12 貴婦人イボンヌ1
りん、りん、りん
クレアのベルの音がする。今回は前のようには震えていない。
またもやテーブルクロスを慎重に撫でていたソフィは、パッと立ち上がった。
アニーを迎えてからおよそ三日後、またサロンを訪れたいとの申し出の文が届いた。
アニーのものほど立派ではなかったが、きれいな花の絵の描いてある上質な便箋に、美しい筆跡で完璧に文法を守って書かれた丁寧な申し込みであった。
家名は伏せられているが、隣国の貴族のご婦人である。
大きなほくろがあり、長年の悩みの種なので取ってほしいとの申し出だった。
「身分の高い方のお申し込みが続くのね」
首をひねるソフィにユーハンが言う。
「まだ海外の大口の取引のあるお客様のもとにしか広告が届いていないんだろう。興味を持っても、外国の商社の一室に、では行ってみようかしらと思えるのも暮らし向きに余裕がなければできないことだし」
そうねと答えながらどこか落ち込んでいるソフィの肩を抱いてユーハンは慰める。
「私としてはお迎えするのは高貴な方のほうが安心だが、ソフィは違うんだな」
「ええ」
ソフィは頷いた。
身分の貴賤ではなく、富の大小ではなく
生きるだけでゼイゼイしているような
たとえばシングルマザーとその娘のような人にも、ソフィはここを知ってもらいたいのだ。
「ここらの酒場や食堂なんかの気安い場所にも少し広告を出してみよう。あんまり押しかけられても困るから初めは少なめにして、様子を見てみようか」
ありがとう、とソフィは父の腕を抱き返した。
可愛い子には旅をさせよ
思っていてもそれができる親はそう多くはない。
父の愛に触れ、ソフィは心の底からその大きさ、深さに感謝した。
そして本日、隣国の貴族のご婦人を迎える日
手持ちの中でも質のいい服を纏い、髪を上品にまとめ、相変わらずマーサにグルグル巻きにされた包帯でソフィは客を出迎えた。
入ってきたのはピンと背筋の伸びた、小柄な女性である。年齢はおそらく50代の後半。
華美ではないが、充分に上質とわかる紫の服を纏い、もとはブロンドだったのだろうグレイがかった金の髪をきれいに巻いてからまとめている。
宝石の類は左手の薬指にあるシンプルな銀の指輪だけで、貴族にしては質素ないでたちだ。
だがその歩み方、手の動かし方、裾のさばき方に、貴族以外の何者でもない凛とした品がある。
向き合った婦人は口元を扇で覆っている。
眉間に知的なしわはあるが険はなく、目の笑い皺が優しい。
鼻から上しか見えないが、若いころは相当に美しかっただろうと思わせる容姿だった。
奇異な格好のソフィに対して抑えきれない好奇心は輝くものの、気味が悪いと眉を寄せたり身を引く様子もない。
彼女は柔らかく微笑み、優雅に礼をした。
「お初にお目にかかります。わたくしイボンヌと申します。本日は個人としてお伺いしておりますので、家名は勝手ながら伏せさせていただきますわ」
思ったよりも芯のある、はっきりとした声だった。
決して威圧的なものではなく、浮世離れしていないしっかり者のご婦人の声だ。
ソフィも礼を返した。
「ソフィ=オルゾンと申します。本日は遠いところをお越しいただき、誠にありがとうございます。ご家名はお伏せいただいたままで差し支えございませんわ」
椅子を勧め、自身も座る。まだ口元を覆っているイボンヌにお茶を勧めると、いたずらっぽく彼女の目が笑った。
「お先に召し上がっていただける?」
「? ……はい」
毒でも入っていると思われたのかと思い、ソフィは慌てて大丈夫ですよとアピールすべく茶を口に含んだ。
「さて本日ご相談のほくろでございますが」
思ったよりも早い話し出しに慌ててティーカップを置こうしたソフィの前で、イボンヌがさっと扇を外した。
露わになった口元
というか鼻の左下に
こんもり黒々と盛り上がった大きなほくろがある。
これは……
これはまるで
「ハナクソでございましょ?」
ブッと茶を吹きかけソフィはギリギリ抑えた。
あら惜しい、とイボンヌは一瞬当ての外れたような顔をする。
だが一瞬で気を取り直しズイと身を乗り出し
「ほらほ~ら」
扇をかざし、またさっとどかして
「ほーらほら」
ブルブル震えながらこらえているソフィを煽るように繰り返す。
なんとか口の中身を吐き出さずに飲み込んだソフィに、今度こそイボンヌはいたずらに失敗した子供のようにあからさまにがっかりした。
「あと少しでしたのに」
残念ですわと扇をテーブルに置き、もう使う様子はない。扇で顔を隠すのは貴族の習慣かと思いきや、この笑いを引き出すためだけの小道具だったようである。
ゴッホゴッホとむせながら、ソフィはなんとか体勢を立て直した。
「ン、ンん!イボンヌ様、本日はそのほくろをお取りになりたいということでよろしいでしょうか」
「ハナクソですわよ」
「……ほくろでございます」
笑ってはいけない、こんな失礼な笑いはいけない
そう思おうとすればするほどソフィの肩は震える。
というか貴族のご婦人が、こんなにカジュアルにクソクソ言っていいものなのだろうか?
