52 酒場のビアンカ2
「お宝を売ったら結構な金額になったので、店を買ったわ。10人も入ればいっぱいの小さな店だけど、女一人が食えればいいのだから、どうにかこうにかやっていけないことはなかった。思えばちゃんと売っても足の付きづらい質の高いものだけをより分けて渡してくれていた。あの子は確かに恩を、感じていてくれた」
ぽつり、ぽつりと常連客が増えた。
若い女の子のたくさんいるような大きなお店に行けない貧乏人どもだ。
限界まで薄めた酒で長時間粘り、ビアンカを口説き落とそうとくだらないジョークを繰り返す。
「なんだかあの島に戻ったようだった。結局私はこうなるのだな、と思ったわ。店の準備を、片づけをしながらウィリアムとの思い出をたどって、ふと店の鏡を見るの。日増しに色あせていくのがわかるのよ。かつてはあんなに嫌悪した私の『女』がどんどんかすんで消えていこうとしている。子を産み育てるでもなく、立派な仕事をするでもない。ただただ毎日酔っぱらいの相手をしながら私は女をすり減らしていくの」
「充分におきれいですわ」
「ありがとう」
嫣然とビアンカは微笑んだ。
それからわずかに眉に切なげなしわを寄せた。
「……常連の中に、何年も、毎日来る人がいるの。風が強い日、雪の日なんて誰も来ない日もあるのだけど、その人だけは必ず来るの。同じ時間に、髪をぐしゃぐしゃにして、頭に雪を乗せて、私の顔を見て笑うの。『ああ、今日もおかみさんはきれいだなあ、生きててよかった』って」
ソフィは胸に手を当てた。
そこがじんわり熱くなる。
ビアンカがソフィを見て笑った。
いきなり夜の雰囲気になった。
飲んでいるのは茶のはずなのに、ビアンカが口に運ぶと強い酒を飲んでいるような雰囲気になる。
「ソフィ様は好きな男性はいる?」
いきなり聞かれてソフィは言葉に詰まった。
その様子を見たビアンカがうふふと笑う。
「いるわよねえ、お若いのだから。ねえ、その人はどんなふうにあなたを見るの?」
「いません」
「そう?」
すべてお見通し、という目でビアンカはソフィを見ている。
「その人はね、私を眩しそうに見るの。目を細めて、あたたかいものを見るような目で見るの。背中にこんなものを背負った海賊の女で、男の血を頭からかぶって放り出された、安酒場の、おばあさんの私を。私は居心地が悪くなってしまって、つい心にもないことを言うのだけど、その人はそれを気持ちよさそうに聞いているのよ。毎日、毎日」
「素敵な人ですわ」
「いいえ、見た目は痩せたネズミみたいなの。背が低くて貧相で、なんだかせかせかしていて。どこかのお店で長年出納係をしているんですって。たしかにマメそうだから、ぴったりだとは思うんだけど、せかせかこまこまとしていて落ち着きがないし、ちっともかっこよくないのよ。お店のためにがんばりすぎて、妻も子供も持てずにもう50になるのよ。うち――おばあさんしかいない安酒場で飲むのだけが、楽しみなんですって」
ビアンカの口はその人をけなしているはずなのに
とても柔らかく、優しかった。
「……少し前、少し体の調子が悪いときがあったの。どうしても朝起きられなかったり、急に胸が痛くなったりして。何日も店を開けられずに臥せっていたら、夜にノックの音がして。あの人だった。毎晩厚くおしろいを塗っているけれど、化粧がなければ私などただのおばあさんよ。扉は開けられないと言ったわ。そしたら彼はこう答えた。『あたたかい食べ物を扉の前に置いておくから、よかったら食べてくれ、嫌ならそのままでいいから』と。足音が去ってから扉を開けたら、あたたかなスープとパンの入った籠があったわ。部屋に戻って、私はそれを食べた。美味しくて、あたたかくて、食べながら涙が溢れた。もう若くもなく美しくもない私に、どうしてあの人は優しいのか。次の日も彼は来た。私は扉を開けた。背中のあいた服を着て、化粧も髪結いもしていない素顔をさらしたわ。これ以上彼を、嘘の顔でだましたくなかったから。きっと驚いて失望して去っていくと思ったから」
「……」
「『ああ、今日もおかみさんはきれいだなあ、生きててよかった』と彼は笑ったわ」
噴き出した涙をソフィはハンカチで抑えた。
過剰な反応に自分でも驚いてどうにか涙を止めようとするのに、止まらなかった。
ビアンカはそんなソフィを優しく見ている。
「申し訳ございませんビアンカ様、お客様をおもてなしすべき立場のものが、このような態度を」
「いいえ。恋をすると心は柔らかくなってしまうもの。仕方がないことよ。怖がりで、寂しんぼで、わがままで泣き虫になってしまう。きっとあなたの想い人も、きっとそうやってそのままのあなたを、目をそらさずにまっすぐに見る人なんでしょう」
