56 じいさんを探せ1
オズホーンの腕を振り払ってからの数日間
ソフィはサロンのソファで、ぼんやりと本を読んでいた。
否、本を抱えていた。読んでも読んでも内容が少しも頭に入ってこないのだ。
『あなたが好きです、ソフィ嬢』
熱い声が何度も耳に蘇り
そのたびに溢れそうになる涙を飲み込んだ。
自らその手を振り払ったくせに
いつものあの四角い声が、扉の先から聞こえないかと耳を澄ませている浅ましい自分が悲しかった。
と、急に扉の向こうが騒がしくなった
「マーサ? クレア? どうしたの?」
「ソフィー!!!」
あの声は
「イザドラさん!?」
顔を真っ赤にしたかのダンサーが、腰に巻きつくマーサを引きずり走りこんできた。
今日はアル君はくっついていない。
「ソフィ、見つかった! 見つかったよ!」
がっしと手を握られる。
「触ると汚れるわイザドラさん。どうしたの? 何が見つかったの?」
椅子を勧めようとしたソフィは、続くイザドラの言葉に固まった。
「あんたを治せる人!」
はぁはぁと息をしながら、輝くばかりの生命力あるダンサーは叫ぶ。
「治せる人だよソフィ! あんた治るんだよ!」
そうして彼女は語りだした。
今日は珍しく昼の仕事が入っていた。
『脱がない踊り』をするダンサーであることを街のあちこちにある掲示板に広告を張って(字は知り合いに書いてもらった)宣伝していたがほとんど反響はなく、夜の仕事で稼ぎながら気長にやってくしかないかなと思っていたところに
とあるパーティーの余興として検討しているから一度踊りを見せて欲しいとの文が届いた。
結果はまだわからないが、なかなかいい反応をもらえたような気がして、ほくほくしながら帰る途中だった。
「アル君はどうなさったの?」
「隣のばばぁが見てくれてる」
「まあ」
ぱあっと顔を明るくするソフィに、イザドラは笑った。
「あんたの言ってくれたのをやったんだ。あいさつ、無視されたけどがんばったよ。でこないだアルが泣いたとき、叫んでみた。バタバタバタッてばばぁが5人来たよ。多いだろ? 来すぎだよ!」
「まあ!」
よかった
よかった
もうイザドラはもう、締め切った部屋に二人きりではないのだ
「本当によかったわ……」
涙ぐむソフィを、イザドラは優しく見つめた。
「ええとなんだっけそれで、帰り道に知り合いの女スリに会って」
「肩書がアンダーグラウンドだわ」
「なんか気が合うんだよね、それで」
ちょっとお茶でもしようかと店に入り、なんとなく流れでソフィのサロンの話になった。
ソフィの病の様子を伝えたところ、友人が
『アタシ、それ知ってるかも』
と言い出した。
そして彼女が語るには
ちょうど一年ほど前のこと
仕事の縄張りにしている場所の一角に、子供の乞食が座るようになった。
まだ子供なのにどうしたことだろうと顔を覗き込んでぎょっとした
茶色い奇妙なぼこぼこの肌
ところどころひび割れ妙な色のねばねばする液を垂れ流し
まるで人のものとは思えないような顔をしていた。
きっと変な病気で親に捨てられたのだろう、と彼女は思った。
可哀そうに、とは思うも、してやれることなどなにもない。
こっちだって生きていくのが精いっぱいの裏稼業なのだ。なんとなく気にしてたまに様子を見たり、成果があった日にパンを置いてやったりする、野良猫にする程度の親切を気が向いたときだけやっていた。
「いい人ね」
「スリだけどね」
そんなある日
少女の正面に、痩せた爺さんがしゃがんでいた。
変な性癖を持つエロじじいならぶんなぐってやらなきゃと思い、こっそり彼女は近づき身を隠した
『うん、うん、ここが曲がっとる』
爺さんは女の子の頭の上の何もないところを触っている。
『大変だったの、小さいのに、よく頑張った。お前も切なかったなあ、今治してやるからな』
爺さんの指にぐっと力が入ったのがわかった。
『ポキッと』
爺さんが口で言った。
