65 マモリリス2
二人のいなくなった屋敷を老執事は震える手で丁寧にきれいにし
屋敷に深く一礼をして、鞄一つを持ってどこかに去ったのだという。
『マモリリスは次のマモリリスになるお屋敷を探していたのです。こちらはいいにおいのするところでしたので、お邪魔をいたしました。ずっとあちこちにおりましたが、先日廊下の瓶の下にころりと転がっているものがありましたので、ちゅいちゅい』
「不勉強で申し訳ございません。マモリリス様はなにをなさるマモリリス様なのですか?」
えへんとマモリリスは胸を張る。
『マモリリスがお屋敷におりますと、お屋敷の方の気持ちがすこしよくなるのでございます。ほんのすこしでございます。なにもなくても、胸がすこしだけポカポカいたしまして、人にやさしくなるのでございます』
「素敵」
ソフィがそう言うと、マモリリスはますますえっへんとなった。
『マモリリスでございますので』
「マモリリス様はごはんは何を召し上がるのでしょうか」
『マモリリスはごはんをたべません。まあ、甘いものがあれば一口ぐらいはいただきますが、勝手にとったりはいたしません。マモリリスはあの灰色のものどもとはちがうのです』
「おなかがすきませんか?」
『お月様の光をたべるのです。月夜の晩にはあちらこちらのお屋敷の屋根のうえで、マモリリスたちがちゅうちゅうとダンスをしておりますよ』
「まあ……」
ソフィは想像した。
月の光を浴びてちゅうちゅうと体を揺らす、小さな可愛い何かのダンスを。
亜人や魔物とは思えない。きっとこれは何か
人知を超えた、なにか、なのだろう。
「ではまずおててをお治しいたします。そうしましたら甘いものをお持ちしますので、いっしょにお茶をしていただけませんか?お話し相手がいなくて、わたくしさびしいのでございます」
『よろしいですようつくしいおかた。さあどうぞ』
差し出されたちいさな手を、そっと手のひらで包むようにした。
『いたいのいたいのとんでいけ』
どこからきたのか、いつからいるのか
『とおくのおやまにとんでいけ』
人の心をぽかぽかにするこの可愛いものの手のひらが
元通りの可愛いピンク色になりますように。
光のおさまったそこには
ちいさな一そろいの、可愛らしい手のひらがあった。
『なんとおいしい光でございましょう』
うっとりとした顔でマモリリスは言った。
「今なにか甘いものを持ってまいります。どうぞお待ちになってね」
ソフィは調理場を覗き込んだ。
「レイモンド?」
がらんとしたそこに、彼の姿はなかった。
「レイモンド、いないの?」
「あ、お嬢さん」
調理場の奥から彼の声がした。
ソフィはそちらに向かって足を進める。
レイモンドは椅子に腰かけ何枚もの紙を丸めたものに囲まれて、何やら書き物をしていた。
「何をしていたの?」
「今日はご家族とオズホーン師で外でお食事会でしょう?皆さんの夕飯の準備がいらないから、お嬢さんの結婚パーティーのメニューを考えてました。来賓向けの分をおれがやって、量の多い一般のお客様向けにはほかの船の料理人を呼ぶことになってます。来賓は貴族も来るんですよね?責任重大な方を任されちゃったなあ」
がりがりと頭をかいている。
ソフィはレイモンドの肩の後ろから彼の手元を覗き込んだ。
癖の強い字が、紙の上を踊っている。
見覚えのあるメニューが書かれて、消されて、また書かれて
紙の上で踊る今までソフィの食べたことのある美味しいものたち
グルグルとめぐったのだろう彼の頭の中が全部そこに出ていて、ソフィはクスリと笑った。
「レイモンドのお料理はどれもおいしいわ。わたくし、みんな大好き」
ふわりと髪が揺れ、レイモンドがソフィに顔を向けたのがわかった。
彼を見る。
深い青の瞳と、近くで目が合う。
「……」
「……近いですよお嬢さん。前に言ったでしょう」
海のような
吸い込まれそうな青だった。
「おれはずっと男ですよ」
「……」
何か熱いものに触れたような気がして息を飲み、思わず体を引いた。
少しの沈黙があり、ふふっと彼が笑った。
「前からお嬢さんはきれいだったけど、今はもう目が潰れるほどの絶世の美女だ。どこ見たってこんなきれいな人はいません。もっと注意しなきゃ。男には近づいたら取って食われると思って接してください」
「ええ……ありがとう、注意してくれて」
