16 一縷の希望
「食べないんですか?」
声が聞こえて、私は顔を上げる。
「毒なんて入ってませんよ」
「……解いてください」
胴体にぐるりと巻かれたロープを揺らすと、目の前の男は、カンテラの淡い光に照らされた顔に僅かに笑顔を浮かべた。
「ああ、そうでした。けどすいません。私はあなたに触れることができないので諦めてください。両手は自由にしているので問題ないと思うんですが……」
一定の距離を保つ男を見て、私は目の前のテーブルに視線を移す。机の上には一人で食べるには些か多すぎる量の料理が並んでいる。光源が天井から吊らされているカンテラだけなので、手前にある料理しか目に入らない。男の言うとおり、きっと毒は入っていない。
最後の晩餐というやつだろう。
取り敢えず近くあったパンに手を伸ばす。そうすると背もたれのない椅子の後ろにある柱と胴体を繋ぐロープがぴんと張る感覚を覚える。
パンを口へ運ぶ。おいしい。けどあの店で食べるパンの方がおいしいと思ってしまう。
「ここ、どこだと思います?」
不意に男が訊いてくる。
私が首を横に振ると、男は壁によりかかりながら答えた。
「ここは賭場なんですよ。で、あなたが今いる場所はバックヤード。薄暗いのはその為です」
なるほど。テーブルの向こうの布がかかった出入り口から漏れてくる光と喧騒は賭場に来ている客のものらしい。
しかし賭場とは。
何故は私はここにいるのか。もっと言えば、私は何故まだ生きているのだろう。
「あなたはきっと死にますよ」
私の疑問を見透かしたように男が答える。あの店で感じた柔らかい印象はもう感じない。全く別の人物と話しているようだ。
「あなたは私達の同胞を殺した犯人です。そういうことになっている」
呼吸をするかのような自然さで男は冤罪を認める。
「あなたに罰が下されるのをみんなが待っています。だから、あなたが死ぬ場所はここではなくあっちです」
喧騒が聞こえてくる方向を指さす。
吸血鬼達の前で私は殺される。少なくとも安らかには死ねなさそうだ。
死ぬという事実を言い渡されても私は自分でも驚くくらいに冷静だった。代わりに浮かぶのはあの人のことだ。
「……アルヴェスは無事ですか?」
「アルヴェスさん? ええ、無事ですよ。犯人を捕まえた以上、私達の方から何かをすることはありません」
「そう、ですか」
ほっと胸をなで下ろす。
彼が私を手放すとき、彼はとても悲しそうな表情をしていた。けれど彼が無事ならあの選択はきっと間違っていなかったはずだ。
元はといえば私の不注意で巻き込まれた事件で、彼が気に病むことはないのだ。
胸が罪悪感で包まれる。唯一心残りがあるとすれば、街を案内してくれて、住む場所も働く場所も用意してくれた彼にまだ何も返せていない事くらいだ。
「それにしても、自分が死ぬというのに他人の心配をするなんて少し感心しちゃいますよ。普通なら泣いたりするんじゃないんですか?」
「……もともと、死んでいたようなものなので」
私に呪いがかかっている事が判明したのは、私が五歳の時だった。
親の言いつけを破って森に足を踏み入れた時、不幸にも飢えた吸血鬼に遭遇した。結果だけ見れば不幸だったのは灰になった吸血鬼の方だが、吸血鬼を灰に変える現場を、私を探しに来た猟師に見られてからはとても退屈な日々が私を待っていた。
私を拝みにくる老人、私がなにかしようとすると慌ててそれを止める人々。両親だけが心の支えだったが、両親が事故で死んでからは私は完全に村から孤立した。
村を出たのも、定期的にやってくる行商人の馬車に飛び乗るという強引な方法だった為禍根を残す形となった。あれでは次に村に戻った時、檻にでも閉じ込められるかもしれない。
「へぇ。けど、店で働いている時は随分楽しそうでしたよね?」
「それは……本当に楽しかったので」
だから、この街に来てからは刺激的な出来事の連続だった。
自分で考えて行動する、そしてその行動を制限しようとする者がいない空間はまさに私が求めていた理想でもあった。
私は村の守り神なんかじゃない。ただの子供だ。そうありたかった。
半ば達成できた望みだが、結局は呪いのせいで捕えられて、こうして死ぬのをただ待っている。村で一生を過ごすより多少マシだと思えるのが唯一の救いだった。
それから、一つを思い出したことがあった。
「あの、アルヴェスに伝えてくれますか?」
「伝言ですか。いいですよ」
「私が稼いだお金はあげます、と」
あれは馬車代という名目で貯めていたお金であって、今となっては私には必要ないものだ。自分で働いて稼いだという事実だけで私は満足だった。
これで少しは恩返しできたかな。
男が伝言をメモしているのを横目に私はそんなことを思う。
「――な、なんだぁ!?」
何かが砕ける音と共に叫び声が聞こえてきたのはそんな時だった。
「喧嘩か…….?」
男も外のざわめきに気づいたらしく顔を上げる。
そして同じタイミングで出入り口の布がめくられて、光と共に一人の男が慌てた様子で入ってきた。
「た、大変です! 黒髪の男がいきなりドアを蹴破って入ってきました!」
「夜警団か?」
「い、いえ。匂いは吸血鬼なんですけど、妙に人間臭くて……」
「まさか、人間の血を吸ったのか……? 人間の国での吸血行為は重罪だ。ただちにその吸血鬼を――」
早口で男が指示を飛ばす中、シルバレットは驚きと共に確信に似たものを覚えていた。
悲しそうな顔をしていた彼が何故ここにきたのかは分からない。策があるのか、それともやけになって突撃したのかもしれない。しかし、そんな事は私にとってはどうでもよかった。
私の予想を裏付けるように、外から僅かに焦ったような声が聞こえた。
「えっ、これ蹴っちゃダメなの!? でもこれが符丁って聞いたんだけど……。参ったな……」
緊張感のない声。私はこの声の主を知っていた。
「あー、えっと、ちょっと人探しをしてるんだけどさ。シルバレットって名前の女の子、知らない?」