17 料理人ウマイ3
「次の日からも、ちゃんと仕事に行ってます。でも前みたいな気持ちには戻れないんです。目指すべき上がないことに、気づいてしまった。働くのが、苦しくて苦しくて仕方ない。でもそんな俺の目の前で、年取った親父がでかい荷車を押して屋台を開きに出かけるんです。前はあんなに太ってたのに、今は枯れ木みたいになった親父が、凍えるような寒い朝に出かけていくんです。俺は週に一日休みがあるから、その日だけでも手伝おうかと言ったんです。そしたら」
『おめえがいたらおれの飯がまずくなる。黙って家で寝てろ』
顔も見ずに言い捨てたのだという。
「実の親までそれはねえだろうって」
つうとウマイの目から一筋涙が落ちた。
「ふさぎこんでる俺に、母親がここの広告を持ってきてくれました。皿洗いで手間賃をもらってる食堂にあったそうで。嘘でもいい騙されたところで命までは取られないだろうからと泣きながら言われて、文を出しました。ソフィさん」
ウマイが顔を上げ、ソフィに向き直り深々と頭を下げた。
「俺は料理がしたいんです。一度は放り出して捨てようと思った道だったけど、やっぱり俺は料理が好きなんです。上を目指して頑張りたいんです。親父の屋台を手伝いたいんです。どうかこの顔を治してください」
お願いしますと声を絞った。
真面目な人だわとソフィは思った。
子供のころから真面目で、手抜きをしない人
人の言葉を額面通り受け取って、まともに傷つく人
そしてそれを貯めこんで、弱音を吐くのがとても下手な人。
今日こんなにも彼が饒舌に胸の内を明かしたのは、ソフィが他人だからこそ
今日限りの他人だからこそ、胸に溜まったたくさんのものを、出すことができたのだ。
「失礼します」
ソフィがウマイの顔に手をかざす。
「範囲が広いので、3回に分けますね。申し訳ないのですが上の服を脱いでいただけますか? 扉が後ろから倒れてきたのなら、火傷は背中にも続いていますよね」
「え、あっ……はい」
ソフィが若い娘であることで一度ためらい、腹をくくったようにウマイはシャツを脱ぎ捨てた。
片方の肩と、それに続く背中の上部分が、顔と同じように火傷跡で覆われていた。
マフィン焼いててジュ、の次元ではないそれを、ソフィはじっと見つめる。
ソースの壺を抱く父親の腹に腕を回し、後ろ向きに進んでいたからこそここを焼いた。
迫りくる燃えた扉をとっさに背で受け止め、ギュッと父を抱きしめ守ったからこそ彼の両手は無事だった。
どれほど苦しんだとしても、彼が料理を捨てずに今日までこられたことが、ソフィはうれしい。
火事の原因を正直に告白し、這いつくばって許しを乞う少年を前に
ご両親の心の痛みはいかほどだっただろうか
学校に行きたいという子供の夢を破り捨て
彼の真面目さにつけこむようにして、鍛えたい育てたいという一心のみで、遊び盛りの子に休みも遊びも与えずに育ててしまったこと
その体と顔、心に、一生残る傷跡を残してしまったことを
思い悩む子の傍で、親たちはどれほど悔いたことだろう。
(治すわ)
ウマイと、ウマイの両親のために
(絶対に治すわ)
『いたいのいたいのとんでいけ』
ウマイの罪も、ウマイの両親の罪も
『とおくのおやまにとんでいけ』
すべてきれいに、消えてなくなりますように
「……」
合わせ鏡にした手鏡を覗き込んだウマイが声を失っている。
顔半分でもわかっていたが、火傷跡をなくすと彼はすっきりとした目元の、清潔感溢れる男前だった。
「3回と言ったけれどまだ少し、耳たぶのあたりに跡がありますから、あと1回いいですか?」
手をかざそうとしたソフィの手首を、ウマイがぎゅっとつかんだ
「えっ」
「あっ、すいません」
思わずつかんだらしく、ウマイは顔を上げ驚いたようにその手を離した。
ついでに自分が上半身裸であることを思い出した様子で、椅子の背にかけてあったシャツを、慌てて身にまとう。
あっ残念
何十年かぶりに見た若い男の裸の上半身を
やっぱり若い子ってツルツルだわとこそこそチラ見していたソフィのなかのオカン部分がふしゅんと縮んだ。
「失礼しました。こんなにきれいに消してもらって、びっくりして。ただ……」
