48 門番クロロ・ロム・ムクロ2
寒い冬、暑い夏
寒さに凍えながら、虫にたかられながら地べたで仲間たちと眠った。
『やだわ、汚い』
道行く人のそんな言葉に、凍えながらぐっと牙を噛み締めた。
「私の中にも、人という種族に対する怒りがないかと言えば嘘になる。しかし同時に人にもよいものが、亜人にも悪いものがいることもわかっております。言葉では言い表しがたいこのもやもやとした気持ちは、代を経なければ薄まらない感情だと理解しております」
すっ、とまたクロの手がはげを撫でた。
高ぶった気持ちを抑えるように、ふうと息を吐く。
「亜人は、怒ってはならないのです。怒って爪を出し腕を一振りすれば、普通の人間など真っ二つに引き裂くことができる。だからこそ絶対に怒ってはならない。人の世界で生きていきたいのならば」
門番の仕事は退屈だ。
ただ同じ時間に突っ立って、怪しげなものがいれば合図を出し、近くの小屋にいる人間の役人を呼ぶ。
尋問も捕縛もクロの仕事ではない。それは人間様の仕事だからだ。
最後の手段、抑止力として
毎日そこにただ突っ立っているのが仕事である。
『今日も暇だな、相棒』
門の端に、小さな石の騎士の像がある。
雨風にさらされて兜の形が削られ、猫科の亜人の耳のようになっているので、クロは勝手にそう呼んでいた。
さらさらと音を立てる葉を茂らせる老木は、最初から老木だった。
サラ婆さんと名前を付けて、暇なときはその音に歌を乗せて頭の中で歌っていた。
『やだ、亜人だわ』
鋼鉄の鎧と兜をかぶっているので、近づかないとそうとはわからないのだろう。
悲鳴をあげて飛びのく老婦人もいた。
あからさまに眉をしかめる者や、唾を吐く者もいた。
クロは怒らない。
怒りそうになるときは鎧の上からそっと、はげのある毛皮を撫でた。
ミイ、ミイよ
父ちゃんは今日もがんばっているぞ
いい子で待っているんだぞ。
今日は泣くんじゃないぞ。
「仕事中、私は口を開いたり、笑ったりしません。人が畏怖する鋭い牙が見えてしまうからです。怒るまい、怒るまいと毎日そうやっていたら、私はいつの間にか怒り方を忘れてしまったのです」
ある日の朝、また娘が朝帰りをした。
今日こそは怒ろうと近づいた敏感なクロの鼻が、娘の体から香る甘ったるいにおいを捉えた。
『あれえ、とおちゃんだあ』
呂律の回らない、舌ったらずな声を娘が出した。
よだれを流し、えへら、えへら、と締まりのない顔で笑っている。
誰だこの女は
ミイは
妻が命を懸けて生み
ちゅうちゅうふにふにと俺を吸った
あの可愛いミイはどこにいった
『もんばんさぁん、門にいかなくていいの?悪い人がはいっちゃうぞお?』
何がおかしいのか、たがの外れた甲高い声で笑った。
頭に血が上った
クロの太い腕が上がり、娘を張り倒す。
娘のしなやかな体が吹き飛び、壁にぶち当たった。
妻に似た娘を、可愛い、可愛いと育てた
手を挙げたことなど一度もなかった。
それが間違いだったと今思い知った。
倒れた娘の頭をつかみ、水がめに押し付ける。
『がほっ』
しこたま飲んだ水をげえげえと吐く娘を見下ろした。
甘ったるいすえたにおいが家にこもった
『ミイナお前、薬をやったな』
水を吐き終えいくらか焦点が合い始めた娘の瞳が、クロを見て恐怖に染まった。
ぴし、ぴし、と、ミイナが生まれてから人前では一度も出したことのない爪が鋭く伸びていく。
『誰に誘われた。あの肉屋のバカ息子だろう?路上でよく煙草をふかしてウンコ座りしてる変な色の毛皮の穴だらけのお友達はまだ遊んでいる最中か?ちょっと父ちゃんが、グレてもやっちゃいけないことがあるっていうことを教えてきてやる。お前はあとだ。家から出るなよ』
そう言って家を出ようとしたクロの足に、娘がむしゃぶりついた。
『離せ』
『ごめんなさい!』
『離せ』
『行かないで!』
ブンと振った足から娘がすっぽ抜ける。
ダンとまた壁に当たった音がした。クロは振り向かない。
『父ちゃん!』
娘のかすれた声が響いた。
