16 料理人ウマイ2
テストの点ではいつもウマイにかなわなくて、悔しそうに横目でウマイを睨みつけていた少年
ちょっと羽振りのいい小間物屋の息子だ。たしか上級学校に進んだはずだった。
彼は数人の友人と、同級生らしい女の子数人を連れて現れた。
こんな汚いところ嫌だわと眉をしかめるどこかのいい家のお嬢さんらしき女の子もいた。
「……ご注文は」
声を落として尋ねるウマイに、ゲラゲラと彼は笑う。
「高いやつを上から順に10持ってきてくれ。まあこんなとこの値段なんてたかが知れてるだろうけどなあ」
殴らなかっただけ、言い返さなかっただけ褒めてもらいたい。ぐっと奥歯を噛み締めて、ウマイは一礼をしてその場を去った。
上から順のこの店にしては高級な食材を揚げているとき、いきなりガツンと頭を張られた。
父が怒りのこもったまなざしでウマイを見ていた。
「食材に咎ぁねぇぞ! ふざけた仕事しやがって!」
見れば高級なエビがブクブクと油におぼれている。ハッとして油から上げるが、もっともぷりぷりにさくさくと仕上がる時間はとうに過ぎていた。
「馬鹿野郎!」
頬を張られ、ウマイは床に倒れた。
鼻血がつうっと伝っていくのがわかった。
「てめえは油の処理をしとけ。あとは全部俺がやる」
おーい母ちゃんと父がでかい声で母を呼んだ。
狭い厨房から筒ぬけのそのやり取りに対する、あざけるような笑いが聞こえた。
「もう出ていこう、と思いました」
ここは俺のいるところじゃない
上の学校に進めれば、もっと違う生き方ができた
15にして揚げ油にまみれ、汚れた皿を洗い、残飯を片づけ、酔客のでかい声を聞きながら働くような道を歩む必要などなかった。
今日のことはただのきっかけだ。目の前で上級学校の案内を破られたあのときからずっとウマイのなかに溜まり続けていた不満が、初めて溢れた。
いっそ今月の売上をあの戸棚から半分くらいいただいて、尻をまくって逃げちまえばいい、とぼんやりと考えていた。
「……半分ですのね」
はあ、とソフィは頬をおさえてため息をついた。
「いけませんか」
不思議そうにウマイは尋ねる。
「いえ、真面目だなあと思っただけです」
家業とはいえ何年も無給で働いたのだ。
もう少しもらっても罰はあたらないのではないかと考えた己の気持ちを、ソフィは言葉にしなかった。
「ずっと家を出た後どうやって暮らそうかと考えていました。どこかの食堂に雇ってもらって金を貯めて、いい学校に入り直すことはできるだろうか。埃かぶったままの古い教科書で、そんなことができるだろうかと悶々と考えて……頭がいっぱいで、俺はしくじったんです」
「何をしくじりましたの?」
「油かすをそのままにしました」
大きな罪を告白するようにウマイは言った。
ソフィは首をかしげた。
「いけませんの?」
「毎日毎日、それはもう耳にタコができるくらい、親父に言われ続けていました。『油かすは広く広げて、冷めてから捨てろ』。俺はそれをその日初めて破りました」
深い寸胴にまとめて入れたまま、棚の下に置いておいたのだという。
悔しさに眠れずに、それでもふっと落ちた浅い眠りからウマイは妙なにおいをかいで目を覚ました。
ぱち、ぱち、ぱち
いっそ可愛らしいような音とともに、真っ黒な煙が顔を覆ってウマイはむせた
「熱いまま重ねられた油かすは、熱を持つから。忘れたころに火を出すから」
ごくりとウマイの火傷に覆われた喉仏が動いた。
「絶対に重ねて放るなと」
確かに俺は毎日言われていたんですとウマイは肩を落とした。
無人の厨房から上がった炎はすでに店の南側を包んでいた。
慌てて一階に降りたウマイは、父と母の姿を探す。
