28 野菜屋ヤオラ3
隣り合う二か国は古くから鉱山の所有権を巡り、何年も何十年も、代替わりしても争い続けていた。
剣と盾による原始的な戦争から、やがて『先祖返り』の魔術を使ったものへ。
小さな争いから大戦を経ても終わらない長い長い戦いに焦れた西側の国は、『魔石』を使った兵器を作り出した。
魔石の中に、魔術師の力を流し込み、さらに魔術で包む。
何重にも重ねられ中で渦を巻く大量のマナを閉じ込めたそれは、火と風、水、土の4つが作られた。
最悪なことにそれは戦場では使われず、戦士のいない街に落とされた。
まずは「火」が。いくつもの街と村を飲み込んで、多くの人が突然の灼熱に命を落とした。
西側は期限を設けて東に迫った。降伏しなければあと3つ、同じものを、お前の国のどこかに落としてやると。
東の王はすぐには答えなかった。先祖から受け継がれた西を憎む心が王の唇を閉じさせ、
そして
「風」は容赦なく街に落とされた。
「火」と同規模の被害を受けた東国の王はこれを受けてついに降伏し、血の涙を流して王座を譲ったという。
一度は合併された両国だが、西側のあまりの非道な行いに反旗を翻すものが多く国はまとまらず、現在は4つに分かれて小さな小競り合いを続けている。
ヤオラが受けたのは「風」だろう。閉じ込められた風のマナは渦を巻き、半径3キロの人や建物をまるごと吹き飛ばしたという。
わずかの隙間から入ってきたものだけでその威力なのだ。
現在は非人道的な不法なものとして各国の王が調印した条約で禁止されているが、いつこれを侵すものがいたとしても不思議ではない。
『魔石』『魔力』正しく使えば生活を向上させ、人を幸せにするはずのものは
一歩使い方を間違うだけで、簡単にその命を奪う恐ろしいものになる。
「どこが村かもわからず、どこか家だったのかもわかりませんでした。暑い、暑い中を、アンジェと一緒に歩きました。ちらほらと人が増えました。誰もかれも皆傷ついていました」
詳しくを語るのが辛いのだろう。思い出すのも辛いのだろう。
はらはらと涙を流すヤオラの背を、ソフィはそっと撫でる。
ハッとヤオラが目を見開いた。
「どこまで……話したでしょう」
「……お二人が助けられたところまでですわ」
「ああ……」
ソフィは道中のことを語らなくて済むように少しだけ嘘をついた。
ヤオラがまた思い出の中に潜る。
「孤児院の中を借りたお助け小屋の一つに二人でお世話になって、アンジェは体は元気だし、私もその中ではまったく無事な部類でしたので、洗濯をしたり料理をしたりと働きました。アンジェは実家に手紙を書いて無事を知らせました。何日か、何週間かそこにいて、アンジェにはお迎えの馬車が来ました。馬車から身を乗り出してこう、こう私に手を振って」
いつか会おう
いつか必ず、また会おう
泣きながら約束をして、二人は別れた。
「そうして、それっきり」
そっと胸に手を当てた。
いいえ、と首を振った。
「私一度、アンジェに会いに行きました」
もう家も土地も失い、戦場に行った父と兄も死に、母もあの日失った。
何も持たない少女は職を求めて、以前アンジェに聞いた、アンジェの屋敷のある大きな街に上京した。
大きな屋敷の前に佇む、顔に傷のある少女を認めたのは屋敷の主だった。
裏口から通された大きな部屋で固まっている少女に、主人は金の入った袋を押し付けた。
『娘から話は聞いている。あの子を助けてくれたことは感謝しているが、もう二度とここに顔を出さないでもらいたい』
呆然と目を見開くヤオラに、男は冷たく言った。
『アンジェは先日母親を失い、この屋敷に引き取られたばかりだ。弱っているところに、君のその顔が傍にあったら、アンジェは何と思うだろう。命の恩人という看板をかけた君のその顔は、アンジェの心を重ねて苦しめるだけなのだ。酷いことを言うようだが、どうかわかってほしい』
気が付けば金の入った袋を持ったまま、屋敷の外に放り出されていたという。
「私は、そんなつもりではなかったのです。ただ一目、アンジェに会いたくて……」
顔をそっと撫でた。
「それだけだったのに」
その後ヤオラはその金を元手に、野菜の担ぎ売りを始めた。
朝早くに遠くの農村に行き野菜を買い付け、街で売る。
まっとうな料理屋が使わないような傷物の野菜を安い値段で売るので、庶民の女将さんや安い食堂の客がついたのだという。
「傷者の女が傷物の野菜を売っているというので、わかりやすかったんですよ」
安いのに味はいい野菜を売ってる、と評判になって、何件も客が増えたというのだからわからないものである。
足腰の強さも、野菜の目利きも、彼女の故郷が彼女に与えたものだ。
今は亡き故郷を胸に抱いて、ヤオラは重たい野菜を担ぎ続けた。
「夫も里を焼かれて一人ぼっちで街に出てきた人で。一人よりも二人のほうが生きていくには都合がいいというそれだけの理由で結婚しました。子を産み育てているときにまた国の中で戦争が起きたので、夫と子供を連れてこの国に逃げ込みました。もう60年も前のことなのですねえ」
いくらかの金と身の回りの物だけを持って、新しい地でまた野菜の担ぎ売りをした。
