22 同窓リリー2
朝起きると息がしにくかった
家を出ようとすると足が止まりそうになった。
『学園に行きたくない』
何度言おうとして飲み込んだだろう。
学園でソフィが何を言われ、どう扱われているか。
知れば両親は必ず悲しむ。
家族を悲しませたくなかった。
そうされる自分を知られるのが恥ずかしかった。
『どうして普通に産んでくれなかったの』と
答えなど出ようもないとわかっていながら問い詰めてしまいそうな自分が怖かった。
『おはよう』
今朝も挨拶を飲み込んだ。
そう言い合える友人は教室の中のどこにもいない。
何も書かれていない机にほうっと息を吐いて、画鋲が敷いてないことを確認してから椅子に座り、机の中にカエルがいないかを確認してから教科書を詰める。
教室のあちこちで上がる楽しそうな声や笑い声は、なにひとつソフィのものではない。
それが自分を嘲るものではないことを祈り、ただ息をつめて授業が始まるのを待つ。
ときどき、ちら、とリリーを見る。
ときどき、目が合う。周りを気にするようにしてから、わずかに目元だけで笑ってくれる。
おしゃべりをしたり、笑いあったりしたわけではない。だけど
ソフィはリリーを、唯一の友人だと思っていた。
だから今日もここに、『行きたくない』という言葉をギリギリ飲み込んで座っていられる。
『リリーちゃん』
『ソフィちゃん』
いつかそう呼び合って本の話などをする日を夢想してやり過ごした。
ソフィが通学した最後の日
その日は先日行われたテストの順位が張り出された。
学年の第一位に載っている『ソフィ=オルゾン』の名前に、胸が高鳴った。
早く帰って、マーサやお母様に伝えようと頬を染め駆け足で門を出ようとしたソフィの頭に衝撃が走った。
パラパラと落ちるのは……土だ。
クスクスと笑い声が聞こえる。
反対側からも同じものが投げられた。ソフィは慌てて鞄で顔を隠す。
『守るほどの顔でもないでしょうに』
どっと笑う人々の声が聞こえた。
四方八方から泥団子がソフィを襲った。
人を貶めるために、なぜここまでするのかわからない。
嫌いなら近づかなければ良いではないか
無視していれば良いではないか
どうしてわざわざ構うのだろう、攻撃するのだろう。
ソフィがいったい何をしたというのだろう
がちん、と今までの団子にはなかった衝撃がソフィの額を襲った。
手をやると、血が出ていた。
地面に落ちた泥団子からは、割れたそこから石が覗いていた。
『あ……』
声のした、その泥団子が飛んできた先をソフィは呆然と見た。
手のひらを泥で汚し、目を見開くリリーがそこに立ち尽くしていた。
ぷつん
細い糸の切れる音を、そのときソフィは確かに聞いた。
しばし放心していたソフィは、椅子に座っていたはずのリリーが這いつくばり、床に額を擦りつけていることに気づいてハッとした。
慌てて立ち上がり、その肩に手を伸ばそうとする。
「リリーさん!?」
「許してと、言える立場でないことは承知しております。わたくしはあなたを深く傷つけたうえ、何年も一言の謝罪もせず、本日までのうのうと生きて来ました」
「……」
さまざまな感情が、ソフィの中で渦を巻く。
目の前の細い背中を踏みにじってやりたいような怒りがある
あなたには
あなただけは
あなたとだけは
声を上げて泣き出したい、12歳だったソフィがまだ胸の中にいる。
ソフィは震える唇を強く噛み締める。
あなたには気持ちをわかってもらえていると思っていた。
あなただけは、私を傷つけないと思ってた。
優しくて思いやりに溢れたリリー
あなたとだけは
いつか友達になれると、そう思っていた。
「……どうして、石を投げたの」
ペタンとソフィは床に座り込んだ。
ビクンとリリーの肩が上がり、涙に濡れた顔でソフィを見上げる。
「……言い訳でしか、ないけれど」
「わたくしはあなたの言い訳が聞きたいの」
くしゃ、とリリーの顔が幼子のように歪む。
「……石が入っていることを、知らなくて。泥団子を渡されて、お前も投げないなら仲間にするぞと、早く早くとはやし立てられて……わたくし……」
早く投げろ
やらなきゃお前もあいつの仲間だ
やんないなら早くあっちに行けよと
言われてリリーはそれをソフィに投げることを選んだ。
「おのれの身を守ることを選んだのです。あなたを傷つけることで、学園での自分の立場を守ることを選びました。言い訳のしようもございません」
もう一度彼女は額を床に擦りつけた。
「間もなくわたくし、修道院に入るつもりです。ようやく俗世のしがらみから解き放たれることとなり、第一にあなたに謝りに行こうと、……何度もお伺いしたのだけれど最後の最後でいつも勇気が出なくて。ようやく今日ベルを鳴らしました。お時間を作ってくれてありがとう」
床に置かれた彼女の白い指が、ぎゅっとカーペットを握りしめる。
「わたし、あのとき、あなたに、石をぶつけて」
ひっくとまた肩が揺れた。
「ごめんねぇ……」
「ッ――……」
ソフィはリリーを抱きしめた。
驚いたリリーも、ソフィの涙を認めまた泣いた。
えーん、えーんと二人で子供のように泣いた。
お互いに何も言えなかった、12歳のあの日に帰って泣いた。
リリーも苦しかったのだ
ずっと思い悩んで、思い出して、ソフィを忘れずに今日ここに来てくれた。
裏切られたというような悲しい気持ちはまだある。
きっと消えることはないだろう。
でも
今日リリーがここに来てくれた
心の底から謝罪をしてくれた
辛く、悲しかった12歳のソフィに、ソフィは伝えたい。
あの子と、やっと友達になれそうよ、と。




