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41 孤児院のシシリィ・マイリィ5

 キルト27歳、元お針子と女性は名乗った。


 近頃は日が落ちれば肌寒い。二人はレイモンドが運んできた樽に座り、クレアの持ってきた布を膝にかけあたたかな生姜と蜂蜜の入った茶を飲んでいる。

 もったいない、床でいいというキルトをレイモンドが無理やり座らせて、クレアが布を被せ手に茶を持たせた次第である。

 初めはおずおずと、だが久々の甘味に負けたのだろう。ふうふうと吹きながら包み込みようにした茶を味わっている。

 レイモンドとクレアも壁を背にして樽の上だ。路地を覗き込んだものがいたらよくわからない状況にぎょっと目を見張ったことだろう。


 茶に必死になっていたキルトはやがて3人の目が自分に注がれていることに気づき、頬を染めた。


「粗相をいたしました」

「いいえ」


 こちらもどうぞと小さなパンを勧める。肉などは入っていない、耳たぶくらいやわらかなもっちりとした温かいパンだ。彼女のおなかを驚かさないようにというクレアの配慮だろう。勿体ないと固辞しようとしていたキルトだが、やがて茶のとき同様根負けし、温もりを味わうように少しずつ食べ始めた。


「……わたしはお針子でした」


 そしてキルトが語るには


 キルトは腕のいいお針子だった。

 特に花の刺繡が得意で、高貴なお方から名指しで注文を受けることさえあったという。


 娘が二人。配達の仕事をしていた夫は下の子がまだ乳飲み子の頃に魔物に襲われ死んだ。


「女手一つでしたが、私には手に職がありました。必死で働いて、いつか娘たちがお嫁に行くときの持参金を貯金して。なんとか生活できておりました」


 赤子を背中にひっくくり、できうる限りの仕事を受けて、朝から晩まで手を動かした。

 上の子はまだ4歳なのにほとんど母親の手を煩わせることもなく、母のわきで手仕事をじっと見つめていた。

 自分たちは一生纏えないだろう高価な生地を憧れの目で見つめる幼い子

 ぷっくりとした柔らかな頬に自分の頬をすり寄せながら、キルトは思った。

 いつかこんな素敵な生地で、おかあさんがあなたたちに花嫁衣裳を縫ってあげる。


 しっかりごはんを食べさせて、しっかりお勉強を教えて

 指が上手に動く時期になったら、針も教えてあげよう。

 大丈夫、生きて行ける。


 暖かな日は散歩をした。

 川で遊んだ。

 寝る前は布団でぎゅっとくっついて、たくさんのお話をした。


「生きていけると、思っていました」


 ――あの日までは



 異様なにおいに目を覚ましたとき、火は既に家の中を舐めていた。

 黒煙に涙を流しながら、キルトは自分を挟んで寝ている姉妹を両の腕に抱き外に飛び出そうとしてはっとした。

 娘たちそれぞれの名前を書いた銀の缶

 棚の小麦粉の後ろに隠してあるそれは、娘たちのためのなけなしの貯金。

 いつか素敵なドレスを纏って、愛する人と笑って家を出るためのお金。

 取りに戻るべきか、一瞬足を止めたそのほんのわずかな時間が分かれ道だった。

 やはり危険だと諦めて外に飛び出そうとした瞬間、燃え落ちた梁が上から落ちてきた。

 じゅわ、と己の顔が焼けるのを感じた。

 けたたましい悲鳴が腕の中から上がった。

 あまりの痛みに力が抜けそうになるも、そんなことは絶対にできない。

 この子たちを置いてなど行けるわけがない。

 キルトは子たちを脇で挟むように抱き上げたまま、自分の顔にのしかかる燃えた梁を押し返した。


 力を振り絞って外に出た。

 逃げ惑う人々の中にいた親切な人が水をかけ、親子3人を荷車に乗せて運んでくれた。



 冬の乾燥と強風が招いた火事は辺り一帯の長屋を焼き払っていた。

 焼け出されたのは貧乏人ばかり。奇特な貴族が屋敷の一部を開放し、けが人を受け入れてくれていた。

 そこで目を覚ましたキルトは、己の顔と手

 抱いていた子たちの両頬に残る悲惨な火傷を知った。


「こうして二人を抱いていたので、それぞれ私の体に当たっていないほうの頬が、焼かれたのです」


 ほろほろとキルトは泣いている。

 ソフィは……何も言葉を挟めない。

 腕を動かしたキルトの袖から

 見知った形のあざがのぞいたからだ。

 息を飲み彫刻のように固まったまま、キルトをじっと見つめていた。


 ソフィの様子に気づかず、キルトは続ける。


 しばらく体を休めさせてもらったが、本来何のかかわりもない貴族に、いつまでも面倒を見てもらうことはできない。傷の癒えたものから順次、清潔な服を与えられてそこを去っていった。

