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1 まり子



  キャー! と、女の悲鳴が屋敷に響いた。


「何事だ」


 書類にサインをしていたこの屋敷の主人が、椅子を引いてペンを置く。


「お嬢様が!」


 バタンと執務室の扉がノックもされずに勢いよく開き、髪を振り乱したふくよかな侍女が走りこむ。


「お嬢様が、お部屋の窓から落ちました!」


 ガタン


 揺れた机を黒いインクが汚す。

 奇しくもその日は一人娘――ソフィの17歳の誕生日前夜であった。

 

 

 

 

 私、田中まり子は57歳である。


 18歳で妊娠し短大を辞め娘を産み、19歳で夫を事故で亡くした。


 娘は産まれつき、ひどい皮膚病だった。

 古くて狭いアパートで、やわらかい肌をかきむしろうとする小さな小さな手をぎゅうっと握りながら、泣かないで、泣かないで、と一緒に泣きながら夜を過ごした。


 娘には幼稚園では友達ができなかった。


 小学校ではくさい、汚いと言って避けられた。


 そんな娘になにもしてやれないことが何よりつらかった。


 皆が当たり前に持つ健やかな肌に産んであげられなかった自分を許せなかった。


 夫の命と引き換えに得たお金が底をつく前に介護の仕事を始めた。

 夜勤のある身体的にきつい仕事だったが、学歴も何もない自分に仕事があるだけ有難かった。


 片親で、貧乏で、病気があって


 母親はいつも疲れていて、夜もひとりぼっち

 そんなつらい環境で育った娘は、その外見からは予想もつかない強い強い心でまっすぐに前を見て、学び続け、医師になった。


 どうしてそうなったのかわからない。奨学金や進学先について相談を受けたことは一度もない。まり子は娘の持ってくる書類に言われるがままに判を押しただけだ。


「ごめんね」


 医師免許を得た娘のお祝い会を二人でやった夜、まり子は娘に謝った。

 そんなつもりはなかったのに、歯を食いしばっても涙が落ちた。


 若すぎる身で産んだこと。

 きれいな肌に産んであげられなかったこと。

 貧乏でろくな服も買い与えられなかったこと。


 行きたいだろうところにも行けず、欲しがるおもちゃを欲しいとも言わせてあげられなかった。

 不安だっただろう進路の相談にも、学がなくて乗ってあげられなかった。

 若さだけはあったはずなのに、気が付けばボロボロでしわしわの、みすぼらしく色あせた


 ただ産んだだけの、役に立たない母だった。

 

 ふいに娘に抱きしめられて驚いた。

 大きくなった娘の肌は、成長とともに少しずつ良くなり、今や季節の変わり目や体調の悪い時に少し荒れる程度の症状しか出ていない。

 澄んだ目をした、しんとした空気をまとうとてもきれいな女性になった。


「おかあさんはいつも私の味方だった。」


 娘がほほえむ


「だから私、いつだって頑張れた。」


 これからいっぱい楽をさせてあげるからね、と笑った。

 

 紹介したい人がいる、と言われたのは娘が38歳のことだ。


 大きい病院の小児科で忙しく働いているせいで、結婚する気も起きないのだろう。

 このまま毎日働き、二人分のご飯を作って洗濯をして掃除をして年老いていくならそれでもいいと思っていたところに、青天の霹靂だった。

 同じ医師で、今は東京で働いているがいずれ実家の病院を継ぐ予定のおぼっちゃんだというから身構えたものの、挨拶に来たのはなんというか……和菓子のうさぎ饅頭に似た男だった。


「娘さんを幸せにします」


 スーツを着たうさぎ饅頭は汗をかきながら土下座した。


「よろしくお願いします」


 娘も倣った。

 まり子も倣った。

 

「ほっとけなかったのよ」


 皿を一緒に洗いながら、夫について娘はそう言った。

 そうだろうな、と思った。

 

 娘夫婦が新婚旅行に行く、という朝まり子は夜勤明けだった。

 一人暮らしになった部屋の鍵を開け、鍵をかけて荷物を玄関に置き靴を脱ぎながら電気のスイッチを押そうとしたとき


 ぶつん、と耳の後ろで音がした。


 誰かに叩かれたような感触だった。


 強盗!? と思い


 いや違う、と気づいた。


 電気はつけていないが朝だから光はあるのに、左側だけ真っ黒だ。

 足がもつれ、支えようにも左手が動かず、そのまま玄関に倒れ込む。

 つい先日見た医療番組『おうちの医学』でやっていた症状と同じだ

 研修も受けた。


 脳梗塞


 動く右手でバッグを探ろうとした。こつんと携帯電話に触れる。

 救急車……

 震えながらボタンを押そうとした手がふ、と止まった。

『おうちの医学』の一場面がよぎった。


『Aさんは早期の治療により幸いにも命が助かり、現在は毎日リハビリを続けています』


 にこやかなナレーター、ベッドに横たわる老人

 微笑みながら介助をする家族。

 その家族の顔に娘の顔が重なる。

 どんな後遺症が残っても、あの子は絶対に自分を見捨てない。

 新婚の生活や、やりがいのある仕事、もしかしたらこれから授かるかもしれない命の可能性や、全てを捨ててでも母親の世話をする。そういう子だ。何もしていないのにそんな素晴らしい人間に育った。


