第10筆 暗闇に迫る牙
流血注意です。
夕闇の中、ジンは馬を走らせる。
スレイ騎士団から借り受けた黒鹿毛が、素晴らしい俊足で進む。コルンの街は、王都の目と鼻の先。
知らせを運んできた王女付きの騎士曰く。コルンの街を出て、しばらくすると野盗の一団に襲われたという。
「スレイ騎士団の役目は王都守護だから、キミが行きなよ。王城と近衛騎士団には至急使者を出す」という、レガートの厚意に甘え、誰よりも早くジンは出発した。「これは貸しだよ」という言葉は聞き流した。
「あれか」
十数の松明に、五つの焚火。
街道の端にある大きな岩の近くで、野営の準備をしている一団が見えた。炎に照らされ、三台の馬車の豪華な金装飾がきらめく。
馬車に金で描かれているのは、〈太陽を支える二頭の一角獅子〉――金陽の国の王家の紋章。
「何者だ!」
馬のひづめの音で、護衛の騎士たちがジンに気づく。抜き身の長剣が、掲げられた松明にぎらりと光る。
手綱を引き、ジンは黒鹿毛を止めた。鞍から降りる。
「私は、近衛騎士団副団長のジン・ジキタリア! 一報を聞き、馳せ参じた!」
おお、と騎士たちからの口から声が漏れた。長剣を鞘へ収める。
「久しいな、ジンどの」
壮年の騎士の姿に、ジンの灰青の目が大きくなった。
「マエスどの!」
ジンとマエスが手を握り合う。
「昨年ぶりか?」
マエスがマントを捌き、焚火へとジンを案内する。他の騎士に黒鹿毛を託し、ジンが彼の後に続く。
「お元気そうで何より」
「この通り。元気で無傷だが……」
マエスが肩をすくめた。
「まさか、王都を目前にして襲撃されるとはな」
焚火の傍の折畳み椅子に、マエスが腰を下ろした。
「馬を走らせて疲れただろう。座りなさい。いま、葡萄酒を持って来させよう」
「いえ。その前に、王女様にご挨拶を」
立ったままのジンを、マエスは見上げる。
「ご無事なのですか」
「ああ。この襲撃では無事だ」
含みのあるマエスに、ジンが怪訝そうに眉を寄せた。
「あの馬車に――」
三台のうち、中央に止められた豪華な馬車へ、マエスが視線を投げる。
「侍女が乗っている」
その意を理解して、ジンが折畳み椅子に座った。声をひそめる。
「……ルリア王女は、いないのですか?」
「そうだ。我らより一足先に王都へ向かった」
「襲撃を警戒して?」
ジンの鋭い目に、マエスは臆することなく頷いた。
「野盗に襲われたと聞きましたが」
「ジンどのの言う通りだ。金持ちの一団が街道を通る、と事前に知っていた野盗だな」
「何者かが、野盗を使って襲わせたのですね」
一瞬、マエスが目をそらした。ジンが喰らいつく。
「心当たりがある、と」
「ふっ。その通りだ」
「マエスどの」
じっと自分を見つめる青年騎士に、マエスは息を吐いた。
「ルリア様がいなくなって、最も利があるのは……メリア王女だ」
「第二王女が、姉君を狙うのですか」
「女の嫉妬ほど怖いものはないぞ、ジンどの」
ジンが唸る。
「メリア王女は、ラウル様を好いていると聞いたことがありますが」
「ああ。ベタ惚れだ」
「ベタ惚れ……、ですか」
「恐ろしいほどにな」
マエスが眉を寄せた。
「ルリア様がいなければ、シンバルの王女はメリア様のみ。隣国同士の政略結婚は珍しいことではない」
「ですが……、それは……。ラウル殿下が承知しないと……」
ジンが言い淀む。その様子に、マエスが苦笑する。
「メリア王女は、独特の世界に生きるお方だ。夢や幻や妄想だろうとも、この世に存在する限り実現できると思っている」
「迷惑ですね」
一刀両断に言い切ったジンに、マエスは指で自分の眉間を揉んだ。
「そうはっきり言われると……、我が国の王女なのだが」
「申し訳ない、マエスどの。私は言葉を飾るのが苦手なのです」
「知っている」
マエスが頬を緩める。
「二度、剣を交えたことがあるからな。真っ直ぐな気質は相変わらずか」
「友には、真面目過ぎだと貶されます」
「ふっ。良い友を持っているな」
「はい」
そうやって他意なく頷くから真面目なのだと、マエスは胸中だけで呟く。口には出さない。
ぴくり、とジンの肩が揺れた。
おもむろに、折畳み椅子から立ち上がる。腰に吊った長剣の柄を握る。
「どうした」
「笛の音が、聴こえました」
「笛だと?」
闇の帳が下りて、周囲は暗い。マエスが耳を澄ませても、薪の爆ぜる音と、馬の息遣いしか聞こえなかった。
「マエスどの」
ジンの真剣な声音に、一団を率いるマエスは危険を察した。
立ち上がり、すぐさま騎士たちへ命令を飛ばす。野営の準備をしていた人々に、緊張が走る。騎士たちが松明を掲げ、鞘から剣を抜いた。
「何人だ?」
闇に目を凝らし、マエスが尋ねる。
ジンは気配を探り、眉間にしわを刻む。
「二十……、いや。三十匹です」
「何?」
マエスに向かって、暗闇が飛び出してきた。
ジンが刃を閃かせる。
ガキン、と長剣が牙を弾く。火花が散る。体を捻って着地する黒い獣。