「おふくろは廊下で咳をしながら腰をおさえてへたりこんでました。慌てて肩を貸して外に出て、親父はって聞いたら、厨房にソースを取りに行ったって言うんです。継ぎ足しをして何十年も使ってる、親父自慢のソースを。こんなときにおふくろをほっといてソースを取りに行く親父の情のなさに、俺は心底がっかりしました。あんなやつ燃えてしまえばいい、そう思ったはずなのに」
ウマイはざぶんと池の水を浴び、燃え盛る家の中に戻った。
すさまじい熱気の中でたどり着いた先、親父はソースの入った大きな壺を抱きしめるようにしながら厨房の床に倒れていた。
抱き上げるために重い壺を引きはがそうとすると
「もう意識はないはずなのに、ガッチリ抱いて離さないんです」
のりでくっつけられているようだった、と言う。
後ろから腕を回し、壺ごと親父を引きずった。
どうしてあんな力が出たのかわからなかった。
なんとか扉が見えてきたと言うそのとき、燃えた扉が倒れこんできた。
じゅう
人間も肉が焼ければうまそうなにおいがするんだなと
そう思ったところでウマイの意識は途切れた。
「目が冷めたらこの通りです。幸い親父と母は無事でした」
ウマイは自分の行いを両親に伝え、床にはいつくばって謝ったという。
怒鳴られることもぼこぼこにされることも覚悟していたのに、父は『そうか』と呟いただけ、母には泣きながら抱きしめられた。
燃え尽きてしまった家の土地は売るのかと思ったが、父はそこを畑にして、そこで取れた材料を使って揚げものの屋台を始めた。ウマイは料理屋に下っ端として入り、すでに5年目。古い貸家の狭い部屋に3人で暮らしている。
「初めてほかの料理屋に入ってわかったんです。父が『見ろ、盗め』と言った理由。忙しい店じゃ、親切丁寧に教えてくれる先輩なんて一人もいない、ただ毎日戦場みたいななかで自分で盗んでいくしかない。幸い俺にはその力がありました。親父にぶん殴られながら仕込まれた力です。野菜や肉の下処理も、汚れを残さない皿洗いもできました」
このままこの店で頑張って、上に行って、金を貯めて
そしていつか――
ウマイはそっと火傷の跡のある頬を撫でた。
「揚げ物担当のフライシェフがひとつ格上げすることが決まり、席が空きました。後任を発表するからと全員が集められて」
若手の中でウマイの揚げ物の腕は抜きんでていた。
自分の名が呼ばれることを信じ、頬を染めてそのときを待つウマイの前で
読み上げられたのは、一つ年下の後輩の名前だった。
『見たかよあいつのあの顔』
『てめえが客に顔出す立場に行かれるとも思ってやがったのかよ? 少し腕がいいからって調子乗りやがってざまあねえや。真面目ぶった化け物が』
休憩中ウマイのいないなかで談笑する仲間……仲間と思っていた男たちの笑い声を呆然と立ち尽くしたまま聞いた。
「フライシェフはお客様に呼ばれればお席でご挨拶と料理のご説明をすることがあります。俺は……」
また頬を撫でた。
「俺はこの顔だから」
ウマイの瞳に涙が盛り上がった。
この顔になったのは自分のせい
一生背負うべき業なのだと
わかっていたはずなのに
「透明な線があるんです。そこを超えなきゃ、みんな優しい。可愛そうに、痛かっただろうと優しくしてくれます。でもうっかりそこをまたごうものなら突然別人みたいに恐ろしい顔になる。なんで出てきた化物、こっちはお前の入る場所じゃねえぞと追い返される。そういうことが何度もありました」
必死で下働きをしているのはえらい
きれいに皿洗いをしているのは感心
真面目に出勤し、遅くまで片づけをしているのは素晴らしい
が
光の当たる表の場所は、決してお前の場所ではない。
身の程を知れ、化物
お嬢様にはわかりませんよね、と言ってからウマイはハッと顔を上げ、じっとソフィを見つめてから申し訳なさそうにくしゃりと顔を歪めた。