第9筆 フリージスの花の咲く頃に
紋章の間でリットに仕事を押し付けた後。
図書室に寄り、自分の執務室へ戻る途中で、ラウルは政務官の一団に出くわした。
庭に面した回廊を、夏の離宮の改修について賑やかに話しながら歩いてくる。先頭を行くのは、金髪に紫の目をした少年だった。
ラウルの存在に彼が気づく。
「あに――ラウル殿下!」
「息災でなによりだ。タギ・スコット統括官」
「はっ」
タギに倣い、政務官たちが一斉に頭を垂れた。
「少し、散歩に付き合え」
「は?」
きょとんとした紫の瞳は、自分より幼い。
ラウルは笑みを浮かべて、庭へと歩き出した。
「自分の生誕祭だというのに、忙しなくてな。どこぞの宮廷書記官を見習って、息抜きだ」
「そういうことでしたら」
人払いをして、ラウルとタギの二人だけで庭を歩く。
傾き始めた陽光は、それでも夏の白さを有して、庭園に植えられた紫と白の花々を照らしていた。甘酸っぱい花の香りが漂う。
「フリージスですね」
タギが呟く。アヤメとスイセンに似た、紫色の花。
白のフリージスと一緒に花を咲かせている。
「紫のフリージスを見ると、いつもラウル殿下を思い出します」
「二人きりの時は兄上でいい。タギ」
先を行くラウルが振り向いた。
「はい。兄上」
第二王子の身分を剥奪されたといえども、二人だけの兄弟。
「十九歳の誕生日を迎えられることに、お喜び申し上げます」
ラウルが鼻を鳴らす。
「祝いの宴を喜ぶ歳ではなくなったがな」
「兄上」
「冗談だ」
表情を引き締めて、タギが頭を下げた。
「王族としての執務を増やしてしまい、申し訳ありません」
タギが担ってきた王族としての役目は、すべてラウルに移行した。
「何。これくらいこなせなければ、国など治められないだろう」
「どうして陛下は、兄上を立太子されないのでしょうか」
タギの言葉に、ラウルの唇の端が歪んだ。
「お前の周りでも話題に上がっているのか?」
「ええ。〈彩色の掟〉に従えば、王位継承権があるのは兄上だけ。もしかしたら、この生誕祭で王太子と指名するのか、と周囲では噂になっています」
「……〈彩色の掟〉か」
ラウルは足元に咲く、フリージスを見た。
紫。
己の目の色。それは王族の証。
「王位継承者は、金の髪に紫の目を持つ者であること。……か」
兄の言葉に、タギが頷く。
「山に囲まれたフルミアで、王位の争いを少なくするために定められた掟ですね」
「月神の彩色でもある。月の恩寵を受けた者の証だ」
タギが頭を下げ、臣下の礼を執った。
「兄上に、永遠の月の恩寵があらんことを」
「お前もな、タギ。スミカは元気か?」
「はい。生誕祭の舞踏会で、お会いできることを楽しみにしていますよ」
「招待状は届いているようだな」
「ええ。毎日、ドレスと睨めっこです」
幸せそうにタギが笑った。
「兄上は、好いたお方はいらっしゃらないのですか?」
無邪気な言葉ほど、よく刺さる。
「オレはフルミアの第一王子だぞ」
ラウルの眉間が険しくなる。
「好き嫌いで、伴侶を選べるわけがない」
「ですが……、シンバルのルリア第一王女は嫌いではないでしょう? 三年前のコーネス家の騒動でも、一緒にご尽力なされた」
ふん、とラウルが鼻を鳴らす。
「協力したわけではない。双方、火消しに追われて利害が一致しただけだ」
「でも、文通は続いてらっしゃる」
じっと、タギがラウルを見つめる。
「何だ。オレの相手の選定に、ずいぶんと熱心じゃないか」
「メリア第二王女が、兄上にベタ惚れだそうで」
ラウルが顔をしかめた。
「あの、夢の世の住人か」
「その呼び方は褒められたものではありませんよ、兄上」
「夢見る無謀がよく言う」
「騎士物語は男の憧れです」
しれっとタギが言う。今も、〈白雪騎士物語〉を愛読しているのだろう。
「兄上の姿絵を見てから、ずっと追っかけだとか。メリア王女は熱意ある方ですね」
「熱意で国を治められるか」
ラウルが吐き捨てた。刻々と色を変える空を仰ぐ。
「――『雪のように潔白であろうと、非難からは免れない』」
「フルミアの……ことわざ、ですね」
タギの表情が曇った。兄が背負う、周囲からの期待と重圧を想像すると、胸が痛む。
「言いたいやつには、言いたいように、言わせておけばいい。熱意なんぞ持っていたら、現実に挫けてしまう」
その言葉は強がりではない。
ラウルの横顔には悲嘆も諦観もなく、ただ、役目を受け入れた者特有の透徹さがあった。
「お前はオレが得られないものを持て、タギ」
立ち止まり、ラウルが弟を見た。
「王族の身分を剥奪されたといえども、フルミアの支えであることには変わりない」
ざっと、風が吹く。
「期待しているぞ。統括官どの」
フリージスの甘酸っぱい香りとともに、タギは胸が絞めつけられる。
期待。
嬉しさと、後ろめたさ。自分だけ、己の意を押し通した。
「兄上――」
吹き渡る風に声がかき消される。紫と白のフリージスの花が揺れる。朱色が混じり始めた空を、瑠璃色の鳥がさえずりながら飛んでいく。
向こうから、賑やかな声。
「大体、リット様は何でもかんでも、秘密にしすぎなんです!」
「そう言われてもなぁ。切り札は隠しておくものだぞ、トウリ」
「何枚、切り札を持っているんですか」
「賭けカードができるぐらい?」
「持ちすぎです!」
右手に革の手袋を着けたリットが、うるさそうに手を振った。
「薄々、気づいてはいただろう?」
「剣の腕は、からきしですね」
「羽根ペンより重いものは手にしないから」
「白々しいですよ。リット様」
そう侍従が言って、主人と同時に気づく。
「あ」
「あ」
「休憩か? リット」
ラウルの言葉に、リットが目をそらした。
「ええ。まあ」
タギが小さく笑う。
「オレが命令した信書代筆は、どうした」
ラウルがリットを睨む。
「無論もちろん。書き上げましたよ。侍従のヤマセに預けましたよ」
「本当か」
「本当ですよ。ヤマセ本人に、聞いてみればいいでしょう」
黒髪の青年侍従が走ってやって来た。
「ラウル殿下!」
「ヤマセか。間が良いが――、何事だ」
ヤマセの焦りの表情に、ラウルが視線を尖らせる。
「申し上げます! コルンの街を出発したルリア王女一行が、何者かに襲撃されました!」