32 ダンサーイザドラ1
ほんぎゃあ、ほんぎゃあと声がする。
普段の屋敷の中にはない可愛らしい生き物の必死な声に、女たちはソワソワしていた。
「赤ちゃんですわね」
「赤ちゃんですわ」
りりりん
今日もクレアのベルが涼し気に鳴る。
『はらのせんをけしたい イザドラ(19才・ダンサー)』
何か広告の端をちぎり取ったかのような質素な紙を、斜めにしたり近づけたり遠ざけたりしてようやく読み取った。
封筒はなく、屋敷のポストにむき出しのまま入っていたので、初めはいたずらか何かと勘違いして捨てられるところだったのだという。
こんなものミミズの死骸です。文とは呼びませぬとマナーに厳しいマーサはプンプンしていた。
そうだ。文を出すのにだってお金はいるのだと
ソフィは今更ながらに予約の方法を改めるべきかもしれないと考えていた。
返信先の記載がなかったため、その文に書いてあった日時に客人を迎えられるよう、今日もテーブルクロスを撫でている。
まったく相手の都合も考えないなんて、とマーサは引き続きプンプンしている。
穏やかに微笑む母シェルロッタが、硝子の花瓶に活けた花の向きを整えている。
社長夫人のシェルロッタは、実は自身も有能な職業婦人である。
茶や織物の買い付けに社長代行として乗り込み、値段を交渉し、卸先を開拓する。
数か国語を操る才女であり、その美貌とやわらかい人当たりで相手の心をガッチリつかむ。
シェルロッタが持ち込むものなら安心だという固定ファンも多いのだという。
今日はたまたま休みのため、『ユーハンばかりずるいわ』とサロンの手伝いをしたいと申し出てくれたのだ。
「遅いわねえ」
「本当に悪戯かもしれませんね」
それならそれでお茶会にしましょうかなどと話しているときに、その声は近づいてきたのである。
現れた女性は、いきなり視界に入った艶やかな母に圧倒されたのか、部屋に入るなり硬直している。
呆然とシェルロッタを見つめるその女性の背中から、小さなてのひらが覗いた。
「痛ッ……! こら! だから髪引っ張んなっつーの!」
自らの手で赤子のてのひらを引きはがしながら、女はゆらゆらと背中の赤ん坊をあやす。
そしてシェルロッタの後ろにいたソフィの姿を認め
「ひっ」
息を飲んで一歩下がり、背中の赤子を守るように両腕をバッと後ろに回した。
「驚かせてしまってごめんなさい。ソフィ=オルゾンと申します。これはうつりませんので、どうかご安心なさってください。イザドラ様でいらっしゃいますね」
ソフィは礼をした。うん、と頷くものの、まだ警戒しているようでイザドラの動きはぎこちない。
「痛って!」
また髪を引っ張られたようで、イザドラが眉を寄せた。あらあら、と頬に手を当て何やら考え込んでいたシェルロッタが、イザドラに向けてゆったりと微笑む。
「ソフィの母でシェルロッタ=オルゾンと申します。イザドラさんさえよろしければ、わたくし別室でお子様の面倒を見ますわ。このままではゆっくりお話もできないのではなくて?」
「え……」
不安そうに、だが少し救われたようにイザドラがシェルロッタを見る。
「夜などまともに眠っていらっしゃらないのでしょう? お母さんには『お母さん』をお休みする時間も必要ですわ。たとえそれがほんの少しの時間であっても。ゆっくりとお茶を飲んで、美味しいおやつをお食べなさいな」
自分の母のような年齢の美しい人に包み込むように優しくそう言われて、イザドラが涙ぐんだ。
お嬢ちゃま……あら失礼お坊ちゃまのお名前は? おっぱいはいつ飲んだのかしら? あらそうではすぐに寝てしまうかもしれませんねえとイザドラから赤子を優しく受け取り、やわらかく抱きとめ、顔を覗き込んでふふふと嬉しそうに笑う。
「赤子を抱くなんて何年ぶりのことでしょう。本当にやわらかくて、いいにおいで。愛らしいこと」
向かいの部屋の屋根のあるテラスにおりますわねと言いながら、クレアに新しい布団を出すよう命じて母は歌いながら消えていった。
「……迫力のあるお母さんだね」
「ええ、わたくし母の背にいつも薔薇の花が見えますわ」
偶然だね、あたしにも見えたよとイザドラが言い、二人でぷっと噴き出した。
椅子に座ったイザドラが、はあ、と息を吐いた。
重い荷物をやっと置いた、遠くから来た旅人のようだった。
赤い髪に赤い瞳。白い肌は寝不足のせいかくすみ、目の下にはぼんやりとしたくまがあるものの、整った華のある顔立ちである。
ソフィは手ずからお茶を入れた。産後の女性によいと言われる茶葉は、母が事前に用意させたものだ。
「お疲れなのですね」
「ウン。疲れた」
はあ、と息をつき、髪をかきあげ
「……いったい何から話そうか」
そうして彼女は語りだした。
イザドラは物心ついたころから、母と二人暮らしだった。
父が誰なのか、どこに行ったのか、イザドラは知らない。
日の当たらないおんぼろ長屋の一室で、イザドラは育った。
「母親は酒場の酌婦だったよ。いつも臭い香水と、酒の匂いがした。なんにもしてなくてもよくはたかれて、あざだらけだった」
地域学校にも通わせてもらわなかったので、ただ食って、寝るだけの
「犬みたいな暮らしだった」
イザドラの目が遠くを見る。
遊んでくれる人もなく、粗末な食べ物を食べ、痛みをこらえて犬みたいに丸まって寝ている少女を憐れむでもなく見つめる。
「何歳の頃なのかなんて数えてないからわからないけど、母親が家に男を連れ込むようになって」
よくもあんな家に男を呼べたものだと、イザドラは鼻で笑った。
「母親のいないときにそいつにやられそうになって、裸足で逃げた」
寒い冬の夜だった。
外に連れ出されたこともなかったイザドラは、初めて街を見た。
「世界に」
イザドラが生き生きと目を見開く
腕を広げ、光を受け止めるような所作をする。
「色があることを初めて知った」
街灯が瞬いていた
酔客の賑やかな声があちこちから聞こえた。
初めて見る世界を、イザドラは怖いとは思わなかった
なんとにぎやかで
なんと美しく
なんて華やかなことだろう
なかでもひときわ美しい音のする店に、イザドラはフラフラと吸い寄せられるように近づいた。
男たちが酒を飲みながら、一身に舞台を見つめている。
舞台では美しい女が、見たこともない艶やかな布を纏い、音楽に合わせて踊っている。
あれが母親と同じ生き物だなんて信じられない。
ここがイザドラがいたあのちっぽけな部屋と同じ世界だなんて信じられない。
「私はここに産まれなければいけなかったんだって思ったよ」
ここ
この場所に
明るく、色に満ちた騒がしいこの場所こそ自分のいるべき場所なのだと
強い確信を持って