「何か御用でしたか?」
「なにか、甘いお菓子はないかしら。お砂糖のようなもの。それと、果実のジュースがあれば、ほんのちょっぴりでいいからいただきたいの」
「誰か来てるんですか」
「ええ、小さなお客様が」
さきほどのは何だったのだろう、と思うほどいつも通りのんびりになったレイモンドが、瓶に入った口に入れるとしゅわしゅわする砂糖菓子と、果実のジュースを出してくれた。
「お邪魔してごめんなさい。どうもありがとう」
「どういたしまして。お嬢さん」
「はい」
頭二つ分ソフィよりも背の高い、長い金髪を後ろでひとまとめにした青い目の料理人は
穏やかに笑って、ソフィを見た。
彼はソフィが13歳のとき
学園をやめて引きこもり始めた年にこの屋敷に来た。
この大きな男の人はいつも笑顔で、甘いおいしいものを作ってくれるので、だんだんと怖くなくなって
いつの間にか家族のように思っていた。
「ご結婚おめでとうございます」
「……ありがとう」
そのまま互いに何も言わなかった。
瓶を受け取るときにほんの少しだけ指の先が重なり
そっと、離れた。
「マモリリス様、いらっしゃいますか」
『マモリリスはこちらにおります、うつくしいおかた』
ちゅうちゅうとマモリリスが鳴いた。
『おや、うつくしいおかた』
「なあに」
『泣いておいでですか』
「……いいえ」
『そうですか。これはうまそうだ』
すぐに砂糖菓子を癒えた可愛らしい手で持ち、カリカリとかじり始めた。
ソフィはその様子を、じっと見ている。
マモリリスが顔を上げた。
『お嫁入りですかうつくしいおかた』
「はい、その予定です」
『お嫁入りのにおいはさびしくて、どきどきして、うれしくて、さびしいですね』
「はい」
ほっぺたにひとつ砂糖菓子を入れたマモリリスは、しゅわしゅわ~っと震えた。
『このお屋敷にしようかと思いましたが、もしよろしければマモリリスをお嫁入りにお連れになりませんか。胸がぽかぽかのお家になりますよ』
「……マモリリス様」
『はい』
そっと手を伸ばし、ソフィはマモリリスに触れた。
マモリリスは嫌がることなく、ソフィのてのひらに収まった。
ふわふわだ。
そっと顔を近づけて頬ずりをした。
ブルブルとマモリリスは震えている。
『おはずかちいですうつくしいおかた』
「このお屋敷にいてくださらない?」
『マモリリスがおきらいですか?』
「いいえ」
ソフィの目から涙が落ちた。
「このお屋敷に、わたくしの大切な人がたくさんいるの。わたくしを大切にしてくれた人が、たくさんいるの。わたくし、その人たちをみいんな置いてお嫁にいくの。わたくしがいなくても、みんなには元気で、いつも胸がぽかぽかであってほしいの。新しいお家は、自分でがんばってぽかぽかにするから。マモリリス様、どうかこのお屋敷の人たちを守ってくださいませんか」
額にぽちんぽちんとソフィの涙の粒を浴びながら、くすぐったそうにマモリリスはソフィを見た。
『こわいまるはもう置きませんか』
「家のものにしっかりと言い聞かせます。美味しい甘いものも、いつも置いておくように言いますわ」
『じゃあいいですよ。このお屋敷はいいにおいがしますから』
「ありがとう」
宝石箱から取り出したビロードの赤いリボンを、ソフィはマモリリスの尻尾にそっと結んだ。
「お嫌な感じはいたしませんか?」
『光栄でございます!』
目をぴかぴかさせている。
「尻尾にリボンをつけた小さな方がいても、害さないよう、皆に伝えます。もしリボンが取れてしまったら、二階の大きな寝室にいる女性にお声がけください、わたくしの母です」
『ああ、あのうつくしいおかたですね』
「はい」
『承知いたしました』
ぴょんとマモリリスは飛び上がり
ちょんと伸びてぺこんとお辞儀をした。
『マモリリスはこのお屋敷のマモリリスになりました。またお会いしましょう、うつくしいおかた』
しっぽのリボンを翻し
小さなお客様は姿を消した。
「ソフィ嬢、失礼する」
いつも通りそう言って現れた四角い男の胸にすがり
顔を押し付け、ソフィはしばし、泣いた。
事情を知らない男は、動じずに婚約者を抱き留め大きなてのひらで優しく撫でた。
愛しい、愛しい、とその手が言っていた。
片づけ途中で半分がらんとしたサロンは
さびしくて、どきどきして、うれしくて
さびしいお嫁入りのにおいがした。




