38 孤児院のシシリィ・マイリィ2
語り終えたシシリィは変わらずに真っ青であった。
マイリィはじっとしていられず、部屋の中にあるさまざまなものを眺めたりつついたりしている。
「……そう」
びくんとシシリィの薄い肩が跳ねた。
しゃがみこみ、ソフィはシシリィの火傷の跡に手のひらを当てる。
「では治療させていただきます」
「えっ」
シシリィが目を見張った。
「どうしたの?」
問えば、小さな声で
「……信じるの?」
「ええ」
ソフィはにっこりと笑った。
「信じるわ」
どんな壮大な話でも
それが嘘だと、どうして決めつけられよう
『いたいのいたいのとんでいけ』
泣きわめく小さなマイリィを抱いて走ったしっかりものの第一王女の顔が
元の通りつるつるのたまごのようになりますように
『とおくのおやまにとんでいけ』
光の治まった手のひらの先の火傷は
変わらずにそこにあった。
そっと頬をなぞり、その感触で治っていないことを知ったのだろうシシリィの瞳が涙で潤む。
「あ……」
ガシャーン
なにかを言いかけたシシリィの口が突然の大きな音に固まった。
二人してその音の先を見れば、マイリィが硝子の破片に囲まれて呆然と立ち尽くしている。
なにかを『つんつん』していたらしい右手がそのまま空にあった。
――あそこには確か
ソフィは慌てて記憶を辿った
そう、光の差し込む角度によって中に薔薇の花が浮かんで見える不思議な球状の硝子細工があった。そう大きなものではなく、レース布の重しとして使っていたのでその存在をすっかりと忘れていたのだ。
うかつであった。
子供を迎えるのならば、当然に片づけておかねばならないものだった。
「あ……」
「マイリィさん動かないで!」
硝子の破片を踏んだら大変、と思わず強く言ったソフィに、怒られたと思ったのだろうマイリィがビクンとした。そして
「ああああああああ!」
大きな声と大きな涙を盛大にぶちまけて、ピュッと走り出す。
「マイリィ!」
慌ててシシリィがマイリィの後を追いかける。
ハッとしてやや遅れてそのあとを追ったソフィは、二人が調理場に消えていくのを見た。
「わー」
響いた男性の声はレイモンドの声だろう。
「ごめんなさい!」
涙交じりのシシリィの声が遠くから聞こえる。
「ごめんなさいソフィ様!ごめんなさい!」
ようやく調理場に着いたソフィの目に映ったのは、混ぜていたボウルの中身のクリームを頭からかぶって尻もちをついているレイモンドと、開け放たれた厨房の扉だけだった。
「本当に」
「ええ」
「本っ当~に、お出かけになるのでございますね」
「ええ……お願いだからそう何度も聞かないでちょうだいマーサ」
よそいきのサンゴ色のワンピースを身にまとい、顔を二重のベールで覆い薄手のフードを被ったソフィが答える。
手にはレースの日傘。
よほど下から覗き込まない限り顔は見えないだろう服装で、ソフィはオルゾン家の玄関にいた。
「ちゃんとお供しますよ」
「お嬢様とおでかけなんて、まあうれしいこと」
へらりとしたレイモンドと、うれしそうなクレアが答える。
重要な会議の準備のため今日は屋敷を離れられないマーサが、ハンカチを噛みちぎりそうな勢いでワナワナと震えている。
ちなみにオルゾン家の屋敷には、マーサとクレア以外の年若いメイドもいる。
が、ソフィの世話には当たらない。かつて口さがない噂好きの若いメイドたちがソフィの話でクスクスと盛り上がっているところにマーサが出くわし、青き炎のごとく怒り狂って彼女たちを遠ざけるようユーハンに進言したためだ。今はほぼ全員が新しいメイドと入れ替わっているはずだが、それ以降若いメイドはソフィに近づけないよう立ち入る箇所が区切られている。
