに口角を上げながら、帽子を裏返したり、虫眼鏡で観察したりしている。

「和田村くん、きみ、この帽子についてどう思う」

 そう言って、彼はこちらに帽子を投げた。僕は彼に倣ってあれこれと調べてみる。

「野球帽ですが、大きさからして大人用ですね。ほとんど汚れていないところを見ると、スポーツの目的で被っているのではなく、ファッションとして使っている。けれどブランドを特定できる物は付いていない。髪の毛も付いていませんね。後ろのアジャスターが広めに調整されているので、持ち主は結構頭の大きな人でしょう。それから……、つばの縁に何か付いていますね。白い、いや、薄い水色の塗料のような物が……」

「それはガムだよ。付着したガムを、擦って取ろうとした跡だね。ブルーベリー味だ」

「触る前に言って欲しかったですよ」

 僕は彼に帽子を返した。

「このマークは何だと思う」

「ニューヨークヤンキースですね、恐らく。あまり野球には詳しくないですが」

「そう、ヤンキースに見える。だがこの帽子の持ち主は、ヤンキースの選手ではない」

「そりゃ、そうでしょう」

「では、なぜヤンキースらしき帽子を被っていたのか」

「ファッションとして広く出回ってますからね」

 彼はチームロゴの刺繍部分を爪でかりかりと引っ掻いている。

「これは、イニシャルに見えないだろうか」

「NYはニューヨーク・ヤンキースの頭文字ですよ。個人のイニシャルではありません。さては穂積さんも野球知らないですね」

「ロサンゼルス・ドジャースのロゴはLDではなくLAだ。それならNYはニュー・ヨークの頭文字と考える方が自然だ」

「そう言われると、そうですね。野球好きなんですか?」

「この帽子の持ち主、あるいは持ち主の身近な人物が、ヤンキースにあやかって、持ち主のイニシャルを似たデザインで刺繍したとは考えられないだろうか」

「そんな人いますかね。けれど、もしそうだとすれば、Yは山田、吉川、いろいろいますよ。Nもナツキ、ナナ、女性ということも考えられます。頭の大きな女性もいるでしょうし」

「この刺繍をよく見てごらん」

 彼はまた帽子を投げてよこした。

「なんだかあまり質の良くない刺繍ですね」

「素人が頑張って刺繍したら、その程度だろう」

「素人、ですか」

 離れてみればそれなりに見えるが、線はでこぼこで、縫い目も粗い。確かに、よく見ると素人が刺繍したようにも見える。

「偽物なんじゃないですか? それっぽく作られてるけど、コピー品かもしれない」

「内側をよく見てみるといい。ぐるりと縫ってある布の裏側だ。ところでその布はスベリと言うらしいよ」

 僕はそのスベリとやらをめくってみる。ほんの僅かではあるが、白い生地の切れ端が残っている。

「これは……、タグを切った跡ですか」

「そう。メーカーの名前が書いてあったであろうタグだ」

「どうして切ってあるんでしょう」

「例えば、製造元が別のメーカーから仕入れた帽子のベースに、自前でデザインを施す場合なんかに、元のメーカーのタグを切ることはあるらしいね」

「となると、やはりコピー品ですか。無地の帽子だけ安く仕入れて、いい加減な刺繍をして、そこそこの値段で販売する」

 そう言う僕を見て、彼は嬉しそうに笑った。

「やけに丁寧に切ってあると思わないかい」

 そう言われると、取り除いた人間の執念を感じるほど、タグの残骸は僅かだ。

「コピー品を作るような連中にしては、丁寧な仕事ですね」

「さて、それは本当にヤンキースの帽子だろうか?」


 何を言い出すんだろうか。雑な刺繍を見れば、正規のライセンス品でないことは明らかだ。さっき、自分で言ったはずじゃなかったか。あるいは、ヤンキースのロゴが入っている帽子をおしなべて「ヤンキースの帽子」と呼ぶなら、これは疑いなくヤンキースの帽子だ。どちらにしても、答えは明白だ。

