21 同窓リリー1
その客は文もなく訪れた。
「またソフィ様にお客様です。その……学園で同級だった、リリー=ブラント様と名乗っておいでです」
隅々まで読みつくしているはずの分厚い歴史書を開いていたソフィに、クレアが遠慮がちに声をかけた。
「……お会いするわ。サロンに通してちょうだい」
「はい」
大丈夫ですか、とクレアの目が言っていた。
大丈夫よ、とソフィは安心させるように微笑む。
リリー
学園で最もソフィに優しく
最もソフィの心を傷つけた、美しい少女の名前。
『化物がきたわよ』
クスクスと笑いながら、ちゃんとソフィの耳に聞こえる程度に抑えられた声がソフィを迎える。
まだおかんの記憶の蘇る前の心の柔らかな12歳の少女だったソフィは、震えながら自分の席に座った。
まだ魔術の才が見出される前で今ほど顔はぼこぼこしていなかったが、ツルツルピカピカの少年少女のなかでソフィのざらざらとした顔は充分に異質だった。
『――ッ! 』
鞄から出した教科書類を机に押し込もうとしたソフィの前に、異様な生き物が飛び出した。
全身いぼいぼの、大きなカエル
『……』
わざわざどこかから連れてこられたのだろう。カエルは鳴く力もないほどに弱っていた。
つぶさなかったことだけ幸いだった。飛び出したあと逃げる力もない様子のカエルを丸めた紙で覆い、ソフィは窓の外へと逃がす。
『ふてぶてしいこと。悲鳴もあげませんわ』
『あんなものを紙越しにも触るだなんて』
『だって同類だもの。怖くもないのでしょう』
どうしてあんなちょうどよい声が出せるのだろうとソフィは不思議だった。
華やかな女子数人のグループはこの場所で一番偉いのだと言わんばかりに大きな声ではしゃぎ合い、相手に聞こえるぎりぎりの高さの声で嫌味を言い、気に入らないことがあれば大きな音を立てて牽制する。
貴族学校ではないが、この学園の入学金や授業料は高い。
名ばかりの貴族よりもずっと金のある家の子女が集まる私立の学園である。
学ぶために来ているはずの学び舎で、彼女たちは日々貴族のように社交に興じていた。
もちろん、ソフィのような異質のものを排除する学びだけは絶対に忘れなかった。
父や母に言えば、なんとかなるかも知れなかった。
この大きな港を有する国における商社の力は大きい。彼女たちのグループの中には、オルゾン家から商品を卸される立場の店や取引のある工場の家のものもいた。
でも、あのころのソフィはそれをわかっていなかった
彼女たちもおそらくわかっていなかった。
父や母に言えば悲しむだろうと思い、ソフィは学園の話を家に持ち込まなかった。
たくさん本があって楽しいわと笑い
辛いことの痕跡は、見つかる前に消そうと一人で頑張っていた。皆にはバレバレだったというのに。
『ソフィさん』
放課後、体育から帰ったら机に書かれていた『化物』『消えろ』の字を泣きながら必死でこすっていたソフィに、優しい声がかかった。
『新しい雑巾を濡らしてきたわ。綺麗なハンカチがもったいないわ』
後ろを気にしながら数本の雑巾を出したリリーは大人しい女の子だった。
あの華やかなグループのリーダー格の女子の横に何故この子がと思うほど優し気な、淡い栗色の髪を顎まで伸ばして内巻きにした大人しい色白の少女。
身も声も細く、ソフィをあざ笑う皆の中で眉を下げていたわるようにソフィを見つめる女の子だった。
『いけないわ』
彼女だって事情があってあのグループにいるのだろう。
拭くのを手伝おうとする彼女にソフィは手を立て首を振って、好意を拒んだ。
自分に優しくしたことが彼女たちに知られれば、リリーの立場も危うい。
『……』
ソフィを見つめる淡い色の瞳から、ぽたぽたと涙が落ちた。
『……いつも、何もできなくて、ごめんなさい』
夕日の差し込む教室の中に落ちる彼女の涙を、ソフィは綺麗だと思った。
『いいの。ありがとう』