マーサはメイド長という立場ゆえ、若いメイドたちを取り仕切りもてなしをしなくてはならない。クレアはシェルロッタとソフィ付きの侍女のため、割と身軽な立場である。
「絶対に、絶対に、絶対にお嬢様のお傍を離れるんじゃありませんよ!」
何度も何度も同じダメ押しをされている二人は律儀にマーサを立て、何度目かの「はい」を返した。
あれから二日。
できたらすぐに孤児院を訪ねたかったが、船に乗っていた父ユーハンの帰りを待ち許可を得てからの外出となった。
意外にも父はあっさりと了承した。てっきりマーサのような反応になると思っていたソフィは驚いたが、よく考えれば17歳の娘の昼の街歩きなど当たり前のことだ。
むしろ父、いや両親は待ち望んでいたのだと思う。学園を辞めた13歳から、神殿での魔力測定以外外に出ず屋敷に引きこもっているソフィが、自ら『外に出たい』と望むことを。
『たまには外に出てみたら?』
『お芝居でも見に行かない?』
思えばそんなことを言われたこともない。
娘の傷だらけになった気持ちが治癒していくのを、両親は辛抱強く待っていたのだ。4年間も。
4年間。
両親の愛情深さに、恐れ入る思いだった。
オルゾン家の門の内側で、ソフィは足を止めた。
ここから足を一歩踏み出した瞬間に
四方八方から泥団子を投げつけられるのではないかという
愚かなおそれがあった。
クレアもレイモンドも、何も言わない。
立ち止まったソフィに不思議そうにするでもなく急かす気配も出さず、のんびりとソフィを見ている。
そんなはずはない
わかっている
なのに、足が震える。
喉が渇く。
泣きそうになる。
『ごめんなさいソフィ様、ごめんなさい』
シシリィの声が響いた。
もうひとつ
『繊細ながらたくましく、実に図太い』
ソフィをそう称す、誰かの声が蘇った。
あの子に会いに行く。
あんな風に泣かせたままで、いいはずがない。
大丈夫。わたくしはたくましい。実に図太い。
スッと足が動いた。
一歩
二歩
門を抜けたソフィの体に当たったのは
泥団子ではない、深い実りの香りを乗せた秋の風だった。
「……これからはもっと外に出ようかしら」
「そうなさいませ」
にこにことクレアが微笑んで、柔らかく言う。
「きっと楽しいことがたくさんございますわ」
「ええ」
『アラストラ孤児院』
シシリィが言ったその場所は、運動不足のソフィの足には遠すぎた。
仕立てた馬車に乗ってぼんやりと流れる風景を見ながら
ソフィはシシリィを思う。
こんな遠い距離を、あんなに小さな妹を連れてあの子は訪れたのだ。
妹はぐずったり、寄り道をしたがったりしただろう。お店の前であれが欲しいとごねたり、急に『おしっこ!』などと言っただろう。
なだめて、すかして、なぐさめて
苦労して、ようやくたどり着いたはずのソフィのサロンで
どうして、本当のことを語れなかったのか
ソフィはあのときシシリィが発しようとした言葉の先を知りたい。
語ろうとしてくれた本当の話を聞きたい。
かたたん、かたたん、かたたん
石畳で舗装された綺麗な道を馬車は進み
やがて町の一角で停まった。
「ここから先は馬車が入れません。恐れ入りますがこちらに停め、お待ちしております」
「ありがとう」
目的の少し前でソフィたちは馬車を降りた。
街の中央よりは庶民的だが、綺麗な商店街である。
一角の服屋の前でソフィは足を止めた。
深い青に白色で刺された花の刺繍。
あの日のヤオラが着ていたワンピースを、さらに若者向けにしたようなデザインの服。
その横には白地に様々な色の糸で花を刺したあざやかなものもあった。
服を見つめるソフィの横に、柔らかな足取りでクレアが歩み寄る。