 寝るときも身に着けていた、夫にもらったネックレスと指輪を売ると、もう何も手元には残らなかった。

 火傷した指は引き攣れて、前のように滑らかには動かない。

 針の仕事など夢のまた夢だった。

 何とか借りた狭くてじめじめしたあばら家で、薄いスープをすすった。

 やれる仕事があれば何でもやるつもりだった。

 客商売、食べ物関係の仕事は顔のせいで断られた。下の子を背中にくくって、上の子を近くで待たせて、くず拾い、どぶさらい、下肥集めをした。

 人に嫌われる仕事でもやる人間はいくらでもいる。やっと回ってきた仕事の日、はかったように下の子が高熱を出す。頭を下げて断って、またようやく回ってきた次の仕事の日、今度は上の子が腹を下して熱を出す。

 安い家賃をため込んで、督促に来た大家は同情するような目で、あと三回ため込んだらここを出てってもらうよと言われた。

 もうキルトの手には数枚の銅貨しか残っていなかった。


「しびれるように寒い日でした」


 3人は久しぶりにお散歩をした。

 貴族にもらった薄い布の服は既に擦り切れぼろ布のようになり、寒さが刺すようにしみ込んだ。

 夜明け前の薄明るい日の中で、ドーナツ屋の屋台が店を開けるための仕込みをしている。

 甘い香りに、くう、と上の娘の薄い腹が鳴った。甘いものなど久しく口にしていなかった。

 店主に持っている金をすべて見せ、これでひとつ買えるかと問うた。

 まさかと首を振ろうとした店主は、火傷の女にくっつく小さな子供たちに気づきその動きを止めた。


『もとは売り物じゃないけど、これなら』


 ほかほかの湯気の出るそれはドーナツの形をしていない。


『……これは?』

『まんなかだ!』


 上の子がうれしそうな声を上げた。

 骨の浮き出た顔で、にっこりと笑っている。


『まんなかだよね、おじちゃん』

『そうだよ。よくわかったなあ、賢いなあ』


 ほかほかと湯気を出すそれを、3つ

 紙を折った袋に入れて渡してくれた。


 全財産を店主に渡し、いつか遊んだ川の上流のほとりに立った。

 下流とは比べ物にならないほどごうごうと

 冷たい川は音を立てて流れていた。


『3つ全部食べていいのよ』

『でも』


 ちらりと下の子とキルトの顔を見る。


『赤ちゃんだからまだ食べられないの。お母さんはおなかがいっぱいだし』

『はい!』


 3つのうちのひとつを、押し付けるようにキルトの口に運ぼうとする。


『はい!お母さんたべて!はい!』


 その必死な目に涙が浮かんでいるのに気づき、キルトはそれを受け取った。

 まだあたたかく、甘い香りがした。

 口に含めば周りはからりと揚がり、中からじゅわりと甘い油が染み出した。

 はふ、と口から湯気が出た。


『おいしいねぇ』


 しゃがんで娘と目を合わせて、キルトは笑った。

 今まで食べたものの中で、一番おいしいと思った。


 久方ぶりの母の笑顔に、娘も顔いっぱいで笑った。

 あたたかなものを口に運び、ほおばって、にっこりと笑う。


『おいしいまんなかだねえ!』


 うふふふ、と目を合わせて笑った。

 涙があふれて止まらなかった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ドーナツの真ん中の泣かされた
[良い点] あああああ、ああああああ。゜(゜´ω`゜)゜。 真ん中ぁ…。゜(゜´ω`゜)゜。 お母さんもソフィに出会えて良かった…シシリィ達が逃げ出したおかげでまさかこんな
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