53 癒師クルト=オズホーンの帰還
昼間のビアンカの情熱が淡く残っているようなサロンに
その男は現れた。
マーサの先ぶれを受けサロンで待っていたソフィは、扉が開いた音に顔を上げた。
「……」
遅かったじゃない
どうして文の一通もくれなかったのと
責めたい気持ちもあった。だが
彼にかけるべき最初の言葉を、もうソフィは知っていた。
「おかえりなさい、オズホーン様」
笑顔を向けようと思うのに
涙が溢れて、頬を伝っていった。
『お湯をいただけるかしら。あと、今日は外してほしいの、マーサ』
ソフィにそう言われた老いた侍女は背筋を伸ばし
『承知いたしました』
ひとつの動揺も見せず、ソフィの願いを受け入れた。
「ご無事で何よりです」
言いながら、テーブルに着いたオズホーンにソフィは手ずから茶を入れる。
いつもピシッと真面目に一分の隙もなく整えられた服装は
土がつき、ところどころほつれ、薄汚れていた。
初めて見る癒師の白い高級そうな制服は、彼にとても似合っていた。
「わたくしでお嫌でなければお体をお拭きいたしますわ。お帰りになって、そのままこちらにいらしていただいたのでしょう?」
じっと黙ったままオズホーンがソフィを見る。
ソフィも彼を見る。
この方はこんなかたちをしていたかしらとソフィは思った。
短髪から覗く形のいい額
真面目そうな眉、理知的な黒曜石の瞳
スッと通った高すぎない鼻筋に、厚すぎも薄すぎもしない唇
耳の形まで真面目に整い、筋張っていない首にぽこんと浮き出た喉仏
「……自分で行います、布をお借りできますか」
「でしたらお背中だけでも」
「いえ、今あなたに触れられて理性を保てる自信がありません」
きっぱりと彼は言った。
「ご冗談を」
「おれも男です、ソフィ嬢」
初めて『おれ』と言ってソフィの手から布を受け取った彼の体から
土のような、汗のような
男の匂いがした。
オズホーンが上半身の服を脱ぎ捨て、布で体をぬぐっている。
ランプの明かりに浮かぶその体を、ソフィはじっと見つめていた。
着痩せするひとだったらしい。必要なところに必要な筋肉がある立派な体つきをしていた。
その背中にひび割れたような大きな跡があることに気づきソフィは問いかけた。
「お背中はどうなさったのですか」
「飛んできた岩の下敷きになりました。一度はちぎれたのを、ほかの癒師に癒されました」
「……」
「癒術を受けるのがあんなに苦痛だとは知らなかった。できることならば二度と御免こうむりたい」
「……危険な任務でしたのね」
「予想よりドラゴンが大きく賢かった。一度は洞窟に追い詰めたものの、そこから長期の籠城戦になりました。最前線の屈強な戦士が肉の細切れになって吐き出されたときは、元気のいい冒険者たちもさすがにしんとしたものです。ああなってしまえばさすがに治せるものではありません」
「でも勝った?」
「最終的には」
「お疲れさまでした」
「はい、疲れました」
オズホーンがソフィに振り向いた。
「ソフィ嬢」
「はい」
「癒していただけませんか」
疲れをにじませる黒の瞳が、それでもまっすぐにソフィを見つめる。
「あなたの癒しを受けてみたい。お願いします」
「はい、ではがんばったご褒美に」
ふっとオズホーンが笑った。
「ご褒美ならほかのものが欲しい」
「何のことかわかりませんわ。お背中をこちらに向けてください」
椅子に座るオズホーンのひび割れた背中をじっと見た。
そこを、指でなぞりたい気がした。
でもソフィが触れればせっかくきれいにした肌が汚れてしまう。
ソフィはぐっとこらえ、手のひらをかざして詠唱した
『いたいのいたいのとんでいけ』
大きな岩が目前に迫ったとき
彼は何を思っただろうか
死を意識したそのときに、走馬灯の中に
ソフィのことを思い出してくれただろうか
『とおくのおやまにとんでいけ』
目の前で救うべき命が途切れていく
癒師として、きっと辛いこと、歯がゆいことがたくさんあったはずだ。
心の休まらない、壮絶な日々だったはずだ。
彼が今日、帰ってきてくれた。ここに。
ソフィのサロンに、湯にも入らず着替えの時間すら惜しみ、まっすぐに来てくれた。
それがソフィは、涙が出るほど嬉しい。
戦いの記憶を
少しでも、その痕跡を消して差し上げたい。
詠唱を終え光が収まったそこに
つるつるぴかぴかのなめらかな筋肉のついた背中が浮かび上がった。
ホッと息を吐く。
戦場のイメージを、正しく持てるか不安だったからだ。
