5 料理人レイモンド、師フローレンス
「ご無沙汰しております」
「お元気そうで何よりです」
おっとりと魔術の家庭教師、フローレンス先生が言う。
ご高齢の女性だが、かつては王宮で癒師を勤めた高名な光の魔術師である。
癒師――大いなる光の才に愛された、人を癒し救う魔術師。
この世界には魔法がある。
大陸の端には魔族がいて、それはかつて人と同じものだった。
とどまりたいものが活火山に残り魔族となり、離れたものが魔力を失い人になるか、理性を持たない魔獣になった。
大陸の端で魔族は活火山から星の魔力の入った不思議な石を掘り出し、だが使う必要がないためそれを人に渡す。人の王と魔族の王の古くからの取り決めがあるからだ。
人はほとんど魔力を持たないためその魔石をエネルギーとして使用する。父の持つ大きな船の中にも魔石を使い、どの船よりも速く遠くに走れるものがある。ただし非常に高価である。
魔力を失ったはずの人の中には、『先祖返り』と呼ばれる魔力持ちが稀に生まれる。
属性は火、風、水、土、光と闇
15歳になった者は教会で、魔力の有無を調べられる。その才能は貴賤上下に関わらず発掘され、属性に応じ国の宝として地位を約束される。
ソフィは光の力があったものの、一度にできる放出量があまりに微弱なため召し抱えられることはなかった。
高名な光の魔術師の力が大砲なら、ソフィのそれは水鉄砲のようなものである。いくら修行をして多くの魔力――マナを蓄え上手に出せられるようになったところで、一度に出せる量が少ないため体の中や大きな傷は治せない。
逆にフローレンス先生のように活躍した魔術師でも、歳を重ねればマナを取り込める量が減るため、かつてのような大いなる癒しは望めない。
力の衰えを感じた先生は自ら癒師の職を辞し、数年間王都で後輩の指導に当たったのち、この港街で隠居生活を送られているそうである。ソフィへのこれは授業料はお支払いしているとはいえもと癒師がお金に困っているはずもなく、もはや趣味の域だ。
「おや」
フローレンス先生が目を見開いた。
「ソフィさん、何かありましたか」
「え」
「マナの流れが何やら変わっておられますわ」
「ええ……と」
死にかけて57才の記憶が蘇りました、とは言えない。
茶を出し終え退室しようとしていたマーサが能面のような顔で首を振っている。
「詮索は野暮でございますわね。……このお屋敷にどなたか古い傷や、火傷が残っている方はいらっしゃいますか?」
「ええとレイモンドが、腕に火傷があったはずですわ」
「お呼びになっていただける?」
「只今」
マーサが部屋を出、やがて大柄な金髪の男を引っ張ってきた。
後ろでひとまとめにした長い金髪が揺れる。
オルゾン家料理人のレイモンドは元海賊のコックである。
まだ二十代だが、一度海に落ちてあわやサメに食われる寸前になってから怖くて船に乗れなくなり、縁あってこのオルゾン家の料理人になった。
船を降りてから菓子作りに目覚めたとのことで、焼き菓子がとても美味しい。
「なんですかマーサさん」
何かをこねていたところを有無を言わさず引っ張ってこられたようで、手のひらが粉だらけである。
「腕をお出し」
「ええ……すいませんまくってくれますか」
情けなく眉を下げて手のひらをぶらぶらさせる。
「フン!」
マーサの鼻息とともにむき出しにされた筋肉のついた腕に、縦に焼かれたような、黒ずんだ古い火傷のあとがあった。
「ソフィさん」
「はい」
「治してお見せなさい」
「……はい」
「別に痛くもないし、もったいないからいいですよ」
レイモンドの声を無視してソフィは両手を傷跡にかざす。
手のひらに意識を集中し、健康な肌が蘇るイメージを描く。
「いいのになあ」
情けないようなレイモンドの声を無視し力を注ぎ……注ぎ終えてソフィは目を開ける。
「薄く……なったような? ……なってないような……?」
「うーん」
黒かった傷跡が、なんとなく茶色っぽくなったようななっていないような気が、するようなしないような。
失敗にソフィは眉を下げた。なんだかいけるような気がしたのに、ソフィの力は前とほとんど変わりがない。
「ソフィさん、何を治すイメージをされましたか」
「レイモンドは海賊だったから、きっと火薬か何かの戦いのときの傷と思って、それを取り除くイメージを」
「あっこれマフィン作るときにオーブンにジュっとしたときの火傷です」
「意外と甘いわ」
「ソフィさんもう一度なさい。オーブンにジュっとした傷を取り除くイメージで」
「えー」
恥ずかしいなあとレイモンドがまた情けない声を出すが、ソフィはまた無視をした。
「治すイメージに近しい言葉があれば口にお出しなさい。既定の呪文ではなく、なんでも結構です。あなたの頭に浮かんだ言葉を出すのですよ」
「治すイメージ……」
治れ治れ……
痛いの治れ
『いたいのいたいのとんでいけ』
マーサがぎょっと目を見開いた。
ソフィのそれは『日本語』だ
ここにいるどのひとにも、意味のわからない外国語である。
ソフィの体が淡く光る。
『とおくのおやまにとんでいけ』
ふわりと手のひらが輝き
やがて消えた。
目を開けて覗き込む。
レイモンドの腕に傷は……ない
「できましたわ先生!」
頬を染めてソフィが叫んだ。
「ええ、よくできました」
にっこりとフローレンスが微笑んだ。優秀な生徒を褒める先生の顔だ。
「どんな状況で、何によってできた傷なのか、どう治したいのかをイメージすること。治すというイメージに近しい己の言葉を呪文として口にすること。これを守り練習を積めばあなたはたいていの古傷は治せようになることでしょう」
「はい!」
目をキラキラさせるソフィに、わずかにフローレンスは悲しい顔をする。
「ですが覚えておかなくてはなりませんソフィさん。あなたの癒しは、表面の皮までしか及びません。折れた骨には届かないし、深い傷の表面だけを治してしまえば溢れ出た血がたちまちに体の中でふくれあがり悪さをすることでしょう。あなたが治せるのは薄い傷、および症状が固定した後の表面の跡だけです。己の力を過信すれば必ず絶望することになりましょう」
「はい……」
微笑んだフローレンスが、ソフィの両手を握る。
「だけどわたくしは知っております。この世界には皮一枚のことで傷ついているたくさんの人がいることを。癒師は国に管理されながら命に関わる重い傷を治すものですから、そういった人たちに癒しを与えることができません。顔に残った火傷、体に残った入れ墨、完治した病が残したあばた。そんな皮一枚の悩みがなければ幸せになれるはずの人たちが今このときも声を上げられずに下を向いて泣いているのです」
「……はい」
先生の目は優しく、ソフィを見る。
「この手はその人たちを救う尊い手です。誇りを持ち、大切に、適切に使うのです」
「はい、先生」
涙が落ちた。
「精進いたします」
「よい子です」
あなたは卒業です。なにか困ったことがあったら文をお出しなさいと先生は言った。
肩にショールをかけ退室していく先生を屋敷の外まで見送って、去っていく馬車が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
出会ってから一度もソフィから身を引いたことのない先生。
特別扱いも、同情もせずにいつも優しく指導してくださった。
「ありがとうございました」
もう姿の見えない師に、ソフィは感謝の言葉をつぶやいた。