家族の食事会
経営難を乗り切るために、貯蓄を切り崩し、不動産を手放した。同業者の中には、工場を閉鎖する者も少なくなかったが、それだけは避けたかった。弱者を切り捨てるのは簡単だが、社会的信用もまた容易く失うことになる。
実業家として如何に成功しようと、一度否定的に捉えられると回復は困難を極める。特に、他所の土地から入ってきた者に対する反応は、イギリス時代に経験済みだ。移民の国アメリカとはいえ、人間の猜疑心を甘く見てはいけない。
レスター一族が人間であれば、多少非情な振舞いもいとわなかったろう。むしろ、経営者としては、沈みかけた船で心中するよりは、精鋭を残して「整理」すべきなのだ。
しかし、我々は表向きの実業家の顔の他に、後ろ暗い裏の顔を持つ。すなわち、人命を糧として生きる種族だ。人間の社会に根を下ろし、疑いの眼差しを向けられぬよう家族を増やすには、社会の中で信用を築かなくてはならない。
ライバル工場の閉鎖に伴い、路頭に迷った失業者が増えたことは――ある意味、ラッキーだった。失業者一家がまるごと消えても、不自然ではない状況だからだ。
『父さん、マーカスさんのご家族が――倉庫に着きました』
オークのドアをノックしてから、長男のティモシーが社長室に顔を出した。
エミリアとの間に生まれた最初の子どもは、すっかりたくましい青年に成長していた。今では、俺の片腕として工場を切り盛りしているし――裏の仕事でも、家族のために良く働いてくれる。なかなか加齢が外見に現れない俺達は、父子というよりは、少し歳の離れた兄弟のようだ。
『子ども達は?』
『スティーブが連れて行きました』
『よし。行くか』
夜も深まった23時。ベストの上に漆黒の上着を羽織って、レスター商会を出る。重い雲の隙間から、時折満月が覗く。羽を広げれば5分とかからずに着く距離を、徒歩だと20分はかかる。イースターが近い早春とはいえ、夜風は涼しい。
『お前も、そろそろ家族を作る気はないのか』
隣に並んだ息子は、困ったように眉を潜める。艶のある闇色の髪と高い鼻、尖った細い顎は、間違いなく俺の血筋だが、緑がかった碧い瞳はエミリア譲りだ。
『自信がないんです』
彼は自嘲するように唇を歪めた。
『自信?』
『人間の伴侶を持つということは、僕や家族の秘密を明かさなくてはいけないでしょう? 母さんのように受け入れて――子を成してくれる女性を見極められるのか……もし秘密が漏れてしまったら、家族を危険に晒してしまう。それが恐ろしいんです』
彼は、生真面目で慎重な性格だ。初めての子どもということもあって、エミリアと2人、やや過保護に扱ってきた。何より、俺達が人間とは違う存在である事を、幼少の頃から強く教え込んできた。その影響は否めない。
『母さんは、特別だからなぁ。彼女のような女性は、なかなかいないぞ』
一族を増やすためとはいえ、他の女に産ませた子どもを引き取り、我が子と同様に愛情を注いでくれる女性は、希有だろう。レスター家の10人に及ぶ子ども達の半分は、彼女と血の繋がりがない。しかし、分け隔てなく育てられたお陰で、きょうだいとして何のわだかまりもない。この点、俺は彼女に頭が上がらない。
『お前は、もう少し遊んだ方がいいな。伴侶の前に、もっと色んな女を知るといい』
『父さん……』
『俺達の寿命は長いんだ』
息子の背中をポンポンと叩く。彼は困惑した眼差しのまま、苦笑いした。
道の奥に大きなシルエットが見えてきた。目的地の倉庫だ。ここには、工場で生産したイギリス向けの製品が、出荷出来ずに積まれている。
