7 街中で
目を開けると部屋は既に明るくなっていた。
いつもと同じ時間に起きた事を無意識に理解してアルヴェスは起き上がる。昨日のようにソファから落ちるなんて事にはならず、アルヴェスはソファに座り直してあくびをした。
埃っぽい室内の空気を胸いっぱいに吸って、吐く。疲れだとか、振り切れない感情だとか、その他諸々を吐き出すように深く、長く吐く。
違和感に気づいたのはその時だった。
「……ん?」
足に何かがあたる。視線を下げてみると、そこには毛布が一枚。アルヴェスの寝室にあったものだ。
しかしアルヴェスが起きた時に、彼の体に毛布はかかっていなかった。寝相のせいかとも思ったが、毛布が落ちているならアルヴェスも床に落ちていた可能性が高い。
(いや、待て)
一つの予想が頭を過り、アルヴェスは床に落ちた毛布をゆっくりと拾い上げた。
「……何してるの?」
毛布にくるまっていたのは案の定シルバレットだった。既に覚醒していたらしく、アルヴェスと目が合うと悪戯がバレた子供のようにすぐに目を逸らした。
理由はなんとなく分かっていたが、アルヴェスはひとまず冗談を言ってみる。
「一人で寝るのは怖かった?」
「……アルヴェスが起きる少し前に戻る予定でした」
「けど寝ちゃったと」
アルヴェスの言葉にシルバレットがゆっくりと頷く。ソファの下で寝ていた理由が恐怖によるものであろうと、こちらを気遣った結果であろうと、アルヴェスはそれ以上の詮索をする気はなかった。
アルヴェスは引っ張っていた毛布を再びシルバレットに押し付ける。頭上から降ってきた毛布に「わふっ」と悲鳴を上げるシルバレットを横目にアルヴェスは勢いをつけてソファから立ち上がった。そのまま大きく伸びをする。
(うん、気分はいい)
丁度毛布から顔を出したシルバレットにアルヴェスは言った。
「今日も頑張ろう」
「ガレイさんはあまり変わった様子はありませんでしたね」
朝の仕事を終えて、街中を歩きながら投げかけられた言葉にアルヴェスは頷いた。
「そりゃあね。気分が落ち込めば作る飯もまずくなるっていうのがガレイさんの持論らしいし」
「それは……、すごく似合ってます」
「だよね」
事実アルヴェスも、この街に来てあの店で働くようになってから今に至るまで、ガレイの泣き顔というのを見たことがない。玉ねぎを切っても涙を流さない所を見て何か細工でもしてるのだろうかと疑ったのは何年前のことだっただろうか。
「けど、あの人も悲しんでるよ」
「そうなんですか?」
「うん。だって今日は厨房から出てこなかったからね」
仕事場が自宅のような人物だ、気分を落ち着かせるのに最適な場所なのだろう。
「詳しいんですね」
「まあね。伊達に十年も働いてないよ」
人との接し方に何年も難儀したアルヴェスだが、同じ場所で働いていれば自然と見えてくるものはある。まあ、指摘したらきっと拗ねてしまうので口にすることはないのだが。
そんな事を話しながら歩き続けるアルヴェスだったが、シルバレットから飛び出した言葉は納得を示すものではなかった。
「……十年?」
「――あ」
シルバレットがぽつりとその言葉を呟く。直後、アルヴェスは自分の失言に気付く。
アルヴェスがシルバレットに、自分の事について話したことはあまりない。まだ出会って三日なので当然といえば当然なのだが、自分の身の上話をする事をアルヴェスは努めて避けている所も原因の一つだろう。
話した事といえば自分がハーフヴァンパイアであることくらいだ。
人間と吸血鬼の間に産まれ、人間寄りの性質を受け継いだアルヴェス。この「人間寄り」という言葉にシルバレットがどれくらいの比率を当てはめたのかは分からないが、少なくとも今の会話で一つの疑問が生じたくらいには人間の割合が大きかったらしい。
それは例えば、アルヴェスの外見と年齢のずれであったり。
「アルヴェスって何歳ですか?」
「……何歳だと思う?」
情けなく逃げ道を作ろうとするアルヴェス。
出会ってから一番と言えるほどに全身をくまなくシルバレットの視線にさらされる。
雑に整えられた黒髪。服越しでも分かる衰えていない体。まだ皺が目立っていない肌。