 彼は僕に視線を合わせたまま、自分のおでこを、指でとんとんと叩いた。もったいぶる仕草が非常に鬱陶しいが、いつもこうなので、僕もすっかり慣れてしまっている。彼はテレビに出てくる個性派刑事のような顔つきで、僕をじっと見つめたまま、眉間を指で押さえている。

「おでこ、ですか」

「帽子の、だよ」

 言われて帽子を表に返すと、おでこの部分には、例の雑な刺繍があるだけだ。彼を見遣ると、飽きもせず同じポーズでにやついている。

「刺繍以外には、何もないみたいですが」

 その時、僕は妙な違和感に気付いた。刺繍が、何かおかしい。

「……これは、ほんとにヤンキースの帽子ですか?」

「だから、そう言ってるだろう」

 彼はようやく役者のような姿勢を崩し、バランスボールの上で器用にあぐらをかいた。事も無げに乗っかっているが、同じことをやれと言われてもできない気がする。ろくに部屋からも出ない彼だが、実はスポーツ全般そつなくこなすのだ。彼に言わせれば「体をその機能に忠実に動かしているだけ」ということらしい。

 僕は刺繍に視線を戻した。

「これは……、Yではない」

「何に見える」

 アルファベットのYは、通常二股に分かれた部分が尖っている。上半分だけを見れば、Vの形だ。しかし、この刺繍のYは、上の切れ込みが丸みを帯びている。ちょうど昔の人が悪者を捕まえるのに使った刺股のようだ。この文字は、Yによく似せて作った、別の文字である。

「この帽子は、ニューヨークヤンキースではない」

「N、そしてTだよ。和田村くん」

 この人は、初めから知っていたのだ。これがYではないことに。N、T、それが表す物は何なのか。

「それなら、これは何なんです」

「誰なんです、と聞くべきだな」

 イニシャルなのか、本当に。誰かが、ニューヨークヤンキースのロゴマークに似せて、NTという人のイニシャルを刺繍した帽子なのか。

「さて、これは誰の帽子だろう」

「Tであっても、田中、高橋、いくらでもいますよ」

「では、これを下のゴミ捨て場に捨てたのは、一体誰だろう」

「もしかして、ゴミ捨て場から拾ってきたんですか?」

 彼は無言で立ち上がると、冷蔵庫を開け、パック入りの牛乳にそのまま口を付けて飲んだ。

「唾液から、雑菌が繁殖しますよ」

「きみは、牛乳パックに口を付けて食中毒になった人を見たことがあるのか?」

 そう言うと、彼はさらにごくごくと飲み、再びボールに座り直した。

「もし、これが本当に誰かのイニシャルなのだとしたら、タグは誰が切り取ったんです?」

「こういうオリジナルのデザインを刺繍するサービスは、ネット上を探せばごまんとある」

 彼は手を伸ばして帽子を取ると、再び刺繍を眺めた。

「ただ、どの業者でも縫っているのはミシンか専用の機械だろう。手作業でこんなに味のある刺繍を縫い上げる業者があったら、私も一度頼んでみたいね」

 皮肉のようだが、こういうことを大真面目に言うのもまた彼なのだ。

「それに、さっきも言った通り、偽物を売るような業者がこれだけ丁寧にタグを取り除くとは考えにくい」

「個人だとすると、……プレゼントか。それなら聞いたこともないメーカー名が入ったタグを切ろうとした理由もわかりますね」

 彼は再び立ち上がり、帽子を僕に向かって投げながら、机の上から何かを取った。フィルムケースだ。小さな円筒形の容器で、中にカメラのフィルムが一本入る。僕の脳裏に、懐かしい光景がよみがえる。母方の祖父がカメラ好きで、昔は母の実家に行った折、よくフィルムカメラを触らせてもらった。僕が物心ついた頃には既にデジタルカメラが普及していたので、よほどのカメラ好きでない限り、僕の世代でフィルムカメラに触れたことのある人間は多くないだろう。それにしても、どうしてこの人はこんな物を持っているのか。もちろん、そんな疑問がまるで意味をなさないのが、この穂積という人ではあるのだが。

 懐かしい思いに浸りながらも、しかし、そのケースに入っていたのは、フィルムではなかった。乳白色のケースの中には、角ばった緑色の形が透けている。彼はケースを開け、中にある物をつまみ出した。