「お嬢様が着たらマーサさんが喜びそうな綺麗な服ですねえ」
「今は花柄が流行りなのかしら」
「そうっすね、町の女の子はこういう花柄ばっかり着てますよ」
わかりやすくきれいでいいやとレイモンドが答え、ええ、とクレアが頷いた。
「本当に服の流行は繰り返すものですねえ、今にもっとたくさんの花、大きい花、本物のような柄のものが流行りだしますよ」
若いころにそうして流行ったものですわ。お針子さんは大忙しでしたのよとクレアが笑った。
路地を一本横に入ると、たちまち静かな風景になった。
ふっと雲に遮られ太陽の光が陰った。
家と家との間の薄暗い道の奥に、女の人が座っている。
むんと悪臭が鼻をついた。レイモンドがソフィの前に立った。
レイモンドの体格の良さを知っていたはずなのに、それを初めて感じたような不思議な気持ちになった。
彼女は一瞬老人に見えたがよく見れば20の後半か30代か、若い女性だった。
ぱさぱさの髪が切れたローブから覗く。
火傷で色の変わったひきつれのある手のひらに、ヒビの入った椀を持っている。
『お恵みを』と震える小さな声がした。
物乞いである。
どの町にも、どの国にもそういう人はいる。
家もなく職もなく、路上で寝起きする人々
どうしてそうなったのか、ソフィにはわからない。
家を焼け出されたのかもしれない
体を焼かれ職を失ったのかもしれない
この領は火事が多い。
もともと人口の多いところに、他国から船で逃げ出した難民が許可を得ずさらに住み着き
質の悪い木材で、ぎっしりと狭いところに家を建てるからだ。
そういう場所は一度どこかに火が付くと、海からの強い潮風にのってどこまでも広く燃え上がる。
ソフィは懐の財布から出した数枚の銀貨と、何枚か持参していた『ソフィのサロン』の広告を彼女の椀の中に入れた。
ただの偽善だとわかっていた。
でもそうすることしかできなかった。
女性は驚いたようにぽかんとソフィを見上げ、ハッとして地面に平伏した。
ソフィの姿が消えるまでそうしているだろう彼女のことを思い、ソフィにしてはずいぶんな早足になってそこから遠ざかった。
「もっと人通りのあるところのほうが実入りがいいだろうになあ」
「ナワバリのようなものもあるのかもしれませんわよ」
レイモンドとクレアののんびりコンビが言う。
先ほどまでの暗く陰鬱な雰囲気が、雲から覗いた太陽とも相まって晴れていく。
「お嬢様、よいことをなさいましたね」
ふんわりと言うクレアに、ソフィは泣きそうになって俯いた。
ぽん、とクレアがそんなソフィの肩を叩く。
「施しは悪いことではございません。もちろん全ての方を、おおもとから助けられるならばそうすべきですが、お嬢様にはまだ早いお話ですわ」
クレアが優しく言えば
「俺も海賊時代、水がなくて干からびそうになってるときに通りすがりの船に水を分けてもらったことがありますよ。おかげで今日生きてます。ありがたいなあ」
あっけらかんとレイモンドが言う。
ソフィはレイモンドをじっと見つめた。
ソフィよりも頭二つ分大きい体。
海で鍛えた筋肉
長い金髪を後ろで結ぶ
深い青の瞳の料理人
「レイモンド」
「はい」
「あなたって男性だったのね」
「おれはずっと男ですよ、お嬢さん」
彼は笑った。
そうねと答えソフィは足を進めた。
『困ったときは助け合いなさい。持っているものは持っていない人に分けてあげなさい』
響いたのは会ったこともない、ヤオラのお母さんの声。
はい、とソフィは顔を上げた。
できないことばかりを見ていてもしょうがない。
今は自分にできることを、できる範囲で行う。前を見て。全力で。
お読みいただきありがとうございました。




