牲は新世界より(1)
番外編
ミッシング・リング
「きっ……ぃいやあああぁ……?!」
耳をつんざくような、とんでもない大音量がキンキンと鳴り渡る。ソプラノの女の声がワンワンと反響している。
「……っさいな。何処だよ、ここ」
肩まで緩くウェーブのかかった漆黒の髪を掻き上げると、そこはバスルームのようだった。俺は、白いバスタブの中に横たわっていた。とは言っても水もお湯も張られておらず、しかも着衣のままだ。
黒い革靴とスキニータイプの細身のパンツ。上半身は……お気に入りのドレープたっぷりの白ブラウスが、ボタン全開だ。色素の薄い肌が、胸から腹まではだけている。首の付け根に手をやれば――ああ、大丈夫。5カラットのルビーが付いた、大切な革のチョーカーは外されていない。
「ははぁ」
叫びを上げた源が、バスタブの傍らでヘタリこんでいる。金髪が美しい、黒いワンピース姿の女性が、青ざめ、深いアイスブルーの瞳を震わせて、俺を見上げている。
「何? 俺に悪さでもしようとしてた?」
楕円形のバスタブからヒョイと起き上がり、縁に腰掛ける。
台座付きのバスタブ。足元には、デフォルメされた百合のレリーフが彫られ、由緒正しい品だと分かる。それにしても、時代掛かった代物だ。
「まっ……まさか、男だなんて、思わなかったのようー!!」
女は、両手で顔を覆い、ワアッと泣き出した。見たところ、20代半ばくらいか。中肉中背、豊かに膨らんだ胸に程よく肉付きのある尻、ちゃんと括れた腰まわり……なかなかセクシーだ。
「はぁ? あんた、俺のこと女だと思ったのか」
透明感のある白い肌に、黒い瞳と赤い唇。鼻筋の通った顎の細い俺の顔は、自分で言うのもなんだが、中性的でイケている。寝姿を見れば、美女と間違うのも無理はない。
「……もうダメ。月が欠け始めてしまう。間に合わないのようー!」
ヒステリックに泣き出す女を前に、俺は部屋の中を見回した。バスルームにしては広い部屋。高い天井も床も壁も、堅固な石造りで窓はない。彼女の背後3mくらいに、重そうな鉄の扉が付いているだけだ。そのせいか、やや湿った空気に錆っぽい匂いが混じる。
バスタブの足下側には、巨大な姿見がある――が、白く濁って鏡の役割を果たしていない。
良からぬオタノシミ目的以外で、入浴する自分を眺めるためのモノだとしたら、彼女は随分なナルシシストだ。
「――何だかよく分からんが、順を追って話せ。ここは何処で、どうして俺はここにいる?」
「うっ……あたしは、ジャンヌ。ここは……死霊の森の奥地にある、あたしの住処」
「死霊の森?」
なんだそりゃ。B級ホラーの舞台かよ。
「次の満月の夜、ワルプルギスがあるから、清らかな乙女の生き血が必要だったの……」
「……えーと」
大丈夫か、この女?
「そこの『ヤヌス鏡』に、『この世で一番美しく、まだ男の穢れを受けていない者を』って願ったら、あなたが映ったのっ!」
ま……何だな。俺には男食の趣味はねぇし、鏡は嘘は吐いていない訳だ。
「苦労して連れて来たのに、男だなんて詐欺だわぁ……あーん!」
ジャンヌはまた泣き出した。情緒不安定な女だな。
……それにしても。
ここまでで分かったのは、この女が鏡を使って俺を連れて来たってことだが。
「『ワルプルギス』か……あんた、魔女か」
ブラウスのボタンを嵌めながら訊くと、ワンピースの袖口で涙を拭く手がピタリ止まった。
「……っく。よく知ってるわね、人間」
「デビッドだ。デビッド・レスター。乙女を浚って、饗宴の肴にでもするつもりだったのか?」
「違うわ。ワルプルギスで魔王様に選んでいただけるように、美しさを得ようとしたのよ」
ワルプルギスは魔女達の宴。悪魔を召喚し、乱交に耽ると聞く。
「ふん。そのままでも美しいと思うがね」
「――ま」
彼女の頬がパッと染まる。何だ、可愛いところもあるじゃねぇか。
「それじゃ、俺は用無しなんだろ。元の場所に還してくれ」
すぐ横の鏡を顎で示す。生娘のように上気していた彼女の顔が、再び萎れた。
「……出来ないわ」
「あん?」
「出来ないの。満月が終わったから、次の満月まで鏡を動かす力が無いの」
「マジかよ」
魔女の力の仕組みには詳しかねぇが、少なくとも1ヶ月はここにいなきゃならねぇってことか。
まぁ、久々の旅行みたいなもんだ。せいぜい、この風変わりな場所をだな……。
「それに、鏡には連れて来る力はあるけど、還す力は無いのよ」
「――ちょっと待て」
呑気な思考にブレーキがかかる。この訳の分からない場所から、還れない?
目の前が暗くなる。
「ごめんなさい。あなた、この館から出てっていいわ。本当は秘密を知られた者は生かしておけないんだけど……今度のことは、あたしの手違いだし」
「待て!」
還れない上に、出て行けだと?
「嫌ーな予感がするんだが、ここにインターネットはあるか?」
「え……?」
おい! そこでキョトンとするのは、止めてくれっ!
「テレビは? スマホは? 電子レンジは?」
「な、んの……呪文?」
うわ、やっぱりだ! ヤバい、ヤバい展開じゃね?
背中に嫌な汗が滲む。ちょっとしたパニックになりながら、俺は思いつく単語を並べていった。
「冷蔵庫! 自動車! 航空機! コンビニ! レトルト! ICカード! 知ってる物は?!」
呆気に取られたジャンヌの顔を見て、絶望が訪れる。思わずガックリと肩を落とした。
「あの……何だか、ごめんなさいね」
気遣う白い指先が、俺の膝に触れる。
「――いつだ?」
落ち込んでも、何にもならねぇ。割り切りの早さも、俺の美点だ。
「現在は、何世紀なんだ?」
「あの……えっと」
そういう概念は、ここには無いのか?
「西暦は、何年だ」
「あ――!」
やっと共通の知識に行き当たったらしい。ホッとしたのも束の間、ジャンヌは恐ろしい数字を口にした。