 痛いのもかゆいのも自分なのに、泣きながら薬を塗る母親を心配する子だ。


 狭い部屋で母親を待ちながら、電気代を惜しみスタンドの電気だけで、寒さにも暑さにも耐えて勉強を続けた子だ。


 痛みを知っているからこそ人に優しくできる、素晴らしい女医になった。

 弱気で頼りなげな夫を支える、凛とした妻になった。

 我慢ばかりだった娘の人生の、ようやく訪れた春を

 私は誰にも奪わせはしない。絶対に。

 

 操作を止め力を抜いたまり子の手から、携帯電話が滑り落ちた。

 ことんと冷たい玄関の床に頭をつけた。

 どうか娘が旅行を楽しんでくれますように。

 まり子の最後の願いは固い床に吸い込まれ、やがて消えた。

 


 ――と、いう記憶を、ソフィ=オルゾンは思い出した。自室のベッドの上で。


 ガシャーンと大きな音が響く。見れば部屋に入ってきたクレア……ふくよかな侍女が水差しを派手にぶちまけている。


「お……お嬢様!」

「おはようクレア」

「わわわわわわたくし皆に知らせて参ります!」


 転がるまりのようにクレアが飛び出していく。

 床に倒れたままの銀の水差しが、カーペットを濡らしていく。

 ぼんやりとソフィはそれを見ていた。先ほどの流れ込んできた記憶が、まだ頭の中をグルグルと回っている。


 まり子だった自分は、だが今はソフィである。

 そしてソフィは……


 手を重ねると、ザラリ、とした慣れた感触がした。

 目をやればやはり見慣れた、10代とは思えないようなガサガサの皮膚がうつる。

 ソフィは知っている。この固い木の皮のような皮膚が、服の下にもあること。

 黄色のような緑のような奇妙な色の汁を出すぼこぼことしたものに、顔を覆われていること。

 そして――


「お嬢様」


 パタン、とまた扉が音を立て、白い顔をした老齢の女性が背筋をピンと伸ばしたまま入ってきた。

 きっとあの背中には鋼の板が入っているのだわ、と確かめようとした少女時代を思い出す。


「マーサ」


 きりりと結ばれた白髪、鷲のような鼻、一文字に引き締められた唇。

 メイド長のマーサがすっと歩み寄り


「失礼いたします」


 熱をはかる仕草でソフィの額に手を当てた。

 かがんだ体勢のまま静かに


「日記はいつもの場所に片づけておきました」

「日記……」


 ソフィの記憶が蘇る


『人間でありたい』


 それを書いて、広げたまま

 窓から

 

「ソフィ!」


 高く美しい声が飛び込んできた。

 美しい深紅のドレスを翻し駆け込んできたのは、母だ。

 セクシーな目じりの泣きぼくろが、今は本当に涙に濡れている。

 母はソフィを優しく抱きしめ、身を放し顔を覗き込み、確かめるように額を幾度も撫でる。


「……無事で……あなたが無事で、うれしいわ」


 母の長いまつ毛を涙がほろほろと濡らして落ちていく。


「お母様……」

「窓から落ちたと聞いて、心臓が縮んだ」


 母に隠れて見えなかったが、後ろから父も入ってきていたようだ。

 プラチナブロンドを後ろで渋く結んだ自慢の父は、今はそのエメラルド色の瞳を滲ませている。


「怪我がなくて何よりだ」


 それから何かを言いかけ、ぐっとこらえるように口を結ぶ。


「しばらく、ゆっくり体を休めるんだぞ」


 母よりは力強い、だが優しい手がソフィを撫でる。


「ソフィが元気なら、それだけでいいのだから」


 ソフィは両親に優しく見つめられ、口を開こうとして、何を言ったらいいかわからず喘いだ。


 この優しい両親に、どんな思いをさせたのか

 考えるだけで涙が出る。


「いいのよソフィ。何も言わなくていいの。元気ならそれでいいのよ」


 撫でられるたびにシーツの上に落ちるゴミのような皮膚を、ソフィは見ていた。

 

 



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― 新着の感想 ―
[良い点] 思い合う家族の姿が目に浮かぶようです [一言] 一話目だけひとつの小説が出来ると思います
[一言] くっそ… 一話から泣かせやがって 最近涙脆くていけねぇや
[良い点] 二周目ですが一年寝かせてたので新鮮な感じで胸が痛い。作者様の物語は悪人を出さずにストーリーが進んでいくのが凄いです。
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