26 野菜屋ヤオラ1
夏になった。
届く手紙が増えたものの
「世の中にはこんなにもしわを取りたい方が多いのね」
思わず呟いてしまうほどに、『若返り』を望む女性からの手紙が多く、断りの返信は大変だった。
「新しい広告には『残念ながら過ぎ去った時は戻せません』と大きく書いておくしかないな」
出かける前にひょいとソフィのサロンに顔を出した父が、手紙の束を持ち上げて言う。母が聞いたらまた怒りのブリザードが吹き荒れそうなセリフに、慌ててソフィはあたりを見回した。
「次の来客はいつなんだい?」
「明日よ。なんと80歳のご婦人なの」
「へえ」
質素な便箋に入った、丁寧な手紙だった。
『古い顔の傷跡を消してほしくお願いいたします。 ヤオラ(野菜屋・80歳)』
「なんとまあ。女性は何歳でも美しくなりたいものなのかな」
「ええ、きっとそうなのだと思います」
出かけていく父の背中を見送った。
ふっ、と吹いた風の中に、かすかに独特の香りが混じった。
ああ、もうそんな時期なのだわとソフィは微笑む。
この世界には、日本の『お盆』とまさに近しい風習がある。
亡くなった先祖を迎えるため、簡易的なかまどのような形に石を組み、中で独特の香りが出る木を焼く。
火事が出ないよう、家の者は誰か一人が必ず横に立ち燃え尽きるのを見張る。
これを任されたら立派な大人と言われており、まさに『任されたぞ!』というぴかぴかの顔で一つの灰も見逃さぬよう、いざというときのための水の入ったバケツを握りしめて立つ小さな子供たちが、そこかしこの家の前にいるのがほほえましい。
オルゾン家にはまだ迎えるべき先祖がいないため、その風習はない。
父は天涯孤独で、母とは駆け落ち同然の結婚だったから、ソフィは祖父母の顔を知らない。
なんだか聞いたら悪いような気がして深く聞けなかったが、二人の話を今度母に聞いてみよう、と思った。
それだけソフィが、気にする余裕ができたということかもしれない。
良いことだわ、と伸びをして振り返ったソフィの前に、それはちんまりと座っていた。
一瞬ソフィは、それを犬だと思った。
行儀のいい犬が、椅子に座っている。
否、犬にしては大きい。
よく見ればそれは、いやよく見なくてもそれは、人間のお婆さんだった。
「お初にお目にかかります」
ゆったりとしたビブラートの効いた声で言い、器用にお婆さんは椅子に正座したまま頭を下げた。
「お手紙を書きました、ヤオラにございます。どうぞよろしくお願いいたします」
「えっ」
明日迎えるはずの来客の名にソフィは慌てた。
自分が日時を間違えたのか、いや何度も何度も確認したはず。
小刻みに震える老女の様子を見て、ソフィはおや、と思った。
とろん、としたような瞳
目が合っているようで合っていない、不思議な感覚。
まり子のころ日常的に相手をしていた、老人たちの様子と一緒だった。
この方はおそらく少し、少しだけ頭の機能を失っておられるのだ。
それこそつきっきりの介護が必要な程とは思えない。髪も綺麗に整えられている。
服はおそらくおろしたてであろう、白い花の刺繍がある水色のワンピースだ。
ほんの少しの物忘れ、ほんの少しの勘違いがある程度であろう。歳を取れば当然のことである。
それにしても誰が迎え入れたのだろう。案内状の住所を頼りに、よくもここまで一人で来られたものだ。
新しい茶やお菓子を頼みに行きたいが、マーサやクレアが屋敷のどこにいるのかわからない。
席を外してこの客人を一人にするのも心配である。
まして『予約は明日だから出直せ』など、言えるはずもない。転んだだけで息を引き取りそうな老人だ。
どうせ予定もないのだから、とソフィは腹をくくった。
「お初にお目にかかります。ソフィ=オルゾンと申します。ヤオラ様、どうぞよろしくお願いいたします」
まだ手をつけていない焼き菓子と、自分用に入れていた茶を新しいカップに注ぐ。
「お話を伺ってもよろしいでしょうか」
鋭い爪で額から口の下まで斜めに引き裂かれたような3本の傷跡がある老女の顔を、優しく見つめた。
――その年の夏は暑かった。
普段なら刈られているはずの雑草が天高く茂り、整えられているはずの畑は手が入らないままぼうぼうと荒れていた。
村中の男という男が、村にいなかったからだ。
「皆、兵隊に取られてしまったの。その年わたくしは13歳でした」
おっとりと語るヤオラの言葉を聞きながら、ソフィは頭の中の歴史書をめくる。
67年前の戦争。
農業に携わる庶民を根こそぎ徴集するような大戦。
人々の記憶から消えかけた、戦争の歴史に大きな爪跡を残した、かの残虐な
「第三次パルミアの大戦でございますか」
「ああ……そんな名前だったかもしれませんねえ」
とにかく暑かったのですよ。とヤオラは続けた。
村には老人と、女子供しかいなかった。
畑に手の回らない家では食べるのにも困って、子供たちはイモを探そうと、よくそこらの土をほじくっていた。
ヤオラの家も父と兄が徴兵されてしまったが、体の動く若い母とヤオラの二人で、なんとか家の畑を整えていた。幸い村の中では大きな畑で、普段の父の手入れがよかったのか、野菜は二人をねぎらうように盛大に実をつけてくれた。いくつか盗まれることもあったが、母は犯人捜しをしなかった。
一番楽しみにしていたトマトが、真っ赤になる前になくなったと泣くヤオラを、母は抱きしめた。
『困ったときは助け合いなさい。持っているものは持っていない人に分けてあげなさい。持っていることを見せびらかすのはやめなさい。生きていけるだけのものがあれば、それだけでいいのよ』
ヤオラは納得できなかった。
「犯人を見つけようと思って、夕方畑に張っておりました」
ざるを被って、伏せて茂みに隠れていた。
綺麗な赤い靴が目に入り、土だらけの顔を上げるとそこに
「天使がおりました」
夕焼けの赤に浮かぶ、綺麗なウェーブのかかった金色の髪
抜けるような白い肌、宝石のような澄んだ青色の瞳
ざるをかぶって地面に這いつくばっているヤオラを、汚れた野良犬を見るような軽蔑しきった瞳で見下ろしていた。