 それは、薄暗いペンダントライトの下で、美しくカッティングされた緑色の宝石のように、きらきらと複雑な光を反射した。

「そんな物、よく平気で触れますね」

「死んでいるよ」

「自分の臭いで死ぬらしいですよ、カメムシは」

「さっきまでは生きてたんだがね」

「そういう容器に入れておくと、自分の出した悪臭が充満して死ぬんです」

「よく知ってるじゃないか」

「生まれが田舎でしたからね。虫はたくさんいましたよ」

 ふうん、と言いながら、彼は虫をケースに戻した。

「確かに強烈な臭いだよ。このケースだけで凶器になりそうだ」

「それで、そのカメムシがどうしたんです」

「きみはコンビニのフライドチキンは好きかい」

 会話のキャッチボールが、いつも的外れな方向に飛んでいく。それでも、根気よく続ければ、そのボールが僕の背後で何かに命中しているのに、後から気付かされるのだ。もちろんそれは、キャッチボールとは言えないけれど。

「好きですよ。スパイシーなやつは特に」

「もしきみの食べているチキンにカメムシが止まったら、どうする」

「捨てるでしょうね。臭いの成分が撒き散らされてそうですから」

「このカメムシも、そういう境遇で捨てられたんだよ、下のゴミ捨て場に」

 僕はカメムシがしがみついたチキンが固いコンクリートに投げ捨てられているところを想像する。

「まさか、チキンも拾ってきたんですか」

「今ごろ野良猫の腹の中だよ」

 よかった。多少の変人であることは理解しているが、道端でフライドチキンを拾うほどの人ではなかった。いや、よくはない。道端のフライドチキンに付いたカメムシを捕まえてきたのだ。

「今日は月曜日なんだ」

 次は何の話が始まるのか。

「そうですね。だから僕がバイトもなくこうして暇つぶしに寄ってるんです」

「この辺りの燃えるゴミの日も、月曜なんだよ。だから、ゴミは今朝回収されたばかりで、ゴミ捨て場はきれいなものだ」

 なんとなく、何が言いたいのかわかってきた。

「何もないゴミ捨て場に、新しい帽子と、食べかけのチキンが、ぽつんと捨ててある。チキンには、カメムシが付いている。何か、秘められた物語を感じるだろう。さすがにチキンは置いてきたが、そういうわけで、帽子とカメムシが、今ここにある」

「この帽子と、カメムシ、というかチキンに何か関係があると考えてるんですね」

「きみは、その刺繍を見た時、ただよく見ただけだったね。観察というのは、何も目だけでするものじゃないよ」

 目ではない観察。もしかして……。僕は帽子の刺繍に、恐る恐る鼻を近づけてみる。

「うっ」

 彼は僕の反応に目もくれず、ボールからぴょんと立ち上がった。

「さあ、それでは出かけよう」

 どこから見ても寝巻き姿の彼は、そのまま颯爽と玄関へ向かった。


 ゴミ捨て場の横を通ると、そこにはまだ食べかけのチキンが残っていた。歯型から見ても、野良猫ではなく、捨てた人間が齧った跡だろう。

「こんな食べかけのチキンに付いていたカメムシを、よく捕まえる気になりましたね」

「カメムシは、どこに付いていようがカメムシだよ」

 彼は持っていた帽子を、チキンの横に置いた。

「結局、捨てるんですか」

「どうかな」


 コンビニの前で、彼は財布から何かを取り出し、ポケットに突っ込んだ。どうやらここが目的地らしい。そして僕がいることも忘れたように一人でつかつかと店に入ると、そのまま一直線にレジまで行き、暇そうに虚空を見つめていた店員に声を掛けた。

