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4 父ユーハン、母シェルロッタ

「マティアス先生との婚約を破棄していただきたいの、お父様」

「!」

 

 目を見張った父の横で

 母シェルロッタは動じずにじっとソフィを見ている。

 話がある、と二人に向き合った娘は

 事件が起こる前の少女のはかなさは消え、なにやらどっしりと落ち着いた雰囲気を身にまとっている。

 あの夜娘ソフィが部屋の窓から落ちたと聞いてシェルロッタは、自身の案じていたものが現実になったとわかった。


 繊細で、努力家で、優しい娘

 耐えられないほどなにかに傷ついた娘が傷つけるとしたら周囲の人間ではなく、それは己自身であると。

 

 ソフィが、マティアス医師に恋していることは明らかであった。

 学園に通っていないせいで訪れが遅かった初恋は、娘を良いほうへ導いた。

 一度は生きる力すら失っていた娘の起爆剤になったそれを、シェルロッタはほほえましいものとして見ていた。

 思春期の恋は、良くも悪くも少女を爆発的に動かす。

 よくも悪くも、だ。

 

 夫ユーハンは一代で莫大な富を築いた貿易商である。

 一介の船員から商いを起こし、やがては元海賊を船員に加えた。

 それまでの貿易商が見いだせなかった航路を開拓し、誰も見たこともないような商品を世界中から買い付ける、この港町で10指の指に入る商社の主人は、商人には珍しくずるいこと、汚いことを嫌う。荒くれものばかりの社員をまとめ、導く立派な男である。


 その夫は娘の恋に気づき、どうしてもそれを成就させたかったのだろう。世界中のお土産を渡すように、きっと娘が喜ぶだろうという思いに突き動かされ、先生の人生ではきっと得られないだろう額の金を積み上げ、ソフィとの婚約を迫った。


 今まで何も欲しがらなかった娘が、初めて欲しがったものを与えたくて。


 相手が人だと、心のあるものだと知っているはずなのに

 いやおそらく夫は心の底から、ソフィが素晴らしい娘であると、信じて疑っていないのだ。

 ソフィに添える男は幸せ者だと疑っていないのだ。

 大、親馬鹿野郎である

 ソフィを見る先生のまなざしに、医師の慈愛以外のものが一切ないことなど、女から見れば一目瞭然だというのに。

 

 敏い娘はその事情に気づいたか、あるいは

 あの夜の自分と夫の話を聞いたのではないか、と

 気づいた瞬間血の気が引いた。

 幸いにも3階の窓から飛び降りた娘の体は、たまたまその日芝刈りを終え積んであった草の上に落ち、まったくの無傷であった。

 目覚めない娘の手を握りながら。その肌を撫でながら

 娘を追い詰めた自分たちのうかつさを嘆いた。

 

 否親馬鹿はユーハンだけではない。シェルロッタだってソフィは素晴らしい娘だと思っている。

 いつか素敵な男性が現れて、ソフィを愛すると信じている。

 たとえ今は愛していなくとも、添ってしまえばマティアス先生もあるいは……と考えなかったかと言えば嘘になる。


 ソフィに幸せをつかんでほしかった。

 

 だが、間違いだったのだ。

 私たちのした行為は娘を追い詰めた。

 事故、と娘は言うが、そうだったらいいのにとは思うが、

 間違った親の判断が、娘を死の淵に追いやった。

 

 今こうしてソフィが生きて自分たちを見つめてくれること

 その奇跡は、神様に与えられた最後のチャンスのように思われた。

 

「いいでしょう」

「シェルロッタ!?」


 言い切った妻にユーハンが驚いた声を上げる。


「いいですかあなた。マティアス先生はお好きな女性がいらっしゃいます」

「!? ソフィ、違うぞ! シェルロッタは何か勘違いを」

「この結婚にマティアス先生の心はないのです。貴族ならばいざ知らず、町人のわたくしどもにそのような結婚は意味がありませんわ」

「だが……」


 まだ何か言いたげな夫の肩にシェルロッタは手のひらを優しく置いた。


「好いて好かれた相手との、愛のある結婚の素晴らしさを知るからこそ言うのです。……ユーハン、あなたもご存じのはずですわ」

「シェルロッタ……」


 そのまましばし見つめあう

 夫の脳裏には若き日の思い出が、よりロマンティックに着色されて流れていることであろう。


「さすがですわお母様……」

「ん? 何か言ったかい?」

「いいえお父様」


 こほん、と夫が咳をした。


「本当にソフィはそれでいいのだな?」

「はい。わたくしもお父様とお母様のように、愛に満ちた夫婦になりたいのです」

「それはそうだ。よしわかった今回の話はなしにしよう」


 照れた顔を見せぬよう、威厳を保って無駄に窓の外を見つめ髭をいじる夫

 ふふ、とソフィが微笑みながら見つめてくるので、シェルロッタもソフィに見える側の頬だけを上げて見せた。


 ――男はこうやって動かすのですよ

 ――はい、お母様


 そんな目の会話が女にはあることを、夫は知らない。


「わたくしは引き続き学業と、魔術の練習を続けます。魔術の力が伸びました暁には……」

「うん?」

「もう一つお願いをすることになるかと思います。今はそのときではございませんので、追って」

「ううむ……」

「ええ、楽しみにしているわ」

 

パッとソフィの顔が輝き、礼をして部屋を出ていく。

 

「たくましくなりましたわ」

「うむ。まるで別人のようだ」

「女は変わる生き物ですわ」

「うむ、だが」

「はい?」

「ソフィがお願いだなんて、うれしいものだ」

「そうですわね」


 わがままを決して口にしなかった我慢強い娘が、自らの意志で何かを願う。

 何を言われてもかなえてみせるさと

 ユーハンはシェルロッタの肩を優しく抱いた。


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