31 癒師クルト=オズホーン2
がぼ、がぼ、がぼ
なんだか変な音がする。
がぼ、がぼ、がぼ、ぶぶ
「べあっはぁ!」
ソフィは勢いよく上半身を起こした。
口からだらだらと何かが零れており、服の胸の部分はびしゃびしゃだ。
「目が覚めましたか。べあっはぁとは実に勇ましい」
四角い声がした。
はっとソフィは目を見開いた。目の前に、つるんつるんのやたらと整った顔がある。
「……オズホーン様……」
一瞬ここがどこかわからなかったが、間違いなくソフィのサロンだ。
アニーと横並びで座ったソファに、ソフィは体を横たえている。
昼寝から目覚めた幼子のような頼りない気持ちで、おろおろと部屋の中と、オズホーンの顔を見た。
「わたくしは……」
どん、と耳元に衝撃が走った。
耳の横に大きな手のひらがある。
さっきよりもさらに目の前に彼の顔がある。
「ソファドン!?」
「何をふざけておいでなのか。『マナ切れ』するほど魔術を使うなど、いったい何をお考えなのですか」
「……」
オズホーンが怒っている。
声も顔も普通だが、怒りのオーラを感じた。
ソフィは眉を下げた。
人には一度に体にため込める『マナ』の量に個人差がある。
『体力』『スタミナ』と一緒だ。人によっても違うし、経験やトレーニングによっても変わる。
体の中のマナを使い、使いつくし
ソフィは意識を失ったのだ。
まだいける、と思った。
もう少し、と焦った。
間違いだった。
口のびちゃびちゃは魔法水だろう。失われたマナを回復させてくれるお高いお薬である。
失神したソフィに、オズホーンは自分用の貴重なこれを飲ませてくれたのだ。
『癒すものは倒れてはなりません』
いつかのフローレンス先生の授業が頭をよぎった。
『自分の身に何かがあっても、後ろの誰かが必ず支えてくれると、そう信じるから戦士は進めるのです。おのれの限界を知り、決して無理をしないこと。最後までそこに『在り続ける』こと。癒しのものは常に誰よりも冷静で在らなければなりません』
教わっていたのに。間違いなく。
「……おのれの限界もわきまえず、愚かなことをいたしました」
悔しかった。
恥ずかしかった。
涙が溢れた。
一度のマナの消費量がいつもと違うことを、わかっていたはずなのに。
「慢心いたしました。自分なら治せると。もう少しで癒せると。実に愚かなことでございました」
次から次に溢れるソフィの涙を
オズホーンがじっと見ている。
「……マナ切れは眠れば回復します。ですが意識を失い頭を打ち、打ち所が悪くて頭に血が溜まり死んだ癒師がおりました。以後お気を付けください」
オズホーンが身を起こした。
まだ頭がくらくらするが、ソフィも体の向きを変えソファの背にもたれかかる。
オズホーンは椅子を引き腰を下ろす。
「あの親子は、私が癒した患者ですね。人の美醜はわからずとも、自分の癒したものはわかります」
「……はい」
本来ならここでのことを人に話すべきではない。
だがオズホーンは癒師であり、話を聞いていいただ一人の人間だった。
「体の表面の傷を治したいとおっしゃっていました。体を、命をつないでいただいたこと、オズホーン様には感謝しておられました」
「だが何らかの不満があったからあなたのサロンを訪れた」
固い声だった。
少し、ほんの少しだけ、すねた子供のような色があった。
「体が引き裂かれたのを縫い合わせたのだから、表面に多少の傷は残ります。体の中を、生かすために大急ぎでつないでいるのだから、皮膚の再生は二の次にならざるを得ません」
「わかっております」
沈黙が落ちた。
オズホーンが立ち上がる。
「本を返しに来ました。とても目新しい内容でした」
分厚い医学書を、自ら進んで本棚の、元あった場所へ正確に戻す。
「ヒザクルネは?」
「難解な内容のためなかなか読み進めておりません。別途返しに上がります」
医学書の十分の一の厚さの、町人でも読めるような本に彼は苦戦しているのである。
クスリとソフィは笑った。
何度もページをめくり、行きつ戻りつしては首をひねる、オズホーンの姿が目に浮かぶようだった。
「……あの子を治療しているとき、あなた様のお声が聞こえました」
怪訝な顔でオズホーンがソフィを振り返る。
「死ぬな、生きろという必死の声でした。確かにあなた様のものでした。オズホーン様、わたくしはあなた様を見誤っておりました。いっそ冷たいほどに冷静なお方かと。ですが声は、あなた様が、いかに熱い思いをもって真剣に治療に当たっておられるか、明確にわたくしに教えてくれました」
そっとソフィは手をまるく包んだ。
あのときの声が耳によみがえる。
生きろ
死ぬな
戻れ!