何がポキッとなのかわからなかった。爺さんがつかんでいるのは空気なのだ。
『良し、良しこれで良し。ひと月もすれば病んだ皮がはがれてきれいになる。治ったらこんなところにいないで、孤児院に行きなさい。もう誰もお前さんをいじめたりせんよ。お前さんはまだ小さいんだ。15歳になれば魔術の才が見いだされよう。辛い経験を恨みに変えず、精進し、きっと正しく使うのだよ。じいさんとの約束だ』
そう言って、脇に置いていた大きな荷物をよっこいしょと背負いなおし
帽子をかぶり、杖をつき、爺さんはえっちらおっちらと去っていった。
ただの頭のぼけた爺さんだったかとそのときは思ったが
日に日に女の子の顔からかさぶたがはがれるようにあの奇妙なぼこぼこが減っていき
一月後にはツルツルの、当たり前の可愛い少女になったという。
孤児院に入りたいけど場所がわからないと泣く少女を、悪態をつきながら近くの孤児院まで引っ張っていってやったというのだから面倒見のいい女スリである。
「ねえ! そのじいさん探そうよソフィ! あたし手伝うから!」
頬を染めてイザドラが言う。
ぐっとソフィは言葉につまった。
「ソフィ?」
イザドラが怪訝な顔をする。
「でも……その方がどこの誰かもわからないのだし……そもそも同じ病気だったかのかもわからないのだし……」
「……どうしちゃったんだよ……」
イザドラがポカーンとしている。
「あんたなら『今すぐ探しに行きますわよ!』とか言うと思って、あたし、早く知らせなきゃと思って走ってきたんだよ。きっと喜ぶと思って。なんだよその弱気、あんたらしくないじゃないか」
「……ごめんなさい」
ぽろりと涙が零れた。
「ソフィ……?」
「わたくし、なんだかおかしいの。近頃急に、心が弱くなってしまって。あなたにあんなにえらそうにものを言っておきながら恥ずかしい。ごめんなさい」
目をハンカチで押さえるソフィをジーッと見て
ははん、とイザドラは笑った。
「好きな男ができたんだろ」
「……」
なんだろう
イザドラに言われると、なんだかとても悔しい
鬼の首をとったようにイザドラが笑う。そしてゆらゆら揺れる。
「あ~あソフィも女になっちゃったねぇ。『アナタが好き、でもあたくしこんな顔なの、勇気が出ないの。ああ、いや、いや、駄目よ、ご無体な、およしになって~』」
歌うように言いながらくねくねと踊る。
あながち外れていないのが非常に悔しい。
ピタとイザドラは動きを止めた。
「だったらなおのことだろ。きれいになりたいんだろ? きれいになったとこそいつに見せたいんだろ? 黙ってたって治んないんだからやれることしようよ。今日はアルもいないし、手伝うから」
「ダメだったら?」
「なんであたしがそこまで考えなきゃいけないんだよ」
キョトンとされた。
それもそうだと思った。
「よし行こう!」
そうして二人は街に出た。
「じいさんですか」
「ウン、こういうひげがあって、こういう変な帽子で、蛇のついた杖をついて、でかい箱と布袋をしょってるんだって」
さらさらとイザドラが砂に絵を描いた。
意外にうまくて驚いた。
ふんふんとそれを見ている亜人の黒い耳が兜から出てぴょこぴょこしているのをソフィは見ていた。
「クロ様、お耳が出せるようになりましたのね」
クロは照れたように頭に手をやった。
「勲章は出ませんでしたが兜に穴が開きました。おかげで蒸れもせず、よく音が聞こえるようになりました」
「よかったわ」
うふふとソフィは笑った。
和やかに見つめ合ってから
キリ、とクロがかっこいい顔をする。
「毎年10日間ほど、この街に滞在する流しの薬売りの爺さんですな」
「わかるの!?」
「あの薬臭さ、この杖と帽子はなかなか忘れられるものではありません。ソフィ殿」
「はい」
「この者は3日前にこの門をくぐっております。残りは7日。早急にお探しになるべきだ」
二人は走った。
イザドラが早すぎてソフィはヒーヒー言った。
