14 貴婦人イボンヌ3
イボンヌは優雅にお茶を飲み、かたりとも音を立てずにティーカップを置いた。
「父は親戚の子を養子に迎え爵位は継続。わたくしは今は息子が二人、一人はよそのおうちに婿に行き、一人はお嫁さんをもらって、可愛い孫が2人おりますわ」
「まあ!」
照れたようにイボンヌは笑う。質素に見えたワンピースの裾を少しめくりあげ裏地を出すと、そこには鮮やかな花々の柄がある。
「若いころに我慢したせいか、新しいものやはやりのものが大好きですの。本日もこの港で新しい柄のスカーフの売り出しがあるというので買いにきましたのよ」
一番着飾りたいはずの10代で抑えていたおしゃれ心が、イボンヌの中に残っているのだろう。前面に押し出さないところが粋である。
「お幸せなのですね」
「ええ、幸せです」
迷いなく言い切ってイボンヌが美しく笑う。
よかった。
――よかったの、だが
「……なぜ今頃になって、とお思いでしょう?」
イボンヌがソフィの表情を正しく読み取って声をかけた。
はい、とソフィは素直に頷いた。
イボンヌのほくろは確かにさみしい少女時代を与えたかもしれないが、そのおかげでイボンヌは優しいくまさんの夫と結ばれ、幸せにしているのだ。
「確かにこれのおかげで得たものはたくさんあるのです。……長男のお嫁さんと初めて会ったとき、それはもうわたくしもお相手も緊張しておりましたけれど、お互い顔を見て同時に笑いましたわ。……彼女もほくろが多かったのです。わたくしほどの大物ではございませんが、数が多くて。顔を隠そうとする手の癖がかわいそうやらいじらしいやらで……せっかく盛大に嫁いびりをしようと思っていたのにできなくなりましてよ」
「まあ」
嘘だ。
きっとイボンヌは嫁いびりするつもりなど毛頭なかっただろう。
そういうねちねちとしたことを好む人ではない、ということは、少し話しただけのソフィにもわかる。
「父を看取り、子を産み育て、かわいい孫まで生まれて。あとはきれいに死ぬだけというお婆さんが、今更、とは思うのですが……」
イボンヌが遠い目をした。
「血が受け継がれおのれの死期の近づきを意識したせいか、何やら最近最初の記憶を、よく思い出すのです」
「最初の記憶?」
ええ、とイボンヌが頷いた。
「赤ちゃんの頃の記憶は普通はございませんでしょう? 子供だった頃で一番古い記憶です。そのとき私は床に横たわり母と向き合っているのです」
じい、じい、というセミの音が響いていた。
むんという暑さに包まれていた。
母の鼻から下だけが見える。
鼻の下にはイボンヌのそれとまったく同じところに、黒々とした濡れたほくろがあった。
母の手には先端を火にあぶられた長い針が握られている。
蛍のように赤く光るそれを、母はイボンヌの顔に向けていた。
横たえられ強くつかまれた肩が痛いと思いながら、イボンヌはじっとそれを見ている。
ブルブルと震える赤い針が、イボンヌの顔に近づいてくる。
じい、とセミが悲鳴のような声で鳴いた。
赤く光る針が揺れて長い光の線を作るさまを、きれいだと思いながらイボンヌは見ている。
「そこまで、それだけですわ。それがわたくしにあるただひとつの母の記憶です。」
小さいころ、お母様にもほくろがあったの? と父に聞いたことがある。
父は驚き、そうだよと答えた。
家に残る美しい人の肖像画にはほくろはない。母が画家に言って消させたそうである。
どんな人だったかを尋ねるイボンヌに、父は『優しい女性だった』と答えた。
よくお前を抱きながら、優しい声で子守歌を歌っていたということだ。
なぜ自分に残る記憶がその優しいほうの、母の愛の記憶でないのか、イボンヌは不思議だった。
なぜ母は娘の顔を焼こうとしたのか。
なにかの罰であったのか。
ではなぜ自分の顔、体には火傷がないのか。
イボンヌは不思議でならない。
「最近は鏡を見てこのハナクソを見るたびに」
「ほくろでございますわ」
