2 化物嬢ソフィ1
ソフィ=オルゾン、17歳
裕福な商社を営むオルゾン家の一人娘に生まれた恵まれた娘はしかし
生まれつき、皮膚の奇病にかかっていた
赤子にも関わらずなめらかな肌はほとんどない。泣くたびに唇のはしが切れ、かきむしったところからは奇妙などろりとした液が出た。
医者に見せても、どんな薬を塗っても、何も変わらない。
その異様な容姿は周囲に『化物嬢』と呼ばれ、通い始めた学園では当然のようにいじめられ、友人もできず、やがては静かに学園を去った。
『家でも勉強はできる』と優しい両親は言い、以降は大きな屋敷の一室にひっそりと籠って、家庭教師による勉強を続けた。
やがて15歳のとき、ソフィには魔術の才があることが見出された。しかしそれはほんの小さな癒しの力で、威力は小さく、『魔術を極めたところで、治せるのは皮一枚でしょう』と同情するように言われたのだった。
それでもせっかくの才なのだ。皮一枚で泣く人がいるのだからとソフィは努力した。
魔力を使うと、人は疲れる。そして疲れは、ソフィの最も弱い肌に出た。
良くなってきたと思った奇病は、爆発したようにまた全身に広がった。
替えても替えても包帯は汚れ、一時はスプーンを持つだけで指の皮が弾けた。
朝起きるとはがれた皮がシーツにワサリとつもり、目はかきむしった傷から出た汁で固まって開かなかった。
『死にたい』と初めて思った。
しばらくはベッドの上で死んだように過ごしていたが、ある日新人の医師が老齢の医師に連れられてソフィの部屋に現れた。
マティアス=アドルファン先生
栗色のやわらかい髪と、深いブラウンの瞳
優しい声を持つその男性は、ソフィが初めて出会った恋だった。
週に2度だけ訪れる彼を、ソフィは夢見るような気持ちで見つめていた。
苦しいだけだった診察が、待ち遠しくてしかたなかった。
痛みが増すので避けていた入浴を積極的に行い、どうせ汚れるのだからと投げやりに選んでいた服を、ああでもないこうでもないと考えるようになった。
日記の隅に、ソフィ=アドルファンと書いては消した。
やめていた読書と勉強を前よりも多くした。
いつか癒しの力が、彼の隣で役に立つかもしれないと夢想し、魔術の練習を再開した。
世界が輝いて見え、毎日が楽しくて楽しくてしかたがなかった。
ある日の診察の間にふと先生がベッドサイドの花に気を取られた。
白い可憐な花を、先生はお好きなのかしらと思い声をかけた。
「そのお花、お好きなのですか?」
「ええ、ああ、いえ」
先生は幸せそうにはにかんだ。
「僕の知り合いに、似ていたものですから」
その花に似た可憐なものこそが先生の恋なのだと
幼いソフィにもわかった。
それからぽつぽつと、「恋」に興味があるふりをして診察の合間に先生の彼女の話を聞き出した。
いずれ結婚を考えているが、今はまだ駆け出しなので資金を貯めていること。
彼女には生まれつきの病気があって、薬代がかかること。
悲しそうに、幸せそうに、先生は彼女のことを語った。
初恋が破れたことをソフィは悟った。それでも胸の中に押し込めた。
こんなにも自分を明るいほうへと動かしてくれた大切な思いを、汚したりしない。
胸に秘めて、飲み込んで、大切にして生きていく。
そう思っていたところ、父に呼び出された。
マティアス先生が、ソフィとの婚約に応じたと。
スーッと血の気が引き、かあっと頬が熱くなった。
婚約
マティアス先生が、夫になる。
書いては消し書いては消した『ソフィ=アドルファン』の文字を
その日の日記では消さずに残した。
一日中フワフワと地面から浮いているような気がした。
次の診察の日
ソフィは一番気に入った服を着、髪をマーサに整えてもらいベッドにいた。
もうすぐ先生が入ってくる
なんてお声をかけたらいいだろう
頬を赤く染めて先生の訪れを待っていたソフィは
ついに開いたドアの先に
真っ青に血の気の引いた、凍り付いたようなマティアス先生の顔を見た。
『彼女はどうしたのかしら?』
父から婚約を知らされたときに真っ先に浮かんで考えないように押し込めた疑問が、真っ黒なもやになってソフィを満たした。
夜
『わたくしは反対です』
眠れずに幽鬼のようにフラフラと屋敷をさまよっていたソフィは、ドアの奥から母の声を聞いた。
『金で買った、生木を裂くようにしてあてがわれた結婚が、あの子を幸せにするとは思えません』
やはり、と思った。
それ以外ないとわかっていた。
先生は彼女を愛している。心から。
でも彼女の病気にはお金がかかるから
先生は彼女を愛しているから
だから受けたのだ。化物との結婚を。
彼女が好きだから。あの白い花に似た可憐な人を。
好きな女性の命を守るために、自身の心を殺してまで。
どうやって自分の部屋に戻ったのか覚えていない。
心を落ち着かせようと日記帳を開き、力が入りすぎてインクが滲み、むしり取るようにページを破った。
涙が出た。ぶるぶると手が震えていた。
私は大切にしたかった。
初めての光を一生思い出として胸に抱いて、明るいほうへ行こうと思っていた。
それなのに
『私の大好きな先生を、私の大切な宝物を、お父様はお金で買った』
文字はどうしても震えた。
『なぜなら私が先生に恋をし、私が先生を欲しがったから』
かみしめすぎた唇から血が溢れ
涙と混じって頬から日記に落ちる。
『パパは私を好きだから』
ペンが倒れる。
しばし放心した。
ふ、と意識を引かれ部屋の奥にある大きな鏡の前に立った。
ふだんからかけられためったに取られない布を引く。
暗闇の中には化物が立っていた。
振り乱した髪の奥に、およそ人のものとは思えないようなぼこぼこの肌が見える。
涙なのか液なのかわからないものでびっちゃりと濡れ、てらてらとぬめるように光っている。
父に似ても、母に似ても美しくなるだろう両親の間に生まれながら
顔を見た人がひっと息を飲むような娘が育ってしまった。
それでも両親は娘を愛したのだ。
可愛くて、大事だと思うから
娘の恋を叶えようと、金で人の心を買うという父らしくない決断をした。あの卑怯を嫌う男らしい父が。
それはソフィのためにならないと、母は声を荒らげた。あの穏やかな母が。
鏡に額を付け、手をついた。そこに映る凹凸のある顔を撫でる。
「……生まれるべきではなかったわ、あなたは」
かわいそうなソフィ
そこにいるだけで人を苦しめる醜く哀れな化物
それでもこのまま黙って結婚すれば、ソフィはマティアス先生の妻になれる。
なにも知らないふりをして、幸せそうに微笑んで成り行きに身を任せればいればいいだけだ。
全てを知りながら、親の金で買った夫の横でにっこり微笑むそれは
間違いなく心のなかまで腐りきった醜悪な化物だろう。
『私は人間でありたい。 パパ、ママ大好きよ。ソフィ=オルゾン』
日記の最後に一文を足し、ソフィは窓を開けた。
ソフィの記憶はそこまでだった。