「ちょっときみ、一時間くらい前に、カップルがフライドチキンを買って行ったと思うんだが」

 彼は誰に対してもこのように不敵な振る舞いをする。店員は見るからに怪訝そうだ。

「覚えてないかな、男の方が、ヤンキースの帽子を被っていたはずだ」

「……何ですか?」

 店員はどう対処すべきか決めあぐねている様子だ。突然現れた不躾な男が、ベッドから出てきたままの姿で問い詰めているわけだから、店員が警戒するのも無理はない。

「実はさっき、店の前でそのカップルがこれを落としてね」

 彼はポケットから紙片を取り出すと、店員に差し出した。初めは不審そうに見つめていただけだった店員も、穂積の押しの強さに負けて、とうとう紙片を受け取った。

「何かの会員カードだと思う。きっと無くしたら困るだろう。私から渡せれば良かったんだが、急用を先に済ませたかったものでね」

 店員はカードと穂積を黒目だけ動かして見比べている。

「警察に行こうかとも思ったが、あの二人がこの店の常連なら、今度来た時に渡してもらえないかと、そう思ったわけだよ。ところで、あの二人はいつも来るのかな?」

「ええ、まあ、時々は」

「よかった。ではきみに任せたよ。念のため確認だが、一時間ほど前にフライドチキンを買ったカップルで、男の方が野球帽を被っていたので間違いないかな? 別の人間に渡すとまずいからね。個人情報やら何やら、最近はうるさいようだから」

 店員はカードをレジの脇に置いた。

「よく来るお客さんの顔は覚えてますから。でも、ちゃんと渡せるか分からないですよ」

「その時は警察に届けるなり、処分するなり、きみの判断に任せるよ」

 穂積は感謝とも愛想ともつかない微笑みを投げかけ、入った時と同じようにそそくさと店を出た。


「無責任そうな店員でよかったな」

「いろいろと聞きたいことはあるんですが」

 早足な穂積の歩調に合わせながら、僕は切り出した。

「まず、さっき渡したカードは何だったんですか」

「私の地元の紳士服店の会員カードだよ。スーツなんて、二度と着るつもりはないからね」

「じゃあ、拾ったって話は当然嘘ですよね。どうしてわざわざそんなことを?」

「見ず知らずの人間には、誰でも警戒するものだろう。けれど人間ってのは、何か物を受け取ってしまうと、途端に自分が責任を負ったように感じ始めるのさ」

 店員から情報を引き出すために、落とし物を渡すという責任感を植え付けて、口を割りやすくした、ということか。

「詐欺師もよく使う手口だよ」

「一時間前、と言っていた時間の根拠は?」

「私が帽子を拾った時、まだチキンは温かかったんだよ。それで私が帰宅してすぐに、きみが訪れたわけだ。このところ夜はめっきり冷えるようになったからね。アツアツのチキンだって、すぐに冷えてしまうだろう」

 なるほど。捨てられたチキンの温度まで確かめるような人だということを忘れていた。

「それで、欲しい話は聞けたんですか」

「ヤンキースの帽子を被っていたカップルが、フライドチキンを買って行った。それだけ聞ければじゅうぶんだ」

 そう、わざわざカップルだと言っていた。帽子は大きめに調整されていたから、世間的な統計だけで言えば大柄な男性が被っていたと考えるのが自然だ。そういう男性が、一人で歩いていたと考えたらいい。あるいは、誰かがプレゼント用の帽子を持っていたのだとしても、別にカップルである必要はない。

