深紅が満ちる
港湾を管理する灯りが、ゆっくりと周囲を動いている。時折、沖を行く船に向けて、低く長い警笛が響く。
「じいちゃん、ここは?」
「始まりの場所だ」
プリマス港。エミリアと共に降り立った夜が、昨日のことのように思い出される。あれから、既に1世紀流れた。愛しい彼女は俺の血肉に変わったが、現在も身体の隅々に息づいている。
「始まり?」
「ああ。お前には、我が一族の歴史を話しておかねばならん」
倉庫群の外れに着地した俺達は、翼をたたんで瞳から色を消し、桟橋方向にゆっくりと歩き出した。
まだ夜は浅く、港では貨物の積み降ろし作業が行われている。
俺は、デビッドの母の故郷で生まれ育ってから、一族を増やすためにイギリスに、更にこの国に渡ったことを話した。海上には月が掛かり、墨のように淀んだうねりの表面を乳白色の帯が千々に流れている。あの船上から眺めた、シルクの如く甘く凪いだ海面には遠く似つかないものの、香る潮風は時代を超えて繋がっているような錯覚に陥った。
隣で俺に眼差しを向けるデビッドは、特別興味を惹かれてはいないようだったが、それでも大人しく聞いていた。
「我々がどこから来たのか、何故人間とは異なる存在なのか、疑問は尽きぬ。しかし、我が一族を絶やしてはならん」
「分かった」
使命という皮を被った運命を、余りにもあっさりと受諾して、デビッドは身体ごと真っ直ぐに向き合い、俺を見上げた。
「じいちゃん、今夜は狩りを教えてくれるんだろ」
渇望に突き動かされるでも、その身に眠る能力を徒に試そうと傲るでもなく、彼は必要な学びとして、糧を得る手段を体得しようとしている。年齢にそぐわない落ち着き払った様子は、レスター一族の開祖の片鱗を感じる。
「いいだろう。目を閉じて――頭の中を空にしなさい」
彼は素直に従った。途端、周囲の空気がピリッと変わる。身体の深淵に押し込めている狩り手としての感覚が解放され、鋭く研ぎ澄まされていくのが伝わる。
余計な情報をもたらす視覚を遮断すると、一点の曇りもない水面の如く、ピンと張った蜘蛛の巣の如く、全身がアンテナになる。風の流れに運ばれる、息づかいや声。潮の匂いの中に混じる、人肌の香り。温かな糧を湛えた獲物の存在が読み取れるのだ。
「……どうだ。若い女が2人、東から近付いて来る。分かるか」
デビッドは小さく頷いた。目を閉じていてもなお、瞼がほんのりと紅い。
狩りを教えるのは初めてではない。子ども達にも同様に施してきたが、まるでモノが違う。秀逸な潜在能力に心が奪われた。
「場所は、見えるな?」
「……うん」
いずれ、目を開けたままでも感知出来るようになる。泳ぎ方や飛び方と同じで、これも一度コツを掴むと造作もない。
「行くぞ」
肩をポンと叩いて、俺達は歩き出す。倉庫の軒下、月影を味方に付けて、暗がりを縫うように滑り込んでいく。
「やだ、マギー、あんた酔い過ぎだわ」
「いいのよぉ。どぉせ、帰ったって、アイツはいないんだからぁー」
ブロンドの女が、フラフラと覚束ない足取りで進む。危なっかしい様子に苦言を呈しながらも、ブルネットの女が付き沿っている。
街灯も疎らな倉庫群だが、少し歩くと波止場の周囲にはレストランもある。彼女らは、恐らくその辺りから来たのだろう。
「次の角だ――来い」
短く言い置くと、俺は疾風に身を変え、彼女らの進路に先回りする。一瞬遅れて、デビッドは駆けてきた。
「ヒャッ?!」
「マギー? 何なの、重っ……!」
一陣の風が彼女らを取り巻く。実体化する前に、酔ったブロンド女の首筋を指先で触れた。瞬時に彼女から力が抜け、支え切れなくなったブルネットの女ごと、ドサリと路上に倒れた。
「えっ! ち、ちょっと、どうしたの、マギー?」
ブルネットの女は、昏倒した友人の下敷きになり、焦っている。
「どうされましたか、お嬢さん」
「キャッ?」
「大丈夫ですか?」
「えっ、あっ、と、友達が酔ってしまって……」
アスファルトに横たわった女は、首を捻って俺を見上げた。青ざめた顔色が、羞恥に赤く染まる。相手が老人と見て、警戒が薄らいだのだろう。
手を差し伸べると、大人しく握ったが、ハッと驚愕の色が差した。俺の手が、氷のように冷えているせいに違いない。それでも、失礼を口には出さず、彼女は俺の手を借りて、友人の下から這い出した。
「ありがとうございます……」
握られたままの右手を気にしつつ、彼女は頭を下げる。微笑んで頷くと、俺は遅れているデビッドの気配を探した。
「いえ。――デビッド、まだか!」