「ソフィ様!」
イザドラにちょっと待ってもらって道の端でヒーヒーしていると声がかかり、ソフィは振り向いた。
「あら」
野菜がたくさん積まれたお店の前で、おーいおーいと60代くらいの男性が手を振っている。
「ヤオラさんの!」
いつぞやサロンに訪れた、ヤオラの息子さんである。
立派で親しみやすい店構えに、ふんわりと胸があたたかくなった。
男性が包丁を持ったまま駆け寄ってくる。ちょっと怖い。
「先日はありがとうございました。どうしたんです大丈夫ですか? 瓜食いますか?」
「ありがとう」
目の前でバスッと切られた甘い瓜に一瞬ウィリアムの最期を連想したが、乾きには勝てず口に運んだ。
甘さと水分が染みて染みて、泣きそうになった。
結構甘いねとイザドラが種をぷっぷしている。
「どこにお急ぎです」
「ちょっと宿屋街に」
「こっからじゃあ結構ありますよ。ああ、もしよければ」
「舌嚙まないよう、歯ぁ食いしばってくださいお嬢さん方!」
「あがががががが」
「お嬢さんだって! あんたいい男だねぇ!」
すらりと背の高い男――ヤオラのひ孫が威勢のいい声を上げながら、走る走る
石だらけの道を、いつか彼らがサロンに引きずってきた野菜用の荷車が走る。
その上でガタガタとソフィは上下していた。
イザドラは楽し気に歓声を上げている。
「右に曲がりまーす!」
「あー!ががが」
「イエーイ!」
「左に曲がりあああす!」
「あー!がががががが」
「いやっほーい!」
そうして宿屋街に到着した。
「ソフィさん? どうなさったの?」
「お仕事中ごめんなさいリリーさん、おええ」
えずくソフィをリリーは優しく椅子に座らせ、背を撫でてくれた。
「あなた様は?」
「ダンサーのイザドラ。ソフィに腹の線を消してもらったんだ」
リリーの顔が納得に変わった。
「ソフィ様の元同級生でこの宿の娘のリリーと申します。わたくしはソフィさんに顔の火傷を治してもらいました。」
二人に連帯感が生まれたのがわかった。
乗り物酔いでグールグルのソフィに代わり、事情をイザドラが説明する。
リリーが持ってきた紙にイザドラがまた絵を描いた。相変わらず上手い。
「あと何枚か同じものお描きいただけますか?」
「いいよ。あんたきれいだねえ」
「イザドラ様も、お美しいわ」
リリーが出してくれた清涼感のある茶のおかげでようやく吐き気が収まったソフィに、リリーが向き直る。
「ソフィさん」
「はい」
ぴんと伸びた姿勢が美しい。
思わずソフィもぴんと背を伸ばした。
「ご事情はわかりました。ですが我々宿を営む者は、お泊りのお客様の情報をよそに流すことはいたしません。お客様との信頼関係は、宿の宝でございます」
きり、とした瞳がきれいだった。
「はい」
「ですのでこの絵をもとに、ここ一帯の宿屋をわたくしと家族で回り協力を求めます。お泊りかどうかをお伺いするのではなく、探している者がいることを伝えていただき、もしご協力いただけるのであればご本人からわたくしにご連絡をいただくやり方とさせていただきます。よろしいでしょうか」
「もちろんです」
「ありがとう。ご連絡があればわたくしがこの方をサロンにお連れします。ただ待つのはお辛いとは思いますが、信じて待っていていただけますか」
リリーがソフィを見つめた。
淡い色の瞳が、燃えているのが分かった。
「リリーさん、この宿屋街にお泊りという確約はないのよ、そんなに気負わないで」
「気負っておりません。燃えているのです」
「そんなに燃えなくていいのよ」
「きっと私の家族も燃えましょう。一同、あなたには」
つうと一粒、リリーの目から涙が落ちた。
「いつかご恩を返したい、ずっとそう思っていたのです。どうかやらせてくださいソフィさん。この街でこれを成すのに、我々ほど適したものはおりません」
「リリーさん……」
ソフィの目からも、一粒
涙が溢れた。あの日の教室のように。




