64 マモリリス1
『お嫁入り』の準備に屋敷がそわそわと沸き立つなか
お屋敷にネズミがいる、とマーサが非常に暗い顔で呟いた。
まあ、とソフィは口に手をやった。
マーサはネズミが大嫌いなのだ。
毒えさをえいやえいやと鬼のような顔で仕込んでいるのをあらあらと見てから数日後。
ことん
ことん
ソフィのサロンに片づけの音が響いている。
手伝おうとするマーサ、クレアに断りを入れて
ソフィは一人、サロンの飾りつけを片付けている。
結婚式まであと一月、中央に行くまであと一月半
新しい広告を撒くのをやめたソフィのサロンには
さっぱり手紙が届かなくなった。
新しいものが常に上書きされるこの世界で
『化物嬢ソフィのサロン』のことは、訪れてくれた人たち以外もしかしたら誰も覚えていないのかもしれない。
ソフィは訪れたお客様の顔を思い出しながら指折り数えた。
14名
広告を使い、人を使い、14名。金持ちのお嬢さんの道楽、たったの14名と笑われる数だろう。
だけど
そっとソフィは胸を押さえた。
この場所でのあの時間、あの日、あの日に流れた空気を、ソフィは忘れない。
たったの、ではなかった。
絶対にそんな言葉で済ませるものではなかった。
引きこもりの令嬢が一人で外に出られるほどの
人を愛し、その人についていくと決断できるほどの何かを、その数字はくれたのだ。
癒したのはソフィじゃない。ソフィこそが癒された。
ここで語られる自分のものではない悲しみや苦しみが
癒されることの喜びが
ソフィを癒し、前に進むことのできる強さを与えてくれた。
「……あら?」
テーブルの上にメモ書きのような小さな紙が落ちていた。
さっきまではなかったはずだ。
何かにくっついていたものがはがれて落ちたのかしらとそれをつまみ上げて読んでみるも
くちゃくちゃと小さく書かれた線は、字には見えなかった。
はてなと首をかしげ、くず入れに入れかけて
思い直して絵の入っていない額縁に、それを入れた。
柄の文様が面白いので、なんとなく立てておいた額縁だった。
「お嬢さんお昼御飯ですよー」
「はーい」
レイモンドの声に、ぴょんと弾んでサロンを飛び出した。
夕暮れ
またソフィはサロンにいた。
整理しようと思った本棚から抜き出した本が気になって、ついつい読んでしまうという罠にはまり、熟読しているときだった。
『ちゅう』
そんな音……いや、声がした。
顔を上げて辺りを見回したソフィは来客のテーブルの上にある
拳ほどの大きさの生き物の存在に気が付いた。
『ちゅう』
「まあ……」
夕焼けの光を浴びているはずなのに、なぜか金色に輝いて見えるネズミ……ネズミにしてはちょっと可愛い何かがそこにいた。
「どこからお入りになったの?あなたにこのお屋敷は危ないわ。こわーいこわーいメイドさんがいるのよ」
本を閉じ優しく呼びかけてソフィはそっと歩み寄った。
ドブネズミには見えないし、ほんわりとした何やら優し気な雰囲気を纏っているそれが危ないものには見えなかったからだ。
噛むかしら? 逃げるかしら?
そう思っていると
『お手紙を出しました。治してください』
誰かが言った。
きょろきょろとソフィは辺りを見回した。誰もいない。
『ちゃんとお手紙を出しました。おててが痛いのです。治してください』
「……」
ソフィはそのネズミのようなものに近づいた。
「今お話しになりまして?」
『はい』
「おしゃべりが上手なのね」
『マモリリスでございますからね』
気持ち誇らしげに、『マモリリス』は胸を反らせた。
「……驚きました。マモリリス様は人間を噛むのはお好きですか?」
『マモリリスは人間を噛みません。マモリリスでございますから』
「ほんのちょっぴりの甘噛みも?」
『はい。マモリリスでございますから』
「では正面の椅子に失礼いたしますわ」
ソフィは椅子に腰かけた。
『マモリリス』はちょこんとテーブルに座り、『ちょうだい』をするように手のひらを差し出している。
じっとその小さな手のひらをよく見れば、焼かれたように赤くなっている。
「おててはどうなさったの?」
『なんだかまるい面白そうなものがありましたのでちゅいちゅい触りましたら』
「ちゅいちゅい」
『じゅわっと手のひらが焼けたのです。毒を誰かが置いたのです。わたくしはマモリリスなのに、ひどいことをするのでございます』
「さっきちゅうとおっしゃったわ」
『口癖でございます』
「そうなの」
マモリリスがちゅいちゅい触ったものは、きっとマーサの置いた毒餌だろうとソフィは思った。
そっと指の先にちいさな手のひらを乗せてじっと見た。
可哀そうに、びろりと擦りむいたように皮がはがれている。
「うちのメイドがごめんなさい。あなたをネズミと間違えてそれを置いたの。どうか許していただけませんでしょうか」
『ネズミ!』
ぴょんとマモリリスが飛び上がった。
とんとんと足踏みをして憤慨している。
『マモリリスはマモリリスでございますのに!あのような灰色のものとお間違いになるなんてひどうございます』
ふさふさとした尻尾をアピールするようにソフィに向けてピンと伸ばした。
「ごめんなさい。こんなにきれいなものを見逃すなんて。今度かの者にはしっかりと言い聞かせますので、どうかお許しいただけませんでしょうか」
ソフィは頭を下げた。
ぴょんとマモリリスが飛び上がった。
『謝らないでくださいうつくしいおかた。毒を置いたのはあなたさまではございません』
「いいえ、わたくしの大切な人なのです。どうかお許しください」
『……治してくださいましたらもうマモリリスは怒りません。ちゅいちゅい触ったわたくしも悪かったのです』
「ありがとう」
『マモリリスはここを知っています。だからちゃんとお手紙を出しました。おててをなおしてください』
「お手紙……」
はっとして立ち上がり、ソフィは額縁を手に取った。
「こちらでございますね?」
ぴょんとマモリリスが飛んだ。
『おててが痛かったので、おはなでかいたのであります』
「ご面倒をおかけして申し訳ございません。もしよろしければ、どこで丸いものをちゅいちゅいお触りになったのか教えていただけませんか」
『はい』
そうしてマモリリスが語るには
マモリリスはひと月前まで近所のお屋敷にいた。
子のないおじいさんとおばあさんの貴族で、屋敷には老夫婦と、これまた老いた執事が一人だけ。
皆ゆったりとどこかに腰かけ、ご飯のときだけ動き、またゆったりと腰かけ、外を見るのが好きだった。
『野菜屋さんがこんなものを持ってきたよ』
ある日おじいさんがおばあさんに紙を見せた。
覗き込んでおばあさんがあらまあと声を上げた。
『すぐ近所ではないですか』
『肌一枚なら治せますとあるよ。どうだね、行ってみるかね』
そう聞かれ、考えて
ゆったりと首をふったお婆さんの顔には、大きな紫色のあざがあった。
『わたくしがきれいになったらあなた、若い殿方のライバルがわんさかと現れますことよ』
ふっふっふと二人で笑い
その紙はテーブルの上に置きっぱなしになったのだという。
『マモリリスはもうあのお屋敷のマモリリスではなくなったのです』
「どうして?」
『ご主人がみまかられました。おくさまもすぐに、あとを追うように。おふたりともご病気だったのです』
「……」