「どうしてカップルだと思うんです」

「その前に、チキンと帽子、そしてカメムシの話を片付けておいた方がいいね」

 彼は縁石の上を歩きながら、話を続ける。

「もしきみが夜道を歩いていて、帽子にカメムシが止まったらどうする」

「触りたくはないので、振り落としますね」

「落とされたカメムシは、すぐそばにあった、きみの食べかけのチキンに止まった」

「最悪ですね。チキンは捨てます」

「きみは帽子の匂いを嗅ぐ。これは強烈だ! きみは帽子を捨てて行く」

「ちょっと待ってください。カメムシの臭いが付いたくらいで、帽子を捨てるなんてことはないでしょう」

 赤信号で立ち止まる。ぼんやりと赤い光を映した彼の微笑は、まるで良からぬことを企む悪人のようだ。

「それでは、まず帽子とチキンを遺棄した犯人が一人の男だった場合を考えてみよう」

「彼女からイニシャルを手縫いされた帽子をプレゼントしてもらった、幸せな男ですね」

「その男は、カメムシの付いたチキンを捨て、臭いの残る帽子を捨て、現場を去った」

「プレゼントにもらった帽子ですよ? それも手作りの。そんなに簡単に捨てたりしないでしょう」

「氷のような心を持った男だろうな」

「一刻も早く別れるべきですね」

「そう、そんな男は滅多にいない。だからこの仮定は不自然だ」

 なるほど。あくまで推定に過ぎないけれど、これで男が一人で歩いていた可能性はひとまず消すことができたわけだ。

「では、女が一人だったとしたら」

「彼氏にプレゼントを手作りした女ですね」

「恋人へのプレゼントを、剥き出しで持ち歩くのは、どういう場合だろう?」

「そんな場合は……、ないですね」

「渡しに行くところなら、せめて気の利いた包装でもしているだろう」

「ということは、女一人で歩いていた可能性も消えた」

「つまり、カップルで歩いていたと考えるのが自然だな」

「そうかもしれませんが、例えカップルだったとしても、最終的に大切な帽子を捨てるなんて、そんな悲劇の幕引きには結び付きませんよ」

 信号が変わり、また歩き出す。穂積はまた例のポーズをして、僕に気味の悪い流し目をした。

「きみは、真心を込めた手作りのプレゼントを、誰かにあげたことがあるかな?」

 一番なさそうな人から言われて軽いショックを受けたが、実際のところ、僕自身そんな記憶はない。

「さて、とあるカップルが夜道を歩いている。男は、女からもらった手縫いの刺繍入り帽子を被っている。コンビニで買ったチキンを食べているが、どちらが食べているかは、今は重要ではない。そこに、一匹のカメムシが飛んできて、男の帽子に止まった。慌ててふるい落とす男。そのままカメムシは美味しそうなチキンにしがみ付く。チキンには何の罪もないが、そこで捨てられる」

 今のところ、男女どちらか一人の時と話は変わらない。彼は話を続ける。

「男は、特に深い考えもなく、カメムシの止まっていた刺繍部分を匂ってみる。強烈な刺激臭に、思わず帽子を放り投げる男。派手なリアクションで、笑いを取ろうとでも思ったのかもしれない。帽子はゴミ捨て場に落下し、不幸にも誰かが吐き捨てたブルーベリー味のガムに衝突する。急いで拾い上げるが、後の祭りだ。いくら擦っても、ガムは取れない」

 あり得る話だ。不自然なところはない。

「では、ここで女の気持ちになってみよう。きみ、真心のこもったプレゼントを用意した人間の気持ちを再現してくれないか」

 なぜ、僕が。そんな物を用意したことがない側の人間だったはずなのに。

「ほら、早く」

「ええと、せっかくあげた帽子に、誰が吐いたかわからないガムがくっ付いて、すごく、つらい」

 彼は笑いを押し殺して、続きを促した。

「苦労して縫った刺繍が、カメムシ臭くなって、泣きそう」

「いいね、それから」

「いくら臭かったからって、ゴミ捨て場に投げ捨てるなんて、最低」

「それで」

「一生懸命がんばったのに。毎日夜遅くまで、最後は徹夜して、やっと完成させたのに、こんなことになって、なんかもう、死にたい」

「驚いた。ほんとはきみが縫ったんじゃないか?」

「茶化さないでください」

「すまん、最後まで続けてくれ」

「ええと、それから、そうだな。こんな帽子、作らなきゃよかった。こんな物、見たくもない。捨ててしまおう」

 突然、彼が拍手した。

「最高だね。きみ、役者の才能があるんじゃないか」

「二度とやりませんよ」

「つまり、そういうことだよ。それが一部始終だ。込めた気持ちが強いだけ、それにケチがついた時の落胆は、計り知れないものがあるだろうな」


 これは、初めから終わりまで、すべてが状況証拠でしかない。いや、証拠とも言えないような曖昧な断片から、想像を膨らませただけの物語に過ぎない。

 しかし、それでも、本当にそれが現実の終始だと思ってしまっている自分がいる。物語の妥当性がそうさせるのか、あるいは穂積という人間の話術に操られているだけなのか。僕はこの男を、時々おそろしく感じる。


