10 王女アニー2
「クロコダイル国が何で栄えたかをご存じ?」
問われてソフィは思わずうれしくなった。
ソフィは歴史も地理も大好きなのだ。
「ええ、古くからワニ革の産地として有名ですわ。上質なワニ革が一年を通して取れ、自然と加工する優れた職人が集まり、鞄につける金具の加工も素晴らしい技術者がいらっしゃる。今はそこから発展した優れた金や銀細工の装飾品も有名でいらっしゃいますわね。気候も一年を通して暖かく、美味しい果物も多く交易されておられるわ」
「よくご存じだわ」
アニーが目を細めた。
ソフィは今すごく楽しい。
許されるのならば年表を辿るようにクロコダイル国のこれまでのことを語り合いたい。
だがそれでは時間はあってもあっても足りないだろう。
ソフィがぐっとこらえたことを見透かすように穏やかに微笑んで、アニーが続けた。
「我がクロコダイル国には、大きなワニの処理場がございますのよ」
「初めてお伺いしました」
「技術の流出を防ぐため、国外の方はお入れしていないわ。養殖のワニもおりますし、ハンターが取ってきた希少なワニもおります。身が傷まぬようなるべく活かしたまま持ちこまれたワニを、専門の職人が一匹ずつ殺し、まだ体が動いているうちに革を剥ぐのです。生きたワニから剥いだほうが、皮は美しく、価値が出るからです。処理場の横を流れる川は、いつも生きながら皮を剥がれるワニの血で赤く染まっておりますのよ」
「……」
「皮を剥がれたワニは苦しみのたうち回り、やがて動かぬ肉に変わります。わたくしどもはその肉をいただき、その革を加工し国の産業として海外に輸出しています。我が国に優秀な職人が集まり今のように発展できたのは、全てあの大きな川を染めるワニの赤い血があらばこそ。ワニの血と肉と皮、その苦しみにより我々は生かされているのです」
アニーの横顔は勇ましかった。
のぞく牙も鋭い。
「これがワニの呪いだというのなら、それを受けるのにわたくし程それにふさわしいものはいないわ。なぜならわたくしはこの国の王家の娘、アニー=クロコダイルですもの」
アニーの顔は凛々しく輝いて見えた。
ほう、とソフィは息を吐く。
「ご立派でいらっしゃいますわ」
「ありがとう」
それでねソフィさん、話は変わるけどとアニーが続けた。
「このサロンは一年限りとあるけれど、一年を過ぎたら改めて有料のサロンをお開きになるつもり?」
「国の許可は必要だと思いますが、そのように考えておりますわ。どうしておわかりになったの」
「だってすごい技術だもの。シルバーさんのお背中を拝見しましたわ。あんな大きな入れ墨をなんの痕跡も残さず消せるだなんて信じられない。聞けば古い傷跡も消せるとか」
「はい。おそらく」
ふっとアニーが遠い目をし、悲しそうに眉? を寄せた。
遠い目で、そっと祖国のことに思いを寄せた。
「わが国の貧しいものは、多くがワニハンターとして生計を立てているわ。希少な色のワニ革は養殖では育てられないから、どうしても天然物も必要なの。希少種をかれればそれこそ大金が手に入るので、皆一攫千金を夢見て河に入るのよ」
「危険はないのですか」
「とても危険よ。毎年多くの者が命を落としたり、大きなけがを負ったりしているわ。普通は男の子の仕事なのだけど、貧しい家、女の子しかいない家は少女も手伝うわ。ワニに襲われた傷跡は男にとっては勇ましさの象徴になるけれど、女にとっては貧しさの象徴なの。ワニに噛まれた傷跡のある女は、『ワニの食い残し』と呼ばれ結婚の道すらなくなるのよ」
「ひどいわ」
若い女の子が傷を負うだけでも辛いのに、そんな蔑称まで負わなくてはならないなんてとソフィは悲しくなる。
「貧しいから大した治療もできず、傷者として結婚もできない。多くの技術者は男ばかりしか弟子にとらないから、手間賃の安い細かな仕事を引き受けたり、肉や皮を運ぶような肉体労働をしたり、……なかには娼婦になる者もいるわ。『食い残し』は結婚相手にはふさわしくないけれど、『食い残し』と枕を共にした翌日は色付きのワニが寄ってくるというおかしな言い伝えがあって、人気なのよ」
「おかしいわ……」
「ええ、おかしいの。古い考え方を変えたいのに、保守的な男たちがそれを阻むのよ。わたくしは悔しいの。彼女たちを『食い残し』のままにしたくないの」
「もしや」
ソフィはアニーを見た。
「ええ。あなたが新たなサロンを開き、わたくしが王位を継いだ暁には、我が国に定期的に来ていただきたいの。わたくしは今日未来の女王として、あなたの未来を予約しにきたのよ」
いやだわ、とソフィは笑った。
「予約などおおげさですわ。あなたが初めてのお客様の、閑古鳥が泣くサロンの主よ」
ギラリとアニーの瞳が光った。
「今は知られていないだけ。女のあなたにはわかるはずだわ。あなたの力がこの世界でどれほど求められるものか。あなたの力で救われるものがどれほどいるものか。魔力は有限だから、そのすべてを救えなくなる日が必ず来るわ。だからこそ今のうちにわたくしと約束をしてくれない。ソフィ」
「無料の今のうちにたくさん使ってしまおうとはお思いにならないの? アニー」
「わたくしもわたくしの国民も、物乞いではないわ。正当なものに正当な対価を支払い、長くお付き合いしていただきたくお願いしているのよ」
「わかったわ。何か書面は必要?」
「いいえ。今のわたくしはまだ権限のないただのアニーだわ」
