29 野菜屋ヤオラ4
翌日、彼らは現れた。
60代くらいの毛髪の薄い男性と、40代くらいの同じような形に髪が薄くなりだした男性。それにその妻と思われる、40前くらいの女性の3人
ヤオラが訪れる予定だった時間に念のためサロンで用意をして待っていたソフィが、読み終えた分厚い戦争史の本を閉じたとき、クレアのあとにオドオドしながら連れだって入室してきた。
「あなた方は……」
「はい、あの今日ここに来るはずだった、お袋……野菜屋ヤオラの息子です」
「孫です」
「孫の妻です」
ぺこ、ぺこ、ぺこ、と順に頭を下げた。
そして彼らは、テーブルの上にある来客用の茶と、手のついていない菓子を申し訳なさそうに見た。
「連絡もなくお待たせしてすみません! 実は母は……」
「ご安心ください。ヤオラ様なら、昨日お見えになりましたわ。おそらく日を勘違いなさったのだと思うのです。どうかお気になさらないで。どうかお母様をお叱りにもならないで」
ぎょっと目を見張り、顔を合わせ、やっぱり、と息子がため息のような声で言う。
「……母は今朝、死にました」
「え……?」
「起きるのが遅いので見に行ったら、布団の中で、笑って死んでいました。きのう一人で来た? そんなことできるわけありません。母は一人でなんて、家の中の半分ほどしか歩けないんですから」
足の悪い大婆様をソフィのサロンに連れていくため、家人は台車を準備していた。
めったにわがままも言わない化石みたいな婆様が、絶対に行きたいと強く強く希望するため、普段は野菜を運ぶための台車に手すりをつけて、前と後ろを子と孫が、横を孫の嫁とひ孫で守って、大婆様が落ちないようゆっくりゆっくり引いて連れていく予定だった。
いつも早起きの大婆様が起きてこないので、きっと楽しみ過ぎて眠れなかったのだと笑いながら起こしに行った嫁は、布団の中で冷たくなっている大婆様を見つけた。
「きのう大婆は夕飯もいらないからと早く床についてしまって、私たちはまだ仕事が残っていて、最後に顔を見たのは昼だったのですが」
そのときはいつも通りあった顔の傷が
安らかに眠る大婆の顔から消えていた。
綺麗に、もともとなかったかのように。
「朝から皆大騒ぎで、お医者さんを呼んで、今は子が……大婆のひ孫が大婆のそばについているんですが、そういえばこちら様にご連絡をしていないと先ほど気づき慌てて3人で……空の台車を引きずって参りました」
40代のお孫さんが言い、あっと60代の息子が気づいた顔をした。
本当に慌てていたのだろう。乗せる相手のいなくなった台車を無駄に引いてきてしまったのだ。
「……大婆は、こちらに来た……来たとき、どのような様子でしたか?」
お嫁さんがおずおずと尋ねた。
「……新しい、白いお花の刺繍が入った水色のワンピースをお召しでした。お孫さんのお嫁さんが今日のために買ってきてくれたとおっしゃって」
「あぁ……」
お嫁さんが口を覆った。
じわりとその瞳に涙が浮く。
「……確かに、私が買った服です。大婆は白い花が好きで……」
「……シャラの花でございますね」
「なんてこった」
ぺちんと60代の男性が禿げ上がった額を叩く。
「では大婆はあなた様に……その……」
「アンジェリーナ様のお話をお伺いいたしました」
「うわあ!」
ぺちんと今度は40代の男性……孫のほうがまったく同じ仕草でまだ毛のある額を叩いた。
「もうすぐアンジェリーナ様にお会いできるから、傷を治したいと」
そこまで言い、ソフィは言葉に詰まった。
唇が震えた。
あんなに喜んでいたのに。
何年も、何十年も叶わなかった夢がようやく叶うところだったのに。
魂が抜けるほどにここに来たかったというのに。
涙が落ちる。
「……間に合わなかったのですね」
唇を震わせ、ハンカチで目元を押さえるソフィにあわ、あわ、あわと3人が慌て、孫が、違うんです、違うんですとブンブン手を振りながら言った。
「逆ですソフィ様、アンジェリーナ様はもう、60年も前に亡くなってるんです」
「え……」
間に合わなかったんじゃない
間に合ったんだ! と泣きながら叫ぶ。
「綺麗な顔で、大婆は天上の大切な友達に会いに行けたんです! あなた様のおかげで!」
開けた窓から入る風が、送り火のにおいを部屋に運んでいた。
3人がお辞儀をしながら去っていったサロンの中で、ソフィはぼんやりしていた。
机の上の戦争史の表紙を、そっと撫でる。
アンジェリーナは20歳の若さで、肺の病で亡くなったそうである。
死する前に書いた手紙が、二人が世話になったお助け小屋宛に届いていたのだそうだ。国を出る前にどうしても礼がしたく立ち寄ったヤオラに、それは手渡された。
結局舞台女優にはなれず、父の商売相手に見染められ嫁いだこと
いまだ子はなく、ここのところ体の調子が悪いこと
あの夏の日……ヤオラと野菜をとったり、ピクニックをした日々が懐かしい
またヤオラに会いたい。あなたがヘビを蹴とばす姿をまた見たい。
今生で二度と会えなくても、どこにいても、あなたの幸せを心から願っている。
アンジェリーナの筆跡に添えて、アンジェリーナの父の家から付き添ったメイドの手により、彼女の死が書き添えられていた。
お嬢様はよく晴れた日窓を開け
日に焼けることもいとわずに日の光を浴びながらシャラの花の歌を歌っていた。
あの日あなたが屋敷を訪れたことを知ったら、何を置いてでも会いたがったことだろう。
最後、肺を病んだアンジェリーナはひゅうひゅうという息で苦し気に
それでもどこか懐かしむように幸せそうに、シャラの歌を歌っていたという。
「一夜で消えたシャラの花の色を
一夜で消えたシャラの花の香を……」
細くソフィは歌った。
どこかの朴訥としたのどかな村で
夏の光を一身に浴びながら、金の髪に白い肌の綺麗な女の子と、日焼けした元気な女の子が手を取り合って歌っている姿を思い描いた。
恐ろしい兵器さえ落ちなければ
そうなるはずだった暑い夏
ぽつりと落ちた涙が、戦争史の表紙に丸い染みを作り、広がった。
ヤオラ編完結しました。
お盆に書いたお話です。
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