その全てをじっと観察したシルバレットが下した結論はとても正確だった。
「……二十歳、くらいですか? けどそうなると、アルヴェスは10歳の頃からあの店に……」
まさか、と言わんばかりの視線が向けられる。
「もしかして、親子ですか?」
「違うよ」
「じゃあ、孤児、とか?」
「それも違う」
「幼い頃から料理人を目指して弟子入りを――」
「料理は作るより食べる側がいいんだ」
「……分かりません」
諦めたように首を横に振ったシルバレットを見て、アルヴェスもまた諦めるように溜息を一つ。
「四十」
「え?」
「俺の歳。寿命は吸血鬼に寄ってるんだ」
「四十……」
目に見えてシルバレットの表情が驚きに染まる。数秒前まで全身を巡っていた彼女の視線が今は妙に気恥ずかしくて、アルヴェスは体の向きをシルバレットから逸らした。
「すごい……。とてもおじさんには見えません」
背後からシルバレットの声が聞こえる。吸血鬼の寿命の平均は百年を軽く越えるらしいので、アルヴェスがおじさんと呼べる外見になるのは当分先だ。
僅かな抵抗感を振り払い、アルヴェスはシルバレットの方を向く。そして自分の人差し指を自分の唇に押し当てる。
「このことは誰にも言わないでね」
「? でも、ガレイさんは……」
「うん、ガレイさんは分かってるよ。クーリエは……、まあ察することくらいはできてたと思う」
アルヴェスがガレイの癖を理解しているのと同じように、アルヴェスと長い間交流のある人間はある程度彼の寿命を理解しているだろう。
けど、とアルヴェスは言葉を続ける。
「俺の歳を知って、距離を置いたり接し方を変えたりする奴もいるからさ。できるだけそういうのは避けたいんだ」
『鶏の尸亭』に来る客の中に吸血鬼に対して負の感情を抱いているもの――いつかの朝に広場で叫んでいた若者と同じ考えを持つ者がいないとは断言できない。自分だけの問題で店に不利益を齎したくないというのがアルヴェスの考えだった。
「見た目はただの若者なのに歳はおじさんなんて不気味でしょ?」
笑いながらアルヴェスが言う。しかしその言葉は本人が思っていたよりも酷薄な響きで、それを聞いたシルバレットは僅かに目を見開く。しかし次の瞬間には彼女は素直に頷いてくれた。
「分かりました。この事は誰にも言いません」
「助かるよ」
素直に頷いてくれたシルバレットにアルヴェスはほっと胸を撫で下ろした。
自分がほんの少しだけ緊張していた事を実感する。隠す気はなかったが、話す気もなかった話題を口にするのは中々疲れるものだ。
「んー、さて」
一度大きく伸びをする。太陽はまだ頭上で輝いていて、地平線に沈むのはまだ時間がかかりそうだ。
夜までどこで時間を潰そうか思案していると、ぐい、とそれなりに強い力で右手を引かれた。
「どこか行きたいところでもある?」
アルヴェスにとっては見慣れた街だが、シルバレットにとってはまだまだ未知が多い場所だ。店の常連客に話を聞いて興味をも持つのも当たり前のことだ。
彼女の好きな場所に連れて行こう、と心に決めて、アルヴェスがフード越しにこちらを見つめる青い瞳に問いかけると、シルバレットはぎゅっと両手に力を入れて、
「おじさんでも、アルヴェスはアルヴェスです」
とだけ言った。
先程の話に関係あるのはすぐに理解できた。そしてその言葉を口にした理由が彼女の優しさであることも。
「ありがとう」
アルヴェスは一言だけお礼の言葉を口にする。後は何も言わずに歩き始める。シルバレットも黙ってそれに従った。
(おじさんか)
意外にも初めて言われた言葉だ。年齢を聞いて驚く者はたくさんいたが、何も言わずに離れていく者が殆どだった。そういうものかと思っていたが、いざ言われてみると妙に笑いが込み上げてくる。
「どうかしましたか?」
「いや、うん。……おじさん、おじさんか」
「い、嫌でしたか?」
「まさか。逆だよ」
心配そうなシルバレットに笑顔を送って、アルヴェスは楽しげな足取りで通りを歩く。
「いっそのこと、髭でも生やそうかな?」
「そ、そこまでしなくても、今のアルヴェスは立派なおじさんです、よ?」
励まされているのか、からかわれているのか分からない言葉にアルヴェスは楽しそうに笑った。