3 化物嬢ソフィ2
まり子の記憶とソフィの記憶を、ぼんやりと反芻していると、ノックの音がした。
「どうぞ」
入ってきたのはメイド長のマーサだ。
「お水をお持ちいたしました」
「ありがとう」
コトンとベッドサイドに水差しが置かれる。
「包帯を取り換えさせていただきます」
「ありがとう」
しゅるり、しゅるりと顔の包帯が解かれる。
一部固まっていて、緑と黄色と赤の妙な模様になっている。
「日記のこと、ありがとうマーサ」
あれが両親の目に触れなくてよかった。
心のままに書いたものとは言え、両親に見せるにはあまりにもひどい言葉の羅列だった。
「……あれは事故でございますゆえ」
眠れずに外の空気を吸おうとして窓を開け、めまいがして落ちたと
両親にはそう言っていた。おそらく誰も信じてはいないだろうが。
現に窓には錠がはめられ、板が打ち付けられている。
「マーサ」
「はいお嬢様」
「私、みんなが好きだわ」
しゅるり、包帯を解いていた手が一瞬止まり、また動き出す。
「強くてかっこいいお父様も、きれいで優しいお母様も。優しいのに私のために厳しくしてくれるマーサも、ちょっとドジでおおらかなクレアも、美味しいお菓子を焼いてくれるレイモンドも。本も勉強も好きだわ。知らない世界をたくさん教えてくれるから。魔術の才は、私にたくさんの夢を与えてくれた」
「……」
マーサの手は包帯を解き終わり、新しいものへと震えながら伸ばされる。
「たくさんの恵まれたものを持ちながら、それに気づかずに」
むき出しになったぼこぼこの肌を、ソフィの涙が流れていく。
「馬鹿なことをして、本当にごめんなさい」
ぐう、と
押し殺したような吐息が聞こえた。
肩を抱かれ、驚いた。マーサは主従の区切りを鉄のように大事にするメイドの鑑だ。
ソフィのあらわになった頬が、年老いたマーサの震える手にそっと撫でられる。
「何度代われたら、と、思ったことでしょう……」
初めて聞くマーサの涙声であった。
血を吐くように老齢のメイド長は叫ぶ。
「幼少のみぎりからご聡明でお優しく、努力家のお嬢様が、かゆさ痛さに声を殺してお泣きになるたび、マーサは神に願いました。どうか取り替えてくれと。なぜなのかと問い続けました。なにゆえこの純粋でお美しいものが、こんな病に侵されねばならぬのかと。学園でいじめられて泥だらけになってお帰りのあと、誰にも心配をかけまいと自ら洗濯をされているとき、マーサはどうやったらいじめた生徒を一人残さず皆殺しにできるだろうかと考えました」
「えっそうだったの」
「血や骨、心の臓が薬になるのであらばマーサは喜んで身を刻みましょう。お治しするために悪魔に魂を売れというのなら喜んで売りましょう。赤子の頃より傍につき、その機会をずっと待っているにもかかわらず、この老体はいまだ何のお役にも立つことができておりません」
マーサの涙がシーツに染みを作る。
「本来であれば誰よりも称賛されるべきお嬢様の積み重ねられた教養、ご両親から受け継いだ容姿のお美しさ、思いやりにあふれたお優しい心全てを覆い隠すこの忌々しい病めが、マーサは心の底から憎うございます。それでも周りに心配をかけまいとけなげに努力し続けるお嬢様のご心労はいかほどか、マーサには想像することすらできませぬ」
「マーサ……」
「それでも……それでもどうか……お嬢様」
どうか生きてくださいまし
どうか
忠実なメイド長の消え入るような声が、ソフィの胸に染み込んだ。
その晩ソフィは考えた。
もう命を捨てるような真似は絶対にしない。
では、これからどのように生きていくべきか。
皮膚病とは長い付き合いになるだろう。だが年齢とともに治癒していくことは考えられる。
なるべく症状を悪化させずに、記憶の中にあるあらゆる方法を試しながら、薬になるものを探す努力を続けるべきだ。
学園には……試験を受けなおし戻ることもできるが、ソフィという異質な存在は必ずほかの生徒の心を乱すだろう。以前は泥や暴言を投げられる程度で済んだが、暴力まで発展してしまえばいじめたほうの子の人生もねじれてしまう。
勉強はこれまで通り続けよう。せっかく積み上げてきたものを、手放す必要などない。知って無駄になるようなことなど何もない。
結婚は……とにかくマティアス先生との婚約はなかったことにしてもらう。
でもいつか愛する人と結ばれて、子を持ちたいという気持ちだけは手放せない。
子育てがいかに大変でも、子というものがどんなに愛しいか、その小さな掌に頬を撫でられる感触までソフィはもう知っている。
「仕事……」
結婚を先送るのなら、いつまでも親のすねだけかじっているわけにはいかない。
自分は何をしたいのか
何ができるのか
できることならば病院の手伝いをしたいが、もっとも清潔が求められる場所に、ソフィは入れてはもらえまい
「でも」
治したい
人の役に立ちたい
まり子の記憶が蘇る。
何個目の病院かもわからなかった。
長く待たされ、診察は数分で
投げるように薬を渡されるだけの日々がつらかった。
冬の寒い日、評判を聞いて娘と電車に乗ってたどり着いた先の小さな診療所で、しゅんしゅんと湯気を出すやかんを乗せたストーブを背にして向き合った老齢の先生が娘の手を取り、その頬と瞳、まり子をじっと見て
「うん」
二人の頭にポンと手を置き
「ふたりとも、よくがんばった」
言ってくれたとき
目から信じられないような量の涙が噴き出した
それで劇的になにかが治った、というわけではない。
ただ、暗闇に明かりが差したようだった。
ホッとする暖かな火をもらったようだった。
娘とともに、あがき、苦しんだからこそ感じた光
困っている人に、光を差したい
私は光を差せる人になりたい
ソフィの持つ『皮一枚を治せる力』
そして
目覚めてから感じる。体の中にあるなにやら図太い力。
――これはきっと
「おかん力!」
アラカン前まで生きた女に宿る
チマチマしたことが気にならない、厚かましい不屈の力
「私は生きるわ」
力強く
たくましく
のっしのっしと光のもとへ
「生きるわ」
かくしてここに二度死んだ、おかん力ある17才が誕生した。