いいえ、いいえとソフィは首を振った。
好きな人などいない
そんな人はいない
「あなたのお顔、とってもきれいだわ。本当になんて嫌なことをする病かしら。きっと美の神があなたに嫉妬したのだわ。女神ってすごく嫉妬深いもの」
ハンカチで目を抑えているソフィを、ビアンカは孫を見るような優しい目で見つめる。
「あの日、ウィリアムの血をかぶったあの日、私は決心したの。もう二度と恋なんかしないって。もう二度と傷つきたくない、失いたくないから。それなのに」
ビアンカは胸を抑えた。
「激しく情熱的なものが恋だと思っていた。一目で惹かれ合うものだと。でもちがうのね、しんしんと、少しずつ降り積もりいつの間にか形作られている恋もあるのね。若くもなく、美しくもなくとも、愛されることがあるのね」
穏やかに言うビアンカはきれいだった。
「私を一人にするのが心配だからと、彼から結婚の申しこみがあったの。受けようと思うわ。永久の愛を信じて刻んだ刺青だけど、まっさらに戻してから彼の妻になりたいの。あの人は気にしないけれど、私がいやなの。ウィリアムの女、海賊の女ではなくなってから、あの人の妻になりたいの。勝手だとお思い?」
「いいえ」
ソフィははっきりと答えた。
「女の恋は上書きするものですわ」
「いいこと言うわ!」
手を叩き、ほっほっほとビアンカが声を上げて笑った。
『いたいのいたいのとんでいけ』
一目で惹かれ合い
痛みとともに背中に刻んだ激しい愛の記憶も
『とおくのおやまにとんでいけ』
長い年月をかけていつの間にか降り積もった穏やかな愛も
どちらも大切にしていい。
どちらの愛も、ビアンカの真実だ。
「驚いた……」
シルバーのときと同じように、合わせ鏡にして背中を見たビアンカが息を飲んでいる。
「まさか少しの跡も残らないなんて」
「綺麗なお背中。すべすべですわ」
父のように頬はすりすりしないが、そうしたい気持ちになるほどの美しさだ。
ドレスを着なおし、ビアンカは髪をかき上げる。
その所作がいちいち美しい。
「ああ、背中が軽くなった。10代のころの情熱は、このおばあさんには重すぎたわ。それにしてもまさか10歳も年下の男性に、この年で嫁すことになるとは思わなかった」
「えっ」
「あら」
言っちゃったわ、とビアンカが口をおさえた。
舌を出し、しまい、ぱちんとソフィに茶目っ気たっぷりのウインクする。
「何も聞かなかったわね?」
「はい」
おかんセンサー、ポンコツ。
奇跡の60歳に、ソフィはしおしおと頭を下げた。
「思えばあの頃、私はいつも歌っていた」
花びらを指でつまみ唇に当て、ビアンカが遠い目をする。
あの頃――海賊船に乗っていた、10代の日々
「熱くて、激しくて、にぎやかでいつも新しかった。あれは私の物語の序盤だったのね」
そっと目を閉じる。
その目元に、隠し切れない年月がにじんだ。
だが、それは決して醜いものではない。
年月を、エピソードを重ねたものにしかだせない、悲しみにも似た美しさがあった。
「もう私の物語の残りのページはわずかだわ。私はあの人と、これをゆっくりめくるの。穏やかに、一枚ずつ」
甘やかに彼女は言う。
本を開き、ページをめくる所作をした。
「夢と愚かな自尊心を持って島を飛び出した美しい少女は、港町の小さな安酒場でおばあさんになり、ネズミと幸せになりました。おしまい」
「素敵な物語ですわ」
「あまりにもありきたりだわ」
いいえとソフィは首を振った。
「ただそこに生きているだけで、人は満点です」
「老練なことをおっしゃるのね」
うふふとビアンカは笑った。
じっと彼女はソフィを見る。
「愛に歯向かっても無駄よ、ソフィさん」
美しい目はソフィを見透かすように見つめる。
「女神のいたずらに負けずにあなたを見つめる男性がいるのだとしたらその方は、心の深い部分を、もうあなたに捧げているもの。あなたは心を盗んだ責任を取らなければ」
「……そんな方はおりません」
「泣かないで。怖がりね」
よしよし、と頭を撫でられた。
「何も考えず、情熱に身を任せなさいな。どんな結末になっても、きっと後悔しない。心が決めたことだもの。やったことよりもやらなかったことへの後悔のほうが、ずうっと後まで残るのよ」
「ビアンカ様は」
「ええ」
「今あの入江に戻っても、やはりウィリアム様の腕の中に飛び込みますか?」
「もちろん。あの熱にあらがえるはずもないわ。たとえ結末がわかっていたとしても。愚かだと指さされても構わない」
嫣然とビアンカは微笑んだ。
「これは私の物語だもの」
彼女が去った後もサロンには
美しい香りと
炎のような情熱が、熱く残っているようだった。