「噛み締めた赤々とした唇と、同じ色の針が頭に浮かぶのです。実の子に焼けた針を向けるような女の血がこの身に流れていることを思い出してしまうのです。孫を抱いて子守歌を歌いながらふっと、このわたくしもこの可愛い孫にそのような折檻をするのではないかと怖くなるのです。息子たちを育てていたときは、そんなこと少しも気にならなかったというのに。思い悩むことが増え、そんなときにこちらの広告を拝見したものですから、これはご縁と思いこの忌々しいハナクソをぷっつりと取っていただこうと思いましたのよ」
「あのう……」
遠慮がちにソフィが言った。
何かしらとイボンヌがソフィを見る。
「お母様はほくろを焼こうとなさったのでは?」
「は?」
イボンヌがぽかんとした。
え、とソフィは慌てる。
「お母様は泣きながら焼いた針を持って、あなた様が動かないように固く押さえつけていらしたんですよね」
「わたくし、母が泣いていたと申し上げて?」
「ほくろが濡れていたとおっしゃいましたわ」
「ああ……」
「お母様にも同じほくろがおありだったのなら、これから大きくなっていく娘が背負う苦労もお分かりだったはずですわ。まだお小さい、肌の治りがいいうちに焼ききってしまおうとなさったのではなくて?」
かっとしての折檻なら手で済むだろう。
娘が憎くてとことん痛めつけたいならばわざわざ焼いた針など使うまい。
たかがほくろに、娘が自分のように苦しまないようと
毎日娘の顔を見て、思いつめ、その日泣きながら、震えながら焼いた針を向け
そしてできなかったのだろう。娘を傷つけることが怖くて。
むしろほかになんだというのですかとソフィは尋ねた。
イボンヌが呆然としている。こうなると若々しく見えたイボンヌも、孫二人のいるおばあさまなのだと感じる。
しばらく二人は沈黙した。
癖なのか、イボンヌはほくろを隠すように頬を撫でた。
「そう……」
俯いた先の床に、小さな女の子がいるようにそこを見てまたほくろを撫でた。
その手つきは先よりも優しく柔らかい。
「――あれは……愛の記憶でしたのね」
ぼんやりと揺れる蛍のような光を
イボンヌはそこにそっと見ているようだった。
「ソフィさん」
「はい」
「間もなく新しい品種のイモが市場に出ますわ」
「イモでございますか」
突然のイモ話に今度はソフィがぽかんとする。
「ええ、水のないところでも旺盛に根付きよく育ち、盛大に実ります。ほんのりと甘い菓子のような味がするイモです。腹持ちがよくって、栄養も豊富です」
「素晴らしいわ。どれほどの人が救われることでしょう」
雨の少なさに泣く土地はたくさんある。乾きが即飢えに繋がる地域に住む人々にとって、それは救世主のようなイモになるに違いない。
目を輝かせるソフィに、あなたは迷わずそちらの方たちのほうを見るのねと慈しむようにイボンヌが笑った。
そしてカッ!と眉を上げる
「イモの名は『イボンヌ』。夫は長い年月をかけて開発したイモに、愛する妻の名をつけました」
「なんて無骨! くまさんらしいにも程があるわ……!」
イモ
イモだ。
新しい星座や花などではない。イモである。
とても大切で有用なものと思い、そして妻を愛するゆえに
夫はその素晴らしいイモに妻の名を付けた。
「そして『イボンヌ』には不思議なことに、それぞれ表面の皮に大きな黒い点がひとつずつついているのです!」
「なんということ!」
ぱあんと思わずソフィは手を打った。
イボンヌの名に恥じぬイモである。
夫の愛がイモに乗り移ったのではと思うほどの奇跡である。
ふふふとイボンヌが笑った。
うふふふふとソフィも笑った。
「取るわけには参りませんわね」
「イモの名前が変わってしまいますわ」
はあやれやれ、と二人は冷めきった茶を飲んだ。
「お時間をとらせましたわね」
「楽しゅうございましたわ」
息子のどちらかが独身なら、あなたをお嫁さんに欲しかったわと
お世辞でもなさそうにイボンヌがつぶやいた。
盛大にいびられるのはごめんですわとソフィが答えた。
うふふふふと、また二人して笑った。
「というわけでまた何も治せませんでしたの」
「いや、ソフィは大切なものを治していった」
真剣な瞳でユーハンが答える。
「イボンヌ様の心さ」
ヒュールル~~、二人の間に北風が吹いた。