大陸封鎖令からしばらくすると、失業を切っ掛けに街を離れて、南部や西部へ向かう人が現れた。レスター商会は、物流用の大型馬車を所有しているが、稼働率が下がったため、人の移動を請け負っていた。中には夜逃げ同然で街を捨てる者もいて、そういった依頼を裏ルートから秘密裡に受けてもいた。
今夜のマーカス一家も、イギリス向けに革製品の製造販売を手掛けていたが、先頃倒産した。家も工場も失い、従業員に払うはずの僅かな給料を手に、南部へ逃亡する予定だ。
マーカス兄弟の夫婦2組と子ども達、総勢8人が、僅かな手荷物を持って、倉庫で待っていることだろう。
『父さん、兄さん』
俺達の姿を認めた次男のスティーブが、倉庫のドアの前で手を振っている。
『皆の様子は?』
『ええ。食堂の準備は出来てます』
サラサラの金髪に近い栗毛を揺らして、スティーブは快活に笑った。待ち遠しかった――そう言わんばかりに、琥珀色の瞳が輝いている。
『何だ、意地汚いヤツめ』
上機嫌は、飢えの証か。ティモシーは、鉄のドアを開けた弟を、たしなめるようにひと睨みする。
『まぁ、3ヶ月振りだからな』
仄暗い通路に3人の足音が響く。積み上げられた資材や木箱の横を通過すると、その先から――。
『父さん!』
『パパァ!』
幼い2人、ブルネットのジェームスと、茶色の巻毛が可愛らしいジェニーが、パタパタ駆けて来て、俺に飛び付いた。両腕にそれぞれ抱き抱え、更に進む。
7男3女、レスター家の全員が倉庫の中央に集っていた。
『アルバート』
末っ子のクリストファーを抱いたエミリアが、微笑んで迎えてくれる。子ども達を下ろし、彼女とキスを交わす。
中古のシーツを10枚重ねた床の上に、当主のジェレミー・マーカス氏を始めとした家族全員が横たわり――寝息を立てて、深い眠りの底にいる。エミリア特製の温かいスープで、たっぷりと腹を満たしたようだ。
彼らは外套を脱がされ、既にシャツやブラウスの襟元が緩められている。スティーブを中心とした子ども達の下準備は、回を重ねる度に手際の良さを増すようで頼もしいことだ。
『では――始めるか』
上着をティモシーに預け、家族をぐるりと眺める。年齢順に横一列に並んだ彼らは、どの顔も活き活きと期待に満ちた表情で頷いた。
俺は、シーツの上に踏み出す。マーカス家の中で、一番生命力の濃い――20歳になったばかりという長女の側に腰を下ろした。両肩を掴み、グイと上半身を引き起こす。背後から彼女を抱くように支え、右手で首元をしっかりと握る。はだけたブラウスの襟を引き裂き、その柔らかな白い肌の下で脈打つ血管にガブリと犬歯を突き刺した。
『――あぅ……』
熟睡の中にありながら、死に至る官能的な刺激を受けた彼女は、小さく呻き声を上げた。ビクン、ビクンと全身が痙攣を始め、ダラリと下がった両腕は小刻みに震えている。
若く甘い体液が溢れ、全身をとろかすような快感が駆け回る。瞳に赤い光が点り、その色が濃くなるにつれ、触れている肌が瑞々しさを失い、カサカサとひび割れていく。やがて彼女は痙攣することもなくなり、息絶えた身体は末端からボロボロと崩壊した。吸血から5分と経たず、彼女の存在は塵と消えた。
俺は一息吐き、自らシャツの襟元を開ける。
『――エミリア』
赤い瞳を向けると、妻は頷いて、腕の中のクリストファーを渡してくれた。来月5歳になる末息子は、大きく見開いた愛くるしい青い瞳で、俺の首筋をジッと見詰めている。
『クリス』
優しく名を呼んで、息子の顔を首に近付けてやる。
――ガブリ
ピリッとした刺激が頸動脈を突き破る。幼い犬歯の感触がくすぐったい。まるで赤子が母親の乳房に吸い付くように、俺の肌にピタリと唇を付けた彼は、本能の命じるままに吸収したばかりの甘露な糧を奪っていく。