嘲笑う人々のなかに、いたわるような優しい目が一人分あるだけでどれほど救われるか
ソフィは彼女に教わったのだ。
学園とソフィを結んでくれる細い優しい糸
それがソフィにとってのリリーだった。
りりりん、とクレアのベルが戸惑ったように鳴る。
「どうぞ」
開いた扉から、ローブを羽織った少女が入ってくる。
「リリー、さん?」
少女は優雅に礼をした。顔は見えないが、ローブのフードから覗く薄い栗色の髪は記憶の中の彼女と同じものだ。
「先ぶれもない突然の訪問をお受けいただき、ありがとうございますソフィさん。学園で同級だった、リリー=ブラントでございます」
細いが芯のある優しい声も彼女のものだ。
「ご無沙汰しております。ソフィ=オルゾンですわ。」
どうして彼女は顔を見せないのだろう。不思議に思いながらも問い詰めることはせず、ソフィは彼女に椅子を勧めた。
「お茶請けもなくて申し訳ありませんリリーさん」
「いいえ、こちらこそ突然の訪問、重ね重ね誠に申し訳ございません」
沈黙が落ちた。
やがてリリーの細い指がそっと動き、ぱさりと自らのローブのフードを落とした。
焼けただれた、もとは色白の顔が露わになる。
ソフィは息を飲んだ。
「……どうなさいましたの」
「家が、火事になりました」
リリーの家は、確か港に来る各国の船乗りの男たちに開かれた宿屋だったはずである。
大した家でもないのにこんな大それた学園に入って、肩身が狭いのと笑っていた。
幸いにも焼けたのは蔵だけで、お客様に被害がなくて何よりだったと彼女は薄く微笑むが
失火はこの国で大罪である。
「おうちの方は?」
「家の者もわたくし以外皆無事でしたわ。兄がわたくしを炎のなかから助けてくれました」
「どうして火が出たの?」
「……火元のない蔵からでしたので、おそらく付け火だろうと」
「そう……」
よかった、と言ってはいけないが、失火でなく付け火ならば火をつけられたリリーの家に咎はない。
「犯人はつかまりまして?」
リリーは首を振った。
「同様の事件がいくつか起きているので、おそらく同一の犯人だろうと、警察が追っていますわ。でも今更犯人が捕まったところで」
リリーはそっと自分の顔を撫でた。
大人しいせいで目立ちにくいが、リリーは12歳という年齢にしては大人びた、美しい少女だった。
咲き誇る薔薇ではない。スズランの花のような、可愛らしい、慎ましい美
あのまま成長し、化粧を覚えれば、年頃にはハッと周りの目を引くだろうことを予感させる少女だった。
その美は、壊されてしまった。顔も知らない人間の手から放たれた炎によって。
「何故あなただけが蔵にいらっしゃったの?」
「……結婚の準備のために、持参するものを選り分けていたのです。いつでも取りに来られる距離なのだからそんなに悩む必要はないと家族には笑われましたが、どうしてもしっかり区切りをつけるために、ひとつひとつ自分で考えて決めたくて」
「まあ……」
それはきっと、幸せな時間だったことだろう
これから始まる生活に、期待と不安を胸に抱きながら
あなたは連れていきましょう、あなたは残ってねと
小さなころから身の回りにあった品々に、思い出をひとつひとつ噛み締めながら寄り分ける、妻になる準備をする少女を
焼いたのだ。おぞましい炎が容赦なく。
「しばらく寝付いておりましたが、ようやく枕を上げまして、こうやって外にも出られるようになりました。初めは自殺でもするのではないかと心配して家族が誰や彼やくっついてまいりましたけど、うちは従業員もそれほど多くありませんので、ずっと張り付いていられるほど暇でもなく。最近はようやく一人で自由に歩けるようになりましたのよ」
「そう……」
ソフィは考えた。
彼女は今日、サロンの客として訪れたのだろうかと。
ソフィのサロンを知り、治療してほしいと言いに来たのだろうか。
ムラ、と
言い知れぬ炎のような感情が胸に沸いた。
それは間違いなく
怒りだった。