『父ちゃん行かないで!お願い!ミイナのせいで人殺しにならないで!』
ピタ、と足が止まった。
『ミイナを一人にしないで!寂しいよ!父ちゃんがいないと、ミイナ寂しいよ!おうちに一人はいやだよう!』
ぐすっ、ぐすっとすすり泣いた。
ふにふにと押す柔らかな感触が、腹を走った。
ミイ、ミイや 泣くな泣くな
娘は寂しがり屋だった。
仕事が終わり迎えに行くのを、預けられた家の扉の前でお絵描きをして待っていた。
抱っこをねだり、肩車をねだり
いつもどこかをクロにくっつけて、おしゃまな口ぶりでずっとなにかをしゃべっていた。
しゃべらなくなったのはいつからだろう。
甘えなくなったのはいつからだっただろう。
素直に心を見せられなくなったのはいつからだろう。
若いころに無茶をし、年を重ね弱った体に、門番の仕事は徐々にきつくなっていた。
無言で飯を食べ、そのまま寝てしまう日も多かった。
寝ている父親を見て娘は何を思っただろう。
母親のいない娘は、きっと寂しかっただろう。誰かに甘えたかったのだろう。
言いたいのに言えず、ひねくれて
子供のあさはかさで、同じような気持ちを持つ孤独な子供たちと群れた。
しゅるしゅる、と爪が引っ込んだ。
扉を閉めた。
床にぺたんと座り込んでいる娘を抱き上げた。
『強くぶって悪かった』
ううん、と首を振り娘はクロにしがみついた。
『もうしない。もう絶対しない。怒ってくれてありがとう。あたし本当はもう、あの仲間たちが怖かった』
ごめんね、ごめんねと泣きながら娘は謝った。
「ミイナはその日を境に連中と手を切り、憑き物が落ちたように真面目な娘になりました。一生懸命に勉強し、なんとギルドの受付の試験に受かって、今や立派な社会人です」
ギルドの受付に亜人の席があるなんて、いい時代になったものです、と続けた。
反抗期の娘と父親の微笑ましいエピソードとするにはあまりに壮絶なその話の内容に、ソフィは新しい世界の扉を開けたような心持で聞き入っていた。
亜人は亜人同士、コミュニティを作って暮らしていると聞く。
『決して立ち入らないように』と学園で教えられたいくつかの貧民街のうち、たしか3つが亜人の街だったと記憶している。
窓は割れ、ごみが散乱し
薬や酒に溺れた者たちが路上を当たり前のようにウロウロしている恐ろしい場所だと教えられた。
一度汚れてしまったものを、きれいにするのは難しい。
一度染まったものを白に戻すことは難しい。
鉄拳制裁が正しかったとは言いたくない。だが
今まさに底なしの悪い色に染まらんとする娘を助けたのは
父のその真面目な心と、初めて振るわれた力強い拳だった。
「……お話をお聞かせいただきありがとうございましたクロ様。ただ……」
それはとても大切なはげではないだろうか。
聞こうとしたソフィに、ふふんとクロが胸を反らせた。
「そして今度娘が結婚することになりましてな」
「まあ!」
お相手は亜人の冒険者だという。
受付にいる可愛い子に惚れて惚れて惚れつくして、何度も通いつめ愛を囁き
どうにかこうにか口説き落としての付き合いだという。
「お母様の血ですわね」
「うむ、なかなか見上げた男なので許してやりました。今度結婚式がありましてな、私は伝統にのっとった民族衣装を着ていくつもりなのですが、これがまあほとんど体がむき出しになるもので」
クロの種族はその毛皮の美しさを誇る種族である。
それを充分に見せるため、股間以外ほぼむき出しというのだから、なかなかのものである。
「以前娘がこれをさすって『ごめんね』と言っておりましたから、治して当日に見せて娘を驚かせようと思いましてな」
「……」
「さあソフィ殿、語りましたぞ。どうぞよろしくお願いします」
「……」
動かないソフィにクロが怪訝な顔をした。
「……亜人にかけるマナは無駄でございますかな」
「血塗られし黒金剛石!!!」
パーンとソフィの手のひらがテーブルを叩いた。
なくなった生肉の残り汁がぴちょんとはねた。