「では」
ソフィは小指を出した。
アニーが首をかしげる。
「これはなあに」
「約束のおまじないよ」
ソフィは小指をアニーの爪のついた小指……っぽいものに絡めた。
「わたくしソフィはいつか女王アニーの国に定期的な訪問を行い、女王のお心に従い、治療を望むクロコダイル国の人々の傷跡を癒すとお約束いたします」
「ええ」
「ゆーびきーりしーましょー、うーそついーたらはりおーせんぼんのーます」
「えっ」
「ゆびきった」
離れていくソフィの指を、アニーがぽかんと見ている。
ぴんと長い尾が立っていた。
「……ところでソフィ」
「はい」
珍しくアニーが言い淀んだ。
「……あなたのお顔を見ることはできるかしら」
「そうね、こんなに隠していては仕方がないわよね」
ソフィは自らの顔に巻かれた包帯をこだわりもなく取った。
凹凸のある肌が露わになる。
「うつるものではないから安心してちょうだい」
あらわになったソフィの顔に、パカッとアニーの口が開いた。
驚かせてしまったかしらとソフィは申し訳なくなる。
しかし
「……なんだ。きれいじゃないの」
「えっ」
まさか治ってる? とソフィは顔を触ったが、いつも通りそこはぼこぼこし、なにやらヌルヌルしていた。
「そうかしら?」
「ええ、思っていたよりずっと。あまりにも噂がひどいから、わたくしオークのような女の子が出てくるだろうと思っておりましたのよ。あなたは顔の作りがとても美しいわ」
くすりと笑った。
「少なくともワニではないし」
「ええ、少なくともかたちは人間ですわね」
フフフ、と二人とも笑った。
少し考え、ソフィは続ける。
「ところでアニー、お婿さんのことなんだけど」
「ええ」
「国内から取るわけにはいかないの? できればワニが大好きな、賢い男性を」
パカッとまたアニーの口が開いた。
リンゴか何かを入れたくなる。
ソフィは頭の中の歴史書をめくった。
熱帯の島国クロコダイル家の歴史をさらった。
ソフィは歴史書が好きだ。まんべんなくボロボロになり、暗記するほど読み込んでいる。
「書を読んだだけの知識なので間違っていたらごめんなさい。クロコダイル国が国外から伴侶を得るようになったのは、もともと少人数の近親者からなる王国だったからのはず。血の近しい婚姻による弊害を避け、かつ諸外国に囲まれた島国ゆえ諸外国と縁を結ぶ必要があったからだったはずだわ。でもそれはもはや遠い遠い昔の話。これほどまで国が豊かになり人口が増え婚姻関係を結んだ周囲の国々との親交が十分に結ばれたなら、今更古い伝統だけに則る理由はないはずよ」
ソフィはわっしとアニーの両手を握る。
「脈々と連なる王家の方々が、代々誠意を持って婚姻相手を大切に遇したクロコダイル国王家。今なら伴侶を国外から求める伝統はどうにかなるのではなくて? 伝統に則り政略結婚を受け入れようとしていた姫が、心を抑えきれず同国の方と恋に落ちてしまったのだという美談にできるのではなくて? 」
ぱちくりと黄金色の目が見開かれている。
「クロコダイル家はもはや近隣に気を使う必要がない程の力のある国だわ。その象徴として国民はそろそろ、クロコダイル国の中と中の純粋なお世継ぎを望んでいるのではなくて? お相手には結婚前にあなたのこちらの姿を見せて、大丈夫ならよし、ダメならそれこそわたくしのように……その方には可愛そうな話になってしまうだろうけど……。けれどもクロコダイル国に生まれワニを見て育ち、その大切さを充分に理解している理知的な方ならばあなたのワニ姿をきっとおそろしいなどとは思わないわ。むしろとても神聖で、チャーミングに見えるのではないかと思うの。アニーの偽りのないどちらの姿も愛してもらえるのではと思うの」
口を開いたり閉じたりを何度か繰り返したのち
ぱくん、とア二ーは口を閉じた。そして開けた。
「……あなたのおっしゃるようなお方がいるわ」
かあっと、アニーの頬が赤くなったような気がした。
「とんでもないワニ好きで、ワニ馬鹿で、暇さえあれば養殖されているワニの様子を眺め続けて毎年馬鹿みたいな量の報告書を上げる王家お抱えの研究者がいるわ。研究馬鹿すぎてもういい歳なのにお嫁さんももらわず。……わたくし……」
かあっと全身が赤く染まったような気がした。
ワニワニと……否わなわなとアニーは震えている。
「アニーはその方がお好きなのね」
優しくソフィが微笑んだ。
ワニを熱いまなざしで見つめる若き研究者を
密やかに恋するまなざしで見つめる若き姫の横顔を見たような気持ちになった。
ぱくんとアニーの口が閉じる。
そしてこくん、と頷いた。
「わたくし……」
ぽろんとアニーの目から涙が落ちた。
「――王女に恋など、あってはならぬものだと」
ぽろ、ぽろ、ぽろと宝石のような涙が落ちる。
「自身にそう、ずっとずっと、ずっと言い聞かせて……」
ぽろん、ぽろん、ぽろん
涙するアニーを抱きしめながらソフィは思った。
アニーの身に12歳で起きたこれは
アニーの恋とともに生まれたものなのではないかと。
国土を流れる赤い河を見て国のために死んでいったワニたちを想い
自らの立場を理解し民と国の未来を思う
国のためならば自らの心を殺すことも当然と考える、賢く慈悲深い次期女王に
その凛とした幼きひとに、想う人と寄り添う道を作らんとした
国の島々からの祝福なのではないかと。
明日はちょっと短いです。ごめんなさい。