 そうこうしている内に、再び、例のゴミ捨て場が見えてきた。チキンはどこかに消えていたが、帽子はまだ置かれたままだ。

「ちょっと、待ってください」

 僕はゴミ捨て場の付近を、念入りに調べてみる。彼の話が真実なら、きっとあるはずだ。ネットの下や、看板の影を、隈なく探してみる。すると、コンクリートの囲いの隅に、ようやく小さな塊を見つけた。

 それは、吐き出されたままの姿でへばり付いた、水色のガムだった。ただひとつ、その丸い形が、一箇所だけ奇妙にへこんでいる。まるで、帽子のつばがめり込んだように。

「穂積さん」

 彼は聞こえていないように、暗闇に沈んだ街並みを眺めていた。

「今回の帽子の事件、結局、被害者も加害者もいませんでした。事件と呼べるかさえ怪しい。ありふれた日常のワンシーンだ。そしてあなたは、ただ単に、その時起こったであろうことの顛末を、限りある情報から推測しただけです」

 彼はまだ遠くを眺めている。

「被害者とか、加害者とか、そんな物はパズルの一ピースに過ぎないよ」

「だったら、そのパズルを解くことに、何の意味があるんです」

 彼は驚いたように僕を見つめた。もしかしたら、それもまた、お決まりのポーズの一つなのかもしれない。

「パズルを解くことに、パズルを解くこと以上の意味があるなら、それはきみが考えたらいい」

 彼はそう言って、また歩き出した。僕はガムのことを伝える気にもならず、ゆっくりと後を追う。

「帽子は、捨てたままにするんですか」

 振り返ると、消えかけた街灯の光の下、帽子がぽつりと取り残されているのが見える。

「さっきのきみの役者ぶりは、たいへん素晴らしかったよ。きみがその道を目指さないなんて、実に惜しい」

「帽子の、話ですよ」

「その調子で、次は男の方もやってみたらどうかな」

 また茶化しているのか。それとも、この言葉のキャッチボールは、またどこかに命中するのか。

 男の気持ち。プレゼントにもらった帽子を、思わず雑に扱ってしまい、彼女の逆鱗に触れた男の気持ち。怒った彼女は、きっと取り付く島もなく、半ば強引に帽子を捨ててしまったのだろう。しかし、その帽子は、例えカメムシ臭かろうが、知らない誰かの吐いたガムがこびり付いていようが、男にとっては本当に大切な物だったのではないか。

「……きっと、拾いに戻る。あなたは、そう思っている」

 彼は両手を広げ、縁石の上を歩いている。さながら、サーカスの綱渡りのように。

「チキンが先になくなっていたね」

 ふらふらとバランスを取る後ろ姿が、やじろべえのように揺れる。

「野良猫に先を超されるようじゃ、恋人に愛想を尽かされるのも、時間の問題だな」


 彼にとっては、これが日常なのだ。犯人とか、事件性とか、劇的な展開とか、そういうのは、彼にとって問題ではない。あらゆる物が、所詮、パズルのピースでしかないのだ。そして、そのピースの上を、やじろべえのように、綱渡りのように、渡って行くのが彼なのだろう。もちろん、すべてのピースを、残らず拾いながら。

 僕は彼の真似をして、縁石に乗ってみる。けれど、すぐに降りる。変人は、一人でじゅうぶんだ。その人が綱から落ちた時、下で受け止める誰かがいてもいいんじゃないかと、そう思う。


 彼のアパートが見えてきた。

「なんだ、きみもまた我が城に戻るのか」

 本心なのか、欺瞞なのか。

「さては、こんな薄着の私に、手編みのマフラーでも用意しているのかな」

「鞄を取りに行くだけです」

 僕はまた、彼の呼び鈴を鳴らすだろう。

「というか、自分が薄着である自覚はあるんですね」

「チキンより早く冷めるとは想定外だったよ」

 それでまた、鳴り終える前にドアを開けるだろう。

「そうそう、ところで私がカップルだと考えた理由はもう一つあるよ。被った帽子に止まったカメムシは、自分では見えないだろう?」


 きっとその時も彼は、バランスボールの上で、面倒な何かに囚われているのだろう。

 そして、僕がやって来たことにさえ、気付きもしないのだ。

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