土地は変わってもいい野菜の顔は変わらないのがうれしかった。
一から客を開拓し、そのうちに稼ぎも安定し、店を持ち、今は孫が店主としてがんばっているとのこと。
20年前に夫とは死に別れた。長い長い隠居生活だが野菜の目利きの力は衰えず、今も店の最終兵器として頼られることもあるという。
語り終えてヤオラが口を閉じた。
なんと壮絶で、なんとたくましい人生史であることか。
ソフィは感動していた。
ソフィは目の前のこの小さなお婆さんが、神様のように思えてならない。
不思議なお堂に守られて、強くたくましく戦争の中を生きた一人の女性は
こんなにも長生きして、書の中にない、歴史のなかにあった人々の生活を生々しく語ってくれる。
「本日はそちらのお顔の傷をお治しするのでお間違いございませんか?」
ソフィはなるべくゆっくり、大きな声でヤオラに聞いた。
何か考え事をしていたか、放心していたヤオラは少し遅れてこっくりと頷き、にっこりと笑った。
皺に埋もれてくしゃくしゃの顔がさらにくしゃくしゃになる。
「実はもうすぐ、アンジェに会えることになりまして」
「まあ!」
にこにことうれしそうに笑うヤオラの顔は、ゆっくりと悲しみに陰った。
「アンジェのお父さんの言葉は、それは酷いものだと思いましたけど、あとになってからたしかになあとも思いました。例えば逆に私を守るためにアンジェの顔がこんなことになっていたら、私、アンジェの顔を見るたびに苦しむと思います。そんなものはもう全部、取っ払ってから、アンジェに会いたくて」
斜めに走る爪の跡を、ヤオラは震える指で正確になぞった。
「孫が酒場でチラシを持ってきてくれて。出かけるのにろくな服がないからって孫のお嫁さんが新しい服を買ってくれて。チラシに書いてあることを、ひ孫が何度も読み聞かせてくれて。私も、家族も、ここに来られるのを、すごく楽しみにしていました」
ほわりと胸が熱くなる。
戦争に傷つけられ一人ぼっちで故郷を追われた少女は、今この国で幸せな家庭に囲まれて過ごしているのだ。
ソフィはそれがうれしい。
「では、失礼いたします」
ソフィは手をかざす。
『いたいのいたいのとんでいけ』
大好きな友人を守るため、その手を取るために迷わずにかけ戻った少女
『とおくのおやまにとんでいけ』
何者も恨むことなく、自らの足で地面を踏みしめ歩み続けた女性
どうか大切な友に、にっこりと笑って再会できますように
(――!?)
グイ、と引き込まれるような、吸い込まれるような感じがあった。
息が上がる。いつもよりも多くのマナを失ったのが感覚でわかった。
古傷だから? 魔術による傷だから?
混乱しているソフィの前で、そっとヤオラの指が動き、傷跡を……傷跡のあった、今はほかの場所と変わりない皺の浮く場所を撫でた。
「……ありがとう」
拝むようにソフィに両の手を合わせた。
つうと皺のある頬を、涙が伝う。
「ありがとう」
息を整えながらソフィも微笑んだ。
気づけば日が傾いている。こんなにも長くお話させてしまってさぞお疲れのことだろう。
ご住所をお伺いして、馬車を呼んだほうがいいと思い、ヤオラに「失礼」と声をかけてから、ソフィは扉を開けマーサやクレアの姿を探した。
見える範囲には誰もいない。ヤオラを一人にするのは心配だが、やはりここは誰かを探しに行かせていただこうと、声をかけるためにヤオラを振り返る。
「……え……?」
椅子の上に
小さな老女の姿はなかった。
「えっ? ……え?」
まさか転げ落ちたかと思いテーブルの下を覗く。
老女の姿は見えなかった。
シャラの花を抱こう
揺れる髪に挿そう
「えっ?」
部屋の外の廊下から歌が聞こえる。
シャラの花の色を
シャラの花の香りを
それは速い速度……快活な十代の少女が駆け抜けるような速さで、遠ざかっていく。
二度ない夏に歌おう
一夜で消えたシャラの花の色を
一夜で消えたシャラの花の香を
この胸に抱きこの髪に挿して歌おう
二度ない夏に歌おう……
追いかけて走るソフィの足は歌の主人に追いつかず
やがて屋敷の玄関に到着した。
もう声は聞こえない。
おかしな汗が浮いていた。
80のお婆さんに、追いつけないことなどあるだろうか
足腰の強いとはいえ、あんなに小さな、背中の曲がったお婆さんに。
「あれ、お嬢さん」
声がかかった。ボウルを持ったレイモンドだった。
「……レイモンド、今、廊下を誰かが走っているのを御覧になって? お歌を歌っている方が」
ああ、とレイモンドがにっこりした。
「ルールル~、っていう歌ですよね」
ソフィはホッとした。レイモンドの鼻歌は、少し外れているものの間違いなくあのシャラの花の歌だった。
ではやはりものすごく足腰の強いお婆さんだったのかと思いかけたソフィに
「12、3歳の日焼けした元気そうな女の子でしょう? 子供が来てるならお菓子がいるだろうなと思って、俺お嬢さんに聞こうと……」
レイモンドが言葉を切った。
自分はよっぽどすごい顔をしているようだった。
マーサさん、クレアさん、誰かぁ!
ボウルを横に置いてソフィの肩を支えながら、レイモンドが叫んだ。
ふわり、とあの迎え火の独特な香りがした。