ソフィはイボンヌをじいっと見つめた。
色白の美しいご婦人である。
年相応の洗練されたものを自然に身にまとい、薄化粧でも充分に美しい。
が
見てしまう
見てはいけないと思っているのにどうしても目がそこに行ってしまう。
ダメなのに、いけないのに
どうしてもそこに目がひきつけられてしまう!
「あなたは優しいお嬢さんね」
ふっとイボンヌが微笑んだ。
えっとソフィは驚く。今自分は大変失礼な態度を取っているはずである。
「初めてわたくしのこれを見た人は、だいたいあざけるような顔で見るのよ。そりゃそうだわ気取った貴族の妻が、馬鹿みたいな大きなハナクソつけているのだもの」
「ほくろでございますわ」
「目に宿るにやにやとした相手を馬鹿にする笑い。もう慣れたことですし相手の人となりが一発でわかるから重宝もするけれど、流石に飽きましてよ」
「それでお取りになりたいと?」
ふう、と疲れたようにイボンヌが息を吐いた。
「聞いていただける?」
そうしてイボンヌは語りだした。
イボンヌは男爵家の一人娘として生を受けた。
母はイボンヌが4歳の頃に病気で亡くなり、父と乳母、メイドたちの中で育った。
田舎の領で自然に囲まれ、日々走り回り、イボンヌは立派なおてんば娘に育った。
初めは少し盛り上がっていただけのほくろは、成長とともに大きくなっているようだった。
6歳で貴族のための学園に通いだしたころ、イボンヌは初めて呼ばれるようになる
『ハナクソイボンヌ』と
そのころからイボンヌは、人の目が怖くなった。
特に男の子は遠慮なくイボンヌをそのあだ名で呼び、さらには涙ぐむイボンヌを見て囲んで唱和して笑う。
幼いながらもイボンヌは自身が軽んじられる田舎男爵家の娘であることを理解していた。表だって言い返すこともできず、ただ泣きながら逃げて隠れることしかできなかった。
大きくなればなるほどほくろも大きくなる。
俯いて、手で隠すような癖がついていた。
やがて子供から少女に変わっていく女子の友人の輪にも、徐々に入れなくなっていった。流行の化粧の話、服の話、恋愛の話
しているときにもチラ、チラと誰かの目線がそこに注がれるのを感じた。
隠されたあざけるような笑いを感じた。
『でもあなたのそれじゃあ無理よねえ』
と言われているような気がして耐えられなくなったのだと。
「若い子ならではの、自意識過剰さですわ」
ほろ苦くイボンヌが笑う。
「いいえ。イボンヌ様がおきれいだったからですわ」
ソフィは真剣に答えた。そう、若き日のイボンヌはきれいだったのだ。
だからこそ男子は構いたくてからかうし、女子からは遠回りに牽制される。
これがもとの作りも残念な少女なら、もともと相手にもされないか、もっと凄惨ないじめの話になっていただろう。
ありがとう、とイボンヌはきれいに微笑んだ。
「14,5歳にもなると一人でいるのも上手になりましてねえ。ひとりで本を読むのも、食事をするのも、勉強をするのも、却って集中できて楽でしたわ」
それでもどうしても心が静まらないとき――ほくろのない右の横顔を見て話しかけようと寄ってきた男子が正面の顔を見て去って行ったり、女の子のクスクス笑いを受けたような気がしたり、優しい先生がイボンヌの顔を見て『惜しいことだ……』と声を詰まらせるようなことがあるたびに、イボンヌは裏庭に向かった。
すでに退職した高齢の用務員さんが世話をしていた花壇を、イボンヌは自ら進み出て世話をさせてもらっていた。
中央のガーデンとは比べ物にならないほど狭く、薄暗い裏庭に咲く名もないような花々が、イボンヌの心の慰めだった。
土を掘り、雑草を抜き、余計な枝を切る。
手は傷つき、土で汚れる。
この学園に通うような貴族の令嬢がするようなことではない。
枯れたからと言って誰も困らないどころか気づかれもしないだろう小さな花壇の花々だけがイボンヌの友達だった。
わからないことがあれば図書館で調べ、それでも解決しなければ近くの花屋や家の出入りの庭師に助言を乞うた。
辛いときは泣きながら、さみしいときは歌いながら
物言わぬ小さな花々に日々慰められて、イボンヌはなんとか卒業を迎えることとなった。
「そうなればなんだと思いますかソフィさん」
「……結婚でございますね」
「ええ」
本当なら学生のうちに婚約相手の話があってしかるべきだったのに
イボンヌにはなんの申し出も届いていなかった。
そもそも一人娘で婿を取らなければならない身なのだ。嫁に行くなら行くで、父が親戚の子を養子に取るなり、いろいろと算段しなければならない。父側で積極的に動くべきところこのときまでなんの音沙汰もないとはいかがなことか。
卒業前の休暇で学園の寮から戻り父と話をしようとしたイボンヌは、屋敷の中が妙にがらんとしていることに気づいた。
ここにあったはずの壺がない
掛けてあったはずの絵画がない
敷いてあったカーペットがない
「まさか……」
ソフィは息を飲んだ。
「そう、私が学園で花を愛でているうちに、我が家は傾いていたのです。派手に!」