「野犬か!」
マエスが身を引いた。
黒い野犬も距離を取る。飛び掛かる機を窺っている。
ぐるるる、と唸り声が幾重にも重なって響く。
ワオーン、と遠吠え。夜にこだまする。数が多い。
「火を燃やせ! 近づけさせるな!」
マエスの号令に騎士たちが松明を増やす。煌々と炎が夜闇を退ける。
それでも、野犬たちは襲い掛かってきた。
「くっ!」
マエスが一頭を切り伏せれば、別の野犬が左脛を噛む。薙ぐ刃で返り討ちにする。
「マエスどの!」
ジンが一振りで二頭倒し、駆け寄った。
「心配ない! 厚革の長靴で助かった!」
マエスが長剣を振るう。
避けられた。
野犬がぐっと屈み込む。後ろ足で強く地面を蹴り、マエスの頭上高く跳躍して――ジンに斬り殺された。
ぼたぼたと、血の雨が降る。
「か、かたじけない」
「いえ。ご無事でなによりです。マエスどの」
松明に照らされ、ジンの瞳が爛々と輝く。光の加減か、灰青を通り越して銀色に見える。
「まだ、半分以上いますね」
ジンが走り出した。野犬の群れへ飛び込む。
一斉に、五頭が襲い掛かった。
鋭い爪と、よだれを散らす牙。
それらすべてを、容赦なくジンは斬り捨てる。
振るう刃が松明の炎を反射して、銀の弧を描く。
斬り落とされた野犬の首が地面に転がる。
どさりと胴体が落ちる。
濃厚な血の匂い。
獣たちの息遣い。興奮した馬の嘶き。
ジンは長剣を振るう。赫が散る。絶命する野犬の鳴き声。すぐに途切れた。
他の騎士たちは後ずさりした。野犬が怖いのではない。息をするように、命を屠る彼が恐ろしいのだ。
「臆するな!」
マエスの声に、騎士たちがびくりと震えた。
「松明を持て! 闇を切り払え! ここが正念場だ!」
マエスが己の長剣を夜空に向けて掲げた。野犬の血に濡れながらも、眩い白銀の長剣――騎士の魂。
「ジンどのに続け!」
「お、おおおお!」
雄叫びが闇夜に轟く。じりり、と野犬たちが後ずさった。
マエスに率いられ、騎士たちが野犬に向かう。
長剣と牙と爪がぶつかり合う。野犬が吠える。騎士が怒鳴る。
マエスは頬をかすめた爪を、その野犬ごと叩き斬った。獣の躯がまた一つ転がる。
それでも、息が上がってきた。
「マエスどの、下がってください!」
ジンがマエスの前に出た。飛び掛かる野犬を斬り払う。
「いや、しかし」
「指揮官である貴方が負傷したら困ります! 後方へ!」
ぐっ、とマエスは唇を噛んだ。ジンの言葉は正しい。
「すまん! 前は任せた」
個々にばらついていた騎士たちを、マエスは呼び寄せる。決してひとりで野犬に対峙させない。例外を除き、二人一組を作らせて野犬と戦う。
その例外が、暴れている。
隙を窺っていた野犬をジンが蹴り上げた。ぎゃいん、と吹き飛ぶ。
大きく顎を開けた野犬の、喉奥まで長剣を貫き通す。手で野犬の耳を掴み、長剣を引き抜く。噴き出す血潮は気にしない。次の獲物を捕らえる。斬る。赫が散る。闇を染め上げる金臭さ。騎士の幾人かが吐き気を覚え、口を手で覆った。
確実に、野犬の数は減っている。
それでも、獣たちは攻撃をやめない。
ジンが切り伏せた野犬の陰から、別の野犬が飛び出してきた。
「ジンどの!」
マエスが叫ぶ。
空気を切り裂いて、飛翔する。
「ぎゃん!」
ジンを狙った野犬の目に、白羽の矢が突き刺さった。
「油断大敵。なんてな」
松明の炎に、長い三つ編みが金色に見える。
「犬相手に苦戦しているようじゃないか。ジン」
「リット!」
馬上からリットが短弓を構えていた。腰の矢袋から二本取り出し、続けざまに放つ。狙いは違わず、二頭の野犬が矢を受けて絶命した。
「トウリ、ヤマセ!」
「はい!」
トウリが答える。ヤマセの馬の後ろに乗ったまま、革袋の蓋を取った。
「しっかり掴まっていてください!」
ヤマセが一直線に馬を走らせた。野犬が驚き、飛び退く。
ジンと野犬たちの間を、ヤマセの馬が通り抜けた。トウリが撒いた液体が、一筋の川のように地面に流れる。
「離れていろよ!」
リットが叫び、火矢を放った。液体――油に引火する。
ごう、と炎が吠えた。
闇を切り裂き、野犬とジンたちの間に炎の壁が現れた。
膨大な熱に、さすがの野犬たちも尻尾を巻いて逃げ出す。わあ、と騎士たちが歓声を上げた。
リットが馬を進めた。自身の髪色に似た明るい鹿毛は、炎を恐れもしない。
「リット! 助かった」
ジンが駆け寄る。その灰色の髪が、赤黒く汚れている。
「ああ、ずいぶんと男前な姿になったな、ジン。その姿のままご令嬢に会ったら、相手は卒倒するぞ」
「お前がそっとしておいてくれたら、平気さ」
頬に飛んだ血を、ジンは手の甲で拭った。
「リット様」
「ご苦労、ヤマセ」
ヤマセが手綱を握る馬が戻ってくる。トウリがヤマセの背後から顔を覗かせた。
「リット様! 僕、やりましたよ!」
「ああ、曲芸見事だった」
「怒りますよ」
「冗談だって」
主従の軽口の応酬に、ジンとヤマセが笑う。