小さな身体は、すぐに微熱を帯びた。流れ込んだ初めての養分が、彼の中の隅々まで行き渡り、生命の造りを変えているのだ。
コフッ、と1つ咳き込んで、唐突に犬歯が離れる。噛み付かれた首元には、赤い傷痕がくっきりと見て取れるが、そんなものはものの数秒で塞がるだろう。
『良い飲みっぷりだ』
髪をクシャクシャと撫でてやると、俺を見上げて満足気に微笑んだ。トロリと潤んだ眼差しは、すっかり茜に染まっている。初吸血を済ませ、彼は名実共に俺の一族に加わったのだ。
クリスを抱いたまま、立ち上がる。エミリアを筆頭に、家族全員が幼い仲間の額へ頬へと祝福のキスを落とした。無垢な幼子は、瞼を薄紅色に光らせたまま、もはやウトウトと夢の中にいる。
『ティモシー、後は任せるぞ』
『はい、父さん』
残りの宴は、長男に託して問題あるまい。
エミリアと共に、俺は倉庫の奥にある事務所に入った。ここは床が高く、アザラシの毛皮を敷いたソファーもあって暖かい。
仮眠用の毛布にクリスをくるむと、エミリアと並んでソファーに身を沈める。たかが5歳児の本能とはいえ、一度収めたばかりの養分を吸い出されるのは、身に堪える。
『ご苦労様、アル』
『ああ……ありがとう』
彼女の指先が頬に触れ、顔を向けると、慈愛に満ちた眼差しが待ち受けていた。互いに身を乗り出して、熟睡中の息子越しに、唇を重ねる。
『こうしていると、あの船上の夜を思い出すわ』
エミリアは穏やかに微笑んで、左手のリングを愛しげに見詰めた。まなじりに刻まれたシワは深まったけれど、相変わらず美しい。
『本当に、大家族になったわねぇ』
『君のお陰だよ』
俺だけ乗り出して、もう一度深く口付ける。
愛情と変わらない深さで、心から感謝している。共に大家族を作ってくれたことはもちろんだが、今夜のような儀式や食事会にも同席し、獲物に睡眠薬入りのスープを振る舞ってくれる。彼女の存在は、獲物に安心感を与える。スムーズに事を運ぶために、どれだけ貢献してくれているか、計り知れない。
『この子が大人になる頃には……すっかりお婆ちゃんだわね』
クリスの柔らかな髪を静かに撫でながら呟く。横顔に憂いの色はない。それでも、俺の胸は締め付けられた。
最愛の人の時間だけが、止められない――。
子ども達は、どの子も優劣なく可愛いし、大切な同族だ。彼らとは、この先100年以上、共に生きていくだろう。
けれども、エミリアは特別なのだ。どれ程子孫が増え、彼らに囲まれていようとも、彼女以上にかけがえのない魂は存在しない。
生まれ故郷の東欧の村にいた吸血族の族長なら、人間を仲間にすることも出来る。俺に、その力はない。分かり切っていたことだけど――砂を失っていく砂時計を側で見守ることしか出来ない自分が、情けなくて歯がゆくて苦しい。
『……アル』
いつの間にか、エミリアのエメラルドの瞳が、穏やかに俺を捉えていた。
『約束、覚えているでしょう? 私は……いつでも構わないわ』
初めて抱いた夜、思いがけず告げられた愛の誓いは、彼女の人生の峠が近づくにつれ、年毎、重い楔になっている。
『エミリア』
『お願いだから、私を独りにしないでね。ちゃんと貴方の中に迎えてくれないと、恨むわよ?』
母になっても生涯「人間」でしかいられない彼女が、吸血族に加わる唯一の方法が――俺の糧になること、なのだ。
堪らなくなって、息子の身体ごと、彼女を抱き締めた。
『アル――クリスが起きちゃうわ……』
腕の中に閉じ込めたのは、泣き顔を見せたくなかったからだけど――明るく俺を諌める彼女の声も、涙に滲んでいた。