己の体を他者の血に濡らしながら
生と死のはざまで命を救うものの、激しい思い
オズホーンは変人だが、冷たい人ではない。
ただ、わかりにくいだけなのだとソフィは理解した。
「尊敬いたしますオズホーン様。わたくしに癒せるのは皮一枚。オズホーン様の絶大な威力の癒しとは比較のしようもございません。たとえ愛する家族が体を切り割かれ目の前で血まみれになってのたうち回っていたとしても、わたくしの手は何の助けにもならないのです」
ソフィはじっとてのひらを見つめた。
「師に言われました。『己の力を過信すれば必ず絶望することになりましょう』と。その通りです。オズホーン様が何人もの方の命を救うあいだ、わたくしは皮一枚治すのにマナを使い切って倒れることしかできない。わたくしは」
涙が零れるのがわかった。
「愚かで、弱い」
泣き言など言うつもりはなかった。
きっと心が弱っているのだ、と
唇を噛み締め嗚咽をこらえ、必死で涙を止めようとする。
オズホーンがソフィに歩み寄った。
「普通の癒師は、マナ切れなど起こしません。危険信号を感じ、それ以上魔術を発動することが本能的に恐ろしくなるからです」
「……そうですか」
「あなただって今日それを感じたはずだ。だが踏み出した。恐れを無視した。目の前の患者を、どうしても癒したかったからでしょう」
抑えようとしても、涙は次々に溢れた。
「愚かではない。弱くもない。言動と本棚は人の内面を如実に表します。あなたは知識に貪欲で、繊細ながらたくましく、実に図太い。癒し手としての素晴らしい資質です」
「別の褒め方がよかったわ」
オズホーンがハンカチをくれたのでソフィは遠慮なくそれで目をぬぐった。
涙と、変な汁がついた。
「親子は笑っておりましたよ」
「え……」
「とてもうれしそうに微笑みながら歩いていました。癒院を出たときとはまるで別人のようだった。先ほどは八つ当たりのようなことを言って悪かった。おそらく私はあなたに嫉妬したのです。私にはできなかったことを成したあなたに」
「嫉妬……?」
オズホーンはじっとソフィを黒曜石の目で映す。
「はい。ですがわかりました。私たちはどうやら互いに不毛なないものねだりをしています。私は体を癒すが、心までは癒せない。きっとあなたはその逆なのでしょう。逆のものを、比べようとするのが間違いなのです。あなたは以前こうおっしゃいました。皮一枚のことは『人によっては命にかかわる、尊厳にかかわる』と。皮膚を治すことで、あなたはその人たちの命と尊厳を守り、救っているのでしょう。その身に与えられたものを全力で人に与えておられるのだ。ご自身をほかのものと比べて卑下する必要などない」
「……」
オズホーンがたくさんしゃべるのでソフィはびっくりしていた。
慰めようとしてくれているのだと気づき、涙をこぼしながらふふっと笑う。
偽らない真面目で不器用な男の言葉は
やがて癒しとなってじんわりと、ソフィの胸に染み込んだ。
「申し訳ございません。わたくしどうかしておりました。オズホーン様のおっしゃる通りでございます」
このサロンを訪れたお客さまたちの、幸せそうな顔がソフィの胸を照らす。
ありがとう、というそれぞれの優しい声が耳によみがえる。
先までの絶望によるものではない、あたたかな涙が落ちた。
「本当にどうかしておりました。ただ一度の失敗で、大切なものを見失うところでした」
もう一度ハンカチで目元をぬぐう。
すでに涙と変な汁でドロドロのぐちゃぐちゃである。
「今度新しいハンカチをご用意いたしますので、こちらは頂戴してもよろしいですか」
「差し上げます。『ハンカチは女性の涙をぬぐうためにポケットに入れておくものだ』と上司に教わりました。気になさらないでください」
「刺繍の練習台にいたしますので、どうぞ受け取ってくださいまし」
「ではいただきます」
「魔法水の代金は……」
「必要ありません。『飲食で女性に財布を出させるな』と言われております」
「飲食に入るのかしら?」
「はい。飲み物ですので。ところで『南北生薬考』をお借りしてもよろしいですか」
「どうぞ。だいぶ読み込んだのでところどころ擦り切れておりますけれど」
「かまいません」
パッと顔を明るくしてオズホーンが本棚に向かう。
ずっとあの顔をしていれば周囲に誤解されることも少ないだろうにとソフィは残念な気持ちになる。
「ああ、ところでソフィ嬢」
「はい」
「婚約者はできましたか」
「絶賛募集中ですわ」
「なるほど」
真面目な顔で頷くオズホーンに
ビキッとソフィはこめかみに青筋を立てた。
「それでは。今日は食べられるだけ食べ、寝られるだけ寝てください。まだお若いので、目覚めるころにはマナも回復していることでしょう」
患者を前にした癒師のようにオズホーンが言う。
オズホーンがまたソフィをじっと見た。
何かしらとソフィは見返した。
「患者を思うあなたの心は得難いが、どうか二度としないでいただきたい。床に倒れているあなたを見つけたとき、私は実に狼狽しました」
「本日は大変ご迷惑をおかけいたしました。胸に刻み二度としないとお約束いたします。ところでオズホーン様、どうやってこの屋敷にお入りに?」
「ベルを鳴らし出てきた若い侍女の方に身分証を提示したら通されました。何か問題がありますか」
ソフィ宛の来客ならば、必ず案内する前にマーサかクレアがソフィに前触れを出すはずだ。
何か手違いがあったのだろう。あとでマーサに確認しなければとソフィは思った。
結果的に助けられたのだから、あまりしからないようにと伝えよう。
「ございません。……オズホーン様」
「はい」
相変わらず人の目をまっすぐに見る人である。
「今日はお助けいただき、ありがとうございました」
「お助けできてよかった。お体を大切になさってください」
「はい」
そしてオズホーンは去っていく。
びしゃびしゃのどろどろになったハンカチを
ソフィは一人、じっと見つめていた。