そっと、耳たぶに残った小さな火傷跡を、触感を確かめるように撫でる。
「残しておきたいんです。もう二度と馬鹿なことをしないように」
親父のいいつけを破って馬鹿なことをしたあの日の記憶を
一言も責めずに許し、抱きしめてくれた母の腕のあたたかさを
化物と呼ばれ苦しんだ日々、何を感じ何を思ったか
これさえなければ何を成したいと思ったか
「忘れたくないんです。残したまま、頑張りたいんです」
「そう」
ソフィは微笑んだ。
やっぱり真面目な人だわ、と。
「ウマイさん」
「はい」
「あなたはもう化物ではないわ。では」
一歩ソフィは身を引く
「あなたにはわたくしとあなたの間に『透明な線』は見えて?」
火傷跡を消したもはや『普通の男』と
相変わらずに異様な容姿の娘が向かい合う。
「……ありません。むしろ」
俺ばっかり
お嬢さんの力なのに、俺ばっかり、とウマイは声を詰まらせた。
よいのです、とソフィは首を振る。
「火傷が治っても、『透明な線』はこれからもあなたの周りにあり続けるかと思います。だってそれはあなたにだけではなく、皆それぞれが引いたり、引かれたりするものだから」
女だから、年寄りだから、身分が低いから、容姿が異常だから
そこで夢を捨てるか、様々な痛みを覚悟のうえ前に進むか
いろいろなところで人々は悩み、それぞれが戦っている。
かつてのウマイにはそれが顔のことに多すぎて、自分に向けるものばかりで気づかなかっただけだ。
ウマイだけが特別なのではない。皆それぞれに戦っている。
「がんばってくださいウマイさん。いつかあなたのお料理を食べたいわ」
できれば池のほとりに再建された
親子で切り盛りする大衆食堂で、とソフィは微笑んだ。
ハッと目を見開き、ソフィの言葉を噛み締めるようにしてからウマイは呟いた。
「……親父が土地を売らなかったのは……」
「わかりませんわ。ただ、お父様にとってあなたに継げるものはその土地と、料理の技と、ソースの壺だけでございましょう。もう二度とあんなことが無いように、週一回の休みは体を休めることに使ってほしいと言いたいのにうまく言えないようなお父様があなたにそう言えるとは思いませんので、想像でしかございませんが」
「……」
「お二人とも無口すぎるのです。もうあなたも大人なのだから、お酒でも飲みながら腹を割ってお話すべきですわ」
「……ありがとう」
じっと二人は見つめあった。
「『ウマイ』っていい名前だわ」
ふっとウマイが笑う。
「親父が適当につけたんだ。よくからかわれたんだよ、バカみたいな名前だ」
「いいえ、きっと」
ソフィは微笑んだ。
「お父様はご自身が言われて一番うれしい、一番好きな言葉を息子の名にしたのだわ」
世界中の宝物を与えるように
父は息子に、その名をつけたのだ。
おのれの技と味を継いでいく跡取りに、料理しかしてこなかった男が、世界一美しいと感じる言葉を。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ、本当にありがとう」
「あ、わたくしレイモンドに焼き菓子ができたか聞いてまいりますわ。お待ちくださいまし」
開けた扉の前に
「お父様!?」
コップを耳に当てた盗み聞きポーズの父ユーハンが立っていた。
「……一線を超えていますわ」
『これは父がギリギリ譲れる最後の線だ』
えらそうに言っていたはずのオルゾン家当主は、溜まっているはずの仕事をほっぽり出してずっとこんなところで阿呆のように突っ立っていたのか。
娘から冷たい顔で見つめられていることにも頓着せずユーハンが動く。
「ウマイ君とやら! ちょっと前の『えっ』『あっすいません』のところは何があったんだね!?」
ダァン! と足を踏み出し勢いよくウマイに迫るユーハンをソフィは必死で止める。
「おやめくださいお父様。申し訳ございませんウマイ様、マーサ! クレア! 誰か!」
「最後のほうのちょっとした沈黙も何かね!? 最後のほうちょっとタメ口じゃあなかったかね? ん!? 言ってみなさい!」
「誰か! 誰か来て!」
形は違えどどこの父親も馬鹿なのだわと
ため息をつきながらソフィはマーサたちを呼ぶのであった。