全く。たった5区画くらい、走っても付いて来られるだろうに。
「じ、じいちゃん、さっきの、教えておいて、くれよなっ!」
風に身を変える術を知らない彼は、息を切らしながら、ようやく我々の元にたどり着いた。
「えっと……すみません、あの、もう手を」
ブルネット女は事態に戸惑いながらも、まだ右手を握られていることに不安気な眼差しを返した。
「お前が遅いから、余計なことをせにゃならん。息は整ったか」
彼女はデビッドの獲物だ。逃がす訳にはいかない。
「あの、離していただけませんか」
無視されていることに腹を立てたようで、女の口調に苛立ちが混じり出す。
「首のポイントが見えるか? 脈打っているだろう」
捕らえられた魚が、まな板の上でいくら暴れたところで、もう遅い。俺は構わずに、隣のデビッドに問いかけた。
「……うん」
一度引いていた能力の波が、高まりに転じる。呼応して、瞳に紅が点る。
「ちょっと! 聞いてる?! いい加減、離してよっ!」
振りほどこうとして、びくともしないことに焦り、いや、恐怖に駆られ始めたらしい。女がヒステリックに拒絶を示す。
「右手の指先に集中して。そうだ。熱を吸い取るイメージで、軽く触れるだけでいい」
レクチャーを聞きながら、デビッドは俺の前に進み出た。集中している。
「嫌……何?! 何なの、その子……」
女の白い肌が、彼の瞳に照らされて、暁の色に染まる。強張り、怯える彼女は、身体を震わせた。
「やだ……化け物っ! 来ないで……離して……いやあああっ!」
ガクン、と右手が重力に引かれ、女は静かになった。
爪を立てて食い込んだ指を外して、握手を解く。人形と化した女が2人、路上に並んだ。
「触れた場所に食い付けばいい。後は――分かるな?」
デビッドはコクンと一度頷くと、足元に崩れた女の背後に回り込んで膝を付いた。そして、少年の身体に不釣り合いな怪力で、女の上半身を起こすと、しっかりと抱え込んだまま、襟元を左手で引き裂いた。少年ながら立派な犬歯を剥き出して、彼は違うことなく生命のポイントに噛みついた。
俺を介在しない直接の補食を、彼は何度も経験しているが、大人1人分の養分を取り込むのは初めてだ。不足の事態に備え、俺もブロンド女を片付けた。
ー*ー*ー*ー
滞りなくブルネットの女を平らげたデビッドは、紅い瞳のまま、路上に座り込んでいた。
「……じいちゃん」
両腕を抱えた彼は、ビクンと身を震わせると、不安気に俺を呼んだ。
「どうした」
「身体が、熱い」
「養分が回っているんだ。そのうねりを抑え込まにゃならん」
「苦し……」
燃えるような瞳をギュッと閉じるが、ぼんやりと身体全体から湯気のように紅い光が滲む。
かつて故郷の村に居た頃、俺も村長に教えられた。飢えによる焼け付くような渇望も、過剰な養分による激しい力の昂りも、どちらも手なずけることが出来なければ、人間社会では生きていけない。
「……あぁ――ぅぐっ」
「うねりが高まるタイミングで、身体の芯に押し込めろ」
「くっ……!」
ビクンと何度か痙攣のようにのたうつと、彼は路上に崩れた。可哀想だが、何も手伝ってやることが出来ない。こればかりは、独りで乗り越えなくてはならない。
女達の遺品をひとまとめにして、建物の陰に押し込む。それから、デビッドから少し離れた縁石に腰を下ろした。倒れている身体を包む放射熱が、ゆっくり引いていく。彼に備わっている本来の力が、養分を取り込み、蓄えに変換しているのだろう。
やはり母方の血筋なのか、一族の誰よりも養分を吸収するスピードが早い。
「――じいちゃん」
捕食から15分程で、デビッドは目を覚ました。ムクリと起き上がり、深く息を吐いた。
「お……」
思わず、言葉に詰まった。なんて澄んで深い紅だ――こちらを見上げる彼の瞳があまりに美しく、同族ながら魅了された。
「じいちゃん?」
「いや……収まったな?」
「うん。身体は熱くない」
「よし。家に帰るか」
翼を広げると、俺達は倉庫街から飛び立った。北への帰路を、金の光を放つ月が照らす。地上に星を散らしたような町明かりと相まって美しい景色だが、やはりエミリアと眺めた、あの船上から見た象牙色の月と乳白色の海原には敵わない。
いや――あれは隣にエミリアが居たから、殊更美麗な印象なのだろう。彼女は俺の中に息づき、彼女の魂が一族の中に浸透しているとはいえ、未だに実体の彼女に会いたい。恋しくて恋しくて、堪らない。
デビッドもいつか、そんな恋をするのだろう。俺の母親と、数日だけの甘くて熱く、切ない恋を。