12 違い
「んー、真祖か」
天井を見上げながらアルヴェスが唸る。
「初耳だ」
ローレインに言ったような言葉を口にする。
真祖。
夜警団の団長である彼が口にしていた言葉。
何もかもが不確定ではあるが真祖が死んだという彼の言葉を事実とするなら、恐らくそれが現在のヴァンパイアファミリー騒動の原因であり、端的にいえばファミリーのボスだったのだろう。
真祖。吸血鬼に疎い人間でもその言葉だけは耳にしたことがあるであろう存在。
吸血鬼という種族は、よく「群れ」と称されることがある。
人間のように個々に生まれて個々に育ち、それぞれの人生を送るのではなく、吸血鬼には明確な王がいる。それが真祖だ。
真祖は五人いるとされ、全ての吸血鬼が五人のうちの一人の真祖の血を引いている。そしてそこにはハーフヴァンパイアであるアルヴェスも入っている。
「ま、誰かは知らないけど」
吸血鬼は幼少期から、自分が血を引いている真祖のことを教えられるというが、アルヴェスが物心ついた時にはすでに父である吸血鬼はおらず、母と村で二人暮らしだった。まあ、村を飛び出した今となってはどうでもいい過去ではあるが。
「死んだ、ねぇ」
ソファにごろんと横になってその言葉を口の中で転がす。
真祖とは吸血鬼の起源であり、現在を生きる吸血鬼よりもその力や生命力は遙かに強く、絶大な差があるという。
その真祖が死んだ。それも恐らくは、アルターがアルヴェスに接触してきた後。ある意味クーリエの死よりも信じられないことだった。
「まあ、どうでもいいんだけど」
真祖が死んだという事実の裏にあるであろう闇を推理し始めた頭をかく。
問題はそこではない。これからについてだ。
今のところ、アルヴェスたちはいつも通りの生活を送っている。その甲斐あってシルバレットの手元のお金も増え、あと少しで目標の金額に到達するというところまできていた。
「二日……、いや、今日で達成できるかな」
先日シルバレットにそれとなく訊いた時の金額に日給を加算してそう確信したアルヴェスは今後の予定を脳内で組み始める。
最優先は馬車の手配だ。シルバレットの故郷の話をアルヴェスはあまり聞いたことがないので、もしもかなり遠くの村だったら手配に時間を取られることになる。
アルヴェスの役目はシルバレットがこの街の外に出るまで彼女の身の安全を守ることだ。
「……」
うまく言葉にできない不安が過ぎってアルヴェスは無意識に右手をぎゅっと握り込んで胸の上に置いた。目を閉じる。
ヴァンパイアファミリーと人間のファミリーの間での争いはまだ続いていてる。しかし僅かながら騒がしさが遠のいたような気がするのも確かだ。
確証はない。しかし近いうちに何者かが近寄ってくるという確信はあった。
出発の日にそれが被ってしまったら。
「……いや、よそう」
頭を振る。真祖という言葉を聞いて自分が思っているより物事に敏感になっているらしい。
悪いことだけ考えてしまうとうまくいかないというのは人であっても吸血鬼であっても同じだ。
右手を強く握る。不安を握り込むように、強く。
大丈夫。まだ問題はない。自分にそう言い聞かせる。するとすっと頭の中が冷たくなって、
「――アルヴェス!」
「おわっ!?」
頭上で自分の名前を叫ばれて、アルヴェスは重い目蓋を高速で上げた。
目の前にはシルバレットの顔があった。何故かとても真剣な表情をしている。
どうしたの、と聞ききながらアルヴェスは起き上がろうとするが、
「……って、お、ととと」
解いた右手に生温いもの感じて見てみると、右手が血だらけだった。強く握り込んで爪が皮膚を破ってしまったようだ。
「右手、どうしたんですか?」
恐る恐ると言った風にシルバレットが聞いてくる。心なしが顔が青い。彼女が叫んだ理由はこれか。
「ああ、大したことないよ。っと、と、血が」
何か布はないかとアルヴェスは周囲を見渡すが、それより先に目の前の少女に右腕を掴まれた。
「お医者さんに行きましょう」
