第14筆 黄昏ため息
――書けない。
ペン先が動かない。
白紙に向かい、どれくらいか。
書けない。
これほど苦しいとは思わなかった。
これほどできないとは思わなかった。
応援されて、嬉しかった。
でも、現実は厳しい。
何枚も何枚も何枚も、紙の枚数を重ねた。
一向に、満足できるものはできない。
もう、やめてしまおうか。
ちらりと、そんな考えが脳裏に浮かぶ。
書けない。
その苦しさを、初めて知った。
ルーリリリ、とさえずりが聴こえた。
大部屋の窓の向こう、茜色に染まり始めた世界で、瑠璃色の鳥が飛んでくる。
ルーリリリ。
巣で卵を温めている親鳥が応える。飛び立った。オオルリの二羽が梢に留まる。
ミズハは羽根ペンを置いた。代わりに誰かのオペラグラスを手に取る。巣を見れば、白い卵が二つ。目の開かない雛が二羽。
――オオルリは一日一個、卵を産む。だから、一個ずつ孵るよ。
セイザン宮廷書記官長の声が、耳によみがえる。
――最後の卵が孵った日に、昇級試験を行おう。
白い卵はあと二つ。あと二日。
花と、蔦と、獅子と、鹿の飾り文字は、なんとか書けるようにはなった。あとは回数を重ねて、滑らかに書けるよう練習するだけだ。
けれども。
唯一、翼のある鳥の飾り文字が、書けない。
手本は手元にある。図書室で、歴代の宮廷書記官たちの鳥も見た。翼を広げたもの、枝に二羽留まったもの、さえずるもの、羽繕いするもの。文字を身に宿した鳥たちが、美しく洋紙を飾っていた。
リットの鳥も見つけた。
勇猛な白鷲。
王令の清書だから、鳥の王たる白鷲を選んだのだろう。
鋭い鉤爪で最初の文字を掴んでいた。
広げた両翼は、羽根の一本一本がリアルな質感を持っている。風にはらむ風切羽根。飛び立つ前の、力強い一瞬。その羽ばたき。
ため息が出た。
圧倒的な美しさ。
圧倒的な技術。
リットの白鷲を手本に、などとは思えない。
飾り文字を超えて、もはや絵画だ。
チリリリ、とオオルリが鳴く。
チリ、チリリリ!
切羽詰まった声に、ミズハは驚いた。親鳥たちが騒いでいる。何があったのか。
さっと、黒い影が茜色の空を横切った。
黒い翼。暗褐色の胴には白い斑紋が散っている。
ホシガラスだ。
オオルリたちが騒ぐ。ホシガラスが巣の近くの枝に留まった。
――卵と雛を狙っている。
くっく、と首を動かして巣の中の様子を窺っている。雛はまだ目が開いていない。成す術はない。
もし、雛と卵が食べられてしまったら。
仄暗い考えに、ミズハはぶるりと身を震わせる。
試験の日が延びるかもしれない。
設定された期日は、オオルリの卵が孵るまで。卵はまだ二つある。
チリリリ!
二羽の親鳥たちがホシガラスに向かっていった。
鳴き声と羽ばたきで警告をする。ホシガラスはオオルリの二倍の大きさ。それでも、オオルリはひるむことなく立ち向かっていく。
必死で、雛と卵を守っている。
ズキリ、と胸が痛んだ。
ホシガラスが飛び立つ。
巣がある梢に留まる。
巣の中の二羽の雛は、危険を察知してか、ぴくりとも動かない。
チリ、ルリリ!
親鳥が鳴き喚く。そのうち一羽が巣に舞い降りた。雛と卵を、自分の腹の下に隠す。
チリリリ!
雄だろうか。ホシガラスの周囲を執拗に飛び回り、時折、翼の先で叩く。ホシガラスはうるさそうに首を振った。
ばさり、と黒い翼を広げる。
「あ!」
ミズハは思わず席から立ち、大窓に張り付いた。
ホシガラスが飛び――オオルリの巣から離れていく。
チリリリ!
雄はしばらく追いかけていたが、やがて巣に戻ってきた。巣を守る雌とくちばしを擦りつけ合う。
「よかった……」
零れ落ちた言葉に、ミズハは愕然となった。
卵が襲われればいいと思った自分が、ひどく浅ましく思えた。
ルーリリリ、と親鳥がさえずっている。美しいその鳴き声に、唇を噛む。
オオルリは命を懸けて闘った。
自分は、どうか。
視線を落とす。ペンだこのある手、インクが入り込んだ爪。汚れていても、汚い手だと思ったことは一度もない。胸に抱いた雉の一枚羽根が誇り。
顔を上げる。
夕陽が朱金色に世界を染め上げる。一日が終わる。
オオルリが鳴く。
じんわりと、腹の底が熱くなった。
美しいだけではない、オオルリの強さ。
ミズハは振り向いた。机上の洋紙と羽根ペン。
書ける、と思った。