癒師によってできた傷だから、またマナをたくさん吸われるかと覚悟したが、それもなかった。
澄み通る水のように
すっと
ソフィのマナがオズホーンに広がるのがわかった。
「……こんなにも優しいのか」
ぽつん、とオズホーンが言った。
「え?」
「あの修行不足の糞癒師とは雲泥の差です。あたたかい湯に浸かっているような、柔らかな光に包まれているような心持ちでした」
「……」
「こんなにも優しく、あなたは人を癒すのですね。寄り添い、包むように、人を思って」
「……それしかできないから」
「それをできる人間は、多くありません」
オズホーンの大きな手が指の先に触れ、ビクンとソフィは手を引いた。
空を切った男の手は、そっと自身の膝に戻される。
椅子に掛けていた制服を男は身に纏う。
ぱちんと襟の金具を留め、彼はソフィに向き直った。
「オズホーン様、これをお返しします」
沈黙を恐れソフィは言い、首から下げていたリボンをほどいた。
むき出しでは変な汁が付くし、金属だと刺激になるので、リボンに下げた小さな袋にそれを入れていた。
取り出したものを、男に渡す。
金属の認識票はソフィの熱で、じんわりとあたたかい。
「おかえりなさい。ご無事で何よりです」
「……ずっと身に着けていてくださったのですか」
「持っていてくれ、無くすな、汚すなとおっしゃったのはあなた様ですわ」
「そうですね」
手渡された認識票をじっと見つめ
オズホーンは胸の片割れに、かちんとそれをつけた。
伸びてきた手に、腕を握られた。
力強く、だがそっと、オズホーンの胸に抱かれていた。
「……」
ソフィは震えていた。
ぎゅっと抱きしめられた。
身を離そうと胸を押すが、女の力に男の腕はびくともしなかった。
「お慕いしています。ソフィ=オルゾン様。おれはあなたが好きだ」
耳元で響くかすれた低い声に、ソフィは怯えた。
怯えたのは彼が怖いからではない。
その言葉に喜びに震えた自分を、恐れたのだ。
「……離して」
「ずっとあなたのことばかり考えていました。今頃何をなさっているだろうか、どんな相手となんのお話をなさっているだろうか。道端のこの花を持っていったらあなたは喜ぶだろうか」
「お願い……」
「サロンを訪れた他の男に見染められていないだろうか、奪われていないだろうか。まだおれの帰りを待っていてくれているだろうか」
男の体の熱と、その言葉の熱に包まれていた。
オズホーンの手のひらはソフィの体をまさぐることはなく
大切なものを守るように、包むように抱いている。
「お願い、オズホーン様」
「毎晩あなたの夢ばかり見ていた。あなたには言えないような夢を。震えないでくださいソフィ嬢。おれはあなたの心が欲しい。こんなにもか弱いあなたを力づくで奪ったりしない。あなたの望まないことだけはしたくない。どんなに心がそれを求めても、そんなことをしたらおれは絶対に自分を許さない」
「……もっときれいなひとが、ふさわしいひとがたくさんいるわ」
「おれはあなたを世界一美しいと思っています。女性を、人間をそう思ったのは初めてです」
「……」
「愛をいただけませんか、ソフィ嬢」
「……あなたを汚すのが、いやなの」
溢れた涙をオズホーンの指がすくった。
そこに変な汁がついてねばっとするのをソフィは見ていた。
また涙が溢れた。
「わたくしが隣に立つことで、あなたが笑われるのがいやなの。あなたを傷つけるのがいやなの。肌を合わせて血まみれになるあなたを見たくないの。……あなたがいずれ人に馴染み、人の美醜に気付いて、わたくしを、……わたしを」
ひっくとしゃくりあげた
「化物を見る目で見る日が来たら、わたしは今度こそ生きていかれない!」
ぼろぼろと涙が溢れた。
汚れをオズホーンの制服に着けないように、必死に背をそらせてソフィは泣いた。
ソフィは怖い
人から、あの目を向けられることが。
もしもその目が、この漆黒の
きれいな黒曜石の瞳だったらと思うことが。
「お願い、オズホーン様。お帰りになって。どうぞ頭を冷やしてください。ご自身の輝かしい未来をお考えになってください。お願いします」
沈黙ののち、涙に濡れるソフィからそっとオズホーンの腕が離れた。
「怖い思いをさせて悪かった。ソフィ嬢」
泣きながらソフィは首を振った。
オズホーンの腕は優しかった。ちっとも怖くなんてなかった。
ぱたんと扉の閉まる音を聞いてからも
ソフィはそこにうずくまり、溢れる濁った涙をぬぐっていた。




