5 握手
朝の匂いを感じ取って、アルヴェスはベッドから上体を起こした。直感的にいつもより早く起きたと分かる。窓から朝日が差し込んでいないのだ。
アルヴェスは一度伸びをしつつ、寝惚け眼でベッドから降りるようと腕に力を入れる。しかし、
「おわっ」
いつものシーツの感触が掴めず、アルヴェスはそのまま変な声を上げながら視界をぐるりと回転させ、抵抗虚しく後頭部から床へ激突した。
「……リビングか」
寝室の天井とは違う色の天井を目にしてアルヴェスはだんだんと状況を把握していく。
「シルバレット」
その名前をぽつりと呟く。アルヴェスの記憶が正しければ、このガレイの旧宅兼アルヴェスの自宅であるここに到着した後、シルバレットをそっと寝室のベッドに寝かせて、アルヴェス自身はリビングのソファに倒れ込むように眠りについたはずだ。
「と、なると……」
床に頭、ソファに両足を預けた状態からなんとか起き上がると、アルヴェスは二階に続く階段へと向かった。
軋む階段を上ると、一回よりやや埃臭い廊下に出る。アルヴェスは慣れた足取りでその廊下を進み、いつも自分が横になるベッドがある部屋の前に到着した。
古びたドアノブに手をかけてゆっくりと回す。きぃ、と錆びた蝶番がいつものように悲鳴を上げた。
当然といえば当然だが、その先にシルバレットはいた。
まだ起きていないらしく、その体は寝息を立てるたびに僅かに動くだけだ。シーツの上に外套のフードからはみ出した銀髪が広がり、アルヴェスは、シーツを洗うべきだった、とよく分からない反省をした。
「……ん」
蝶番の音を察知したのか、シルバレットがもぞもぞとシーツの上で動く。そして、自分が寝ている場所に違和感を感じたのか、その目蓋をゆっくり開けた。
彼女の視線が機械的な動作で部屋全体を見渡していく。
まずベッド。次に壁、天井、そして扉の前に立つアルヴェス。
「おはよう」
努めて明るい声でアルヴェスが挨拶をすると、焦点の合っていないシルバレットの瞳がみるみる見開かれていく。
覚醒には数秒とかからなかった。
「あ、アルヴェス……?」
「うん、おはよう」
もう一度アルヴェスが挨拶をすると、シルバレットは慌ててベッドから降りて立ち上がると、律儀に頭を下げてくる。
「お、おはようございます」
「どこか具合が悪いとかある? 昨日の夜、間違ってお酒飲んじゃってたみたいだから」
「お、お酒?」
困惑気味に言ったシルバレットは、昨夜のことを思い出すように視線を下に向けた。そして、
「あ、あのっ、わざとじゃなくて、間違って飲んでしまって……」
懸命に説明しようとするシルバレットを見て、アルヴェスは苦笑しながら慌てる彼女を宥めた。
「いやいや、怒ってないよ。むしろああいうのはよくあることだから。それで、どこも具合悪くない?」
「は、はい。元気です」
その言葉を聞いてほっとする。下戸の中には一滴の酒で酔うものもいるらしいので、シルバレットがその分類に入っていたら二日酔いなんて事になっていた可能性もあった。
シルバレットはきょろきょろと辺りを見渡す。きっと見慣れない部屋だからだろう。
彼女から簡素な質問が飛んでくる。
「あの、ここはどこですか?」
「……ああ、うん。俺の家なんだ」
さて、どう説明したものか。
アルヴェスは内心で頭を掻く。
シルバレットが一人で宿に泊まることに関して不安を抱いた時点で、泊まる場所がアルヴェスの家に半ば決まっていたところはある。しかしながらこの状況は、側から見れば眠った少女を家に連れ込んだハーフヴァンパイアの図である。
アルヴェスは正直に事の顚末を伝えた。
「……なるほど」
「改めてごめん。もう少し早く提案しておけばよかった」
アルヴェスが頭を下げると、前方でおろおろと慌てる気配を感じる。同時に声が響いた。
「だ、大丈夫ですよ。その、私の我儘のせいでもあるので。こちらこそありがとうございます」
そう言うと同時にアルヴェスの視界に銀髪が入る。どちらも頭を下げては意味がないだろうに。
アルヴェスが頭を上げると、シルバレットも同時に頭を上げていた。
少し気まずい雰囲気が流れる中、先に口を開いたのはシルバレットだった。
「……えっと、提案というのはつまり、私が馬車代を稼ぐまでここに泊めてくれる、ということでいいんですか?」
「あー、うん。シルバレットがよければ。一人で住むにはちょっと広すぎてさ。二人くらいが丁度いいんだ」
「そう、ですか……」
シルバレットの顔が伏せられる。きっと考えているのだろう。この提案はアルヴェスのただの善意だが、向こうからすればその善意に対して返せるものがあるのかという葛藤が先に出る。シルバレットがそういう人間なのは何となく分かっていた。
だからここで彼女が断れば、アルヴェスは彼女との関係の一切を断とうと思っていた。
自分の意思で断れば、今度こそアルヴェスが何かをすることは無いし、する必要もない。後はシルバレットの努力次第だ。
自分から逃げなかった数少ない人間との交流を断つのは心苦しいが、仕方ない。
アルヴェスはシルバレットの答えを待つ。待っている間は数秒が数時間の長さに感じられて、アルヴェスは自分が緊張していることに気付く。
程なくして、シルバレットが口を開いた。
「その、きっと迷惑をかけると思います」
少しだけアルヴェスの息が詰まる。
しかしシルバレットは、でも、と言って言葉を続けた。
「誰か一人を頼り続けるのは危ない事は理解してます。けど、この街で私を助けてくれたのはあなたただ一人なのも事実です」
シルバレットの頭が律儀に下げられる。
「なので、迷惑かもしれませんが、ここに泊めてくれませんか?」
提案を提案で返される。
人生で初めてのその返しにアルヴェスはぽかんとする。改めてシルバレットの真っ直ぐさには驚かされてばかりだ。
「ふ」
「え?」
「ああいや、なんでも。というか、提案したのは俺なんだから、受けないわけないよ」
アルヴェスは手を差し出す。そして、いつのまにか安堵の息を吐いていた。
「これからよろしく」
「……はい。よろしくおねがいします、アルヴェス」