「え? いや、これくらい診療所に行く程の傷じゃ――」
「行きましょう」
ぐい、ぐい、と引っ張られてアルヴェスは思わず立ち上がる。
「ど、どうしたの?」
「痛いですよね?」
「え? そりゃあ確かに……って、ちょっと!」
聞く耳を持たないシルバレットはそのままアルヴェスの腕をがっちりと両手で捕まえて自宅の入り口まで引っ張っていく。彼女にしては大胆な行動だ。
「ま、待って待って! 本当に大丈夫なんだって!」
「その傷は大丈夫じゃありません」
「いや確かに見た目は凄い痛々しいけど! ほら、俺って――」
吸血鬼だから。
そう言おうとしたアルヴェスの口は、しかしそれに反して止まってしまった。
(不安なのは自分だけじゃない)
シルバレットは鈍感ではない。むしろ敏感な部類に入り、人の心の機微を感じ取ることができるのが彼女の長所と言えるだろう。
アルヴェスが吸血鬼であることはシルバレットは知っている。忘れているなんて事は絶対に無い。そんな彼女が、その事実を知っていてもなおアルヴェスを診療所に行かせようとしているのには絶対に理由がある。
不安になると右手を握るのはアルヴェスの幼少期の癖だ。そのせいでよく手を怪我してはいたが、1日足らずで治すことができていた。その辞めたはずの癖をアルヴェスがやってしまったのは、本人が思っている以上に不安に苛まれているからなのだが、問題はそこではない。
シルバレットからどう見えていたか。
ソファに寝転がって、目を閉じて、爪で皮膚が破けるほどに右手を強く握っている友人がいたら。
心配どころではない。それはもう必死になるはずだ。その友人と仲の良かった同僚の事件を聞いた後なら尚更悪い方向へと想像が進んだだろう。
私のせいで。
思い込みかもしれないその一言を飲み込んでシルバレットは今行動しているのだ。
それをただ、「吸血鬼だから」という一言で終わらせてしまうのはとても罪悪感があった。
「シルバレット。ちょっと」
丁度を入り口の扉を開けたシルバレットの力に抵抗するようにアルヴェスも足に力を入れる。先程までの言葉だけの抵抗と違うことに気づいたのか、シルバレットは素直に立ち止まってくれた。
こちらに向けられた瞳には僅かな罪悪感があって、アルヴェスはそれを少しでも消すために笑顔を作った。
「大丈夫、診療所には行くよ。右手の傷は癖みたいなものでさ、シルバレットにはまだ言ってなかったんだ」
「……本当ですか?」
「勿論。だからさ、ゆっくり行こう。俺の昔話でもしながら、ゆっくり」
一秒にも満たない、けれど数十秒にも感じられた視線の交錯はシルバレットが両腕を解いたことで終わりを告げた。
「ごめんなさい」
「シルバレットのせいじゃない。だから謝らないで」
そう言いつつ、アルヴェスはシルバレットに彼女の外套を渡す。しかしシルバレットは首を横に振った。
「着ている隙にアルヴェスが逃げるかもしれないので」
シルバレットはそう言うとアルヴェスの服の裾を掴んだ。
「行きましょう」
僅かにシルバレットの口角が上がる。彼女の瞳からは罪悪感が消えていた。自分の笑顔が効いたのだろう。そう思うことにした。
「逃げないんだけどなぁ」
苦笑しながらアルヴェスは自宅を出る。
太陽の位置はまだ高い。風にゆらゆらとシルバレットの銀髪が揺れる。ワンピース姿で街中を歩くシルバレットはとても新鮮に見えた。
近くに心配してくれる人がいる。
友人の次にアルヴェスと無縁な存在だ。
そんな存在が手の届く範囲にいて、誤解でその身を狙われている。
(忘れるな)
その言葉を心に刻む。
シルバレットの呪いは強力だ。しかし当の本人は非力な幼い少女でしかない。悪意に晒されればすぐに砕けてしまう脆い存在。誰かが守らなければいけない存在。
(化け物に対抗するのは化け物だけなんだ)
と、そんな時、
「どうかしましたか?」
顔を覗き込んでくるシルバレットにアルヴェスは赤い布が巻き付いた右手を振った。
「なんでもないよ」