60 忌まれの殻
夜
寝室で一人、鏡を見ていたソフィは、ノックの音に振り向いた。
「はい」
「ソフィ様、マーサでございます」
「入って」
かちゃりと扉が開き、マーサと
もう一人、侍女の服を着た女性が入ってくる。
「あら?」
若いメイドはソフィの生活範囲には入らない。
いったいどうしたのかしらとソフィはマーサを見た。
「マーサ、そちらの方は?」
「メイドのエマと申します。よろしくお願いいたします」
30代の前半だろう。
マーサ仕込みとわかる姿勢の良さで、やわらかく礼をした。
落ち着きのあるブラウンの瞳が、眩しそうにソフィを見ている。
「ソフィ=オルゾンです。よろしくお願いいたします。……マーサ、どうしたの」
「はい、ソフィ様はオズホーン師の中央帰還に合わせ、この屋敷をお出になりますね」
「ええ」
ソフィは頬を桜色に染めた。
オズホーンの任期はあと2月。
大急ぎで嫁入り道具を整え、同じ馬車で中央の彼の家についていく予定だった。
「時期はともあれ、この家からメイドが付くことでしょう」
「そうね」
「そのときはこのエマめをお連れなさいませ。気働きの良い、口が固く我慢強く、根性のあるメイドです」
「……マーサ……」
結婚に伴い嫁の実家からメイドが付き従うことは、裕福な家柄ではままあることである。
ただ一人連れていくのなら、ソフィは当然マーサをと思っていた。
「ついてきてくれないの?マーサ」
ソフィの気持ちがわからないはずのマーサではない。
背筋をピンと伸ばし、マーサは答える。
「ソフィ様」
「はい」
「マーサは老いました」
「……」
「針に糸を通すことも、細かい字を読むことも難しくなっております」
「そんなこと」
「これからのある若いお方には、若い者が付くべきです。未来のために」
言い切るマーサの鋭い目には、鋼のような決意があった。
いつか
そうクロのところへ行ったとき
わずかに背筋を曲げ、新芽を見ているマーサの姿を思い出した。
あのときマーサは未来を
ソフィの未来をそこに見ていたのだ。
「エマさん」
「はい、お嬢様」
「本日はご挨拶をありがとう。ごめんなさい、少し外していただいてもよろしいかしら」
「はい」
しっかりものの声で答え、礼をしてから扉を閉める。
ソフィとマーサは向き合った。
いつも強くて、厳しかったマーサ
彼女はいつの間にこんなにも、小さくなっていたのだろう。
「ソフィ様、近くでお顔を拝見してもよろしいですか」
「ええ」
包帯を替えながら二人で泣いたのは、つい一年前のことだ。
「……ユーハン様とシェルロッテ様の良いところを受け継いでいらっしゃる。なんとも清廉で、本当にお美しい」
「マーサ……」
老いた侍女のしわだらけの指が、優しくソフィの顔を撫でる。
「……本来であれば誰よりも称賛されるべきお嬢様の積み重ねられた教養」
「……」
低い老女の声が、歌うように言う。
「思いやりにあふれたお優しい心全てを、あのお方は病に惑わされず見出し、愛するとお誓いになりました」
「ええ」
「美しさへのありがたみがないのはいかがかと思いますが」
「そういう方なのよ」
「馬鹿のような格好で」
「意外とだまされやすい人なの」
くすくすとソフィは笑った。
「わたくしが心から憎んだあの病めは、お嬢様が」
「なあに」
「あのお方に出会うまでの、お守りだったのかもしれません」
「……」
いつも厳しく光るマーサの目が
どこか
遠くを見ている。
「マーサめから、一つ昔話をいたしましょう。かつて隣国のさる高位の貴族に、咲き誇る薔薇のごとき、美しい少女がおりました。早くに母親を亡くし、継母はそれは陰湿に、残酷に、人間とは思えぬ所業で娘をいびりぬきました」
「……マーサ」
「いびるだけいびりぬいたうえで、政治の道具として40も上の好色な男に嫁がされようとしているところを、この娘に惚れ抜いた若き無名の船乗りが、古参の侍女ごと娘をさらいました。おおやけにできることではございませんので、貴族の娘はかの国では海に落ちて死んだということにされております。この国に落ち着き、睦まじいにもかかわらず何年も、何年も子に恵まれず、ようやくお子を授かったとき、あの方はたいそうお泣きになられました」
「……やっと生まれた娘が、おかしな肌だったから」
ソフィは眉を下げた。
「いえ、可愛いと」
「……」
「可愛くて愛しくて仕方がないと。娘にお乳を含ませながら泣いていらっしゃいました」
涙の伝うソフィの頬を、マーサが撫でる。
「お小さいころからこの輝くばかりのお美しさが外に現れておりましたら、オルゾン家の娘の名は人の口の端に上り、きっと他国にも伝わったことでしょう。ご両親に似た美しいそのお顔だちと、年回りで、ソフィ様のご出生の秘密が、あきらかとなったかもしれません。ひょっとしたらその美を、その血を取り返しに、あの方を苦しめたあの者どもの手がソフィ様に伸びたかもしれません」
ソフィは胸に手を当てた。
「既婚者で、夫が王家直属の癒師ともなれば、きゃつめらもそう簡単には手を出せますまい。きっとあの病めはあなた様を守る、殻だったのでございます。ソフィ様が何者にも邪魔されず、真に愛する男性と結ばれるための。皆に忌まれ憎まれながらも御身をお守りする目眩ましの殻だったのでございます。惑わされずにあなた様を愛する殿方が現れ、あなた様がそれを愛したことで役目を終えたかの殻は、あの薬売りを呼び寄せ消えたのでありましょう。マーサはあの薬売りの話を聞きソフィ様のこのお姿を拝見し、そう思いました。どうかあの殻を、お恨みにならないでください」
「マーサ……」
そっとマーサがソフィの体を鏡に向ける。
父にも母にも似た、美しい人がそこに映っていた。
「ご覧くださいこの赤子のような肌。知性に輝くエメラルドの瞳。ばら色の頬、果実のごとき濡れた唇。こんなに美しい女性はそうおりません。あの癒師め。なんと果報な男でございましょう」
はらはらとマーサは涙をこぼした。
「この宝をお育てできたことは、このマーサ、生涯のほまれにございます。どうか王都に行かれましてもお体を大事に、無理をなさらないでください。わたくしもまたここで、わたくしの役目を終えたのでございます」
ソフィはマーサに抱きついた。
鋼のようだと思った彼女の体は
年相応の、老いて痩せた女のものだった。
ソフィは彼女をぎゅっと抱く。
「はしたのうございます、お嬢様」
「ええ」
「上の者のする態度ではございません」
「ええ。わたくしをもっと怒って」
「困ったお嬢様でございます」
抱き合って主従は泣いた。
別れの日がひしひしと、近づいていた。




