新しい故郷
メイフラワー号が移民を運んで以来、多くの人々が行き来してきた海の玄関口であるプリマス。港では、下船した人々を出迎える親類縁者があちこちにいた。更に、宿屋の下働きと思われる少年達が、旅人を確保するために声を上げている。
桟橋を渡った俺達は、そんな少年の1人に付いて行き、町の中心地にある宿屋に案内された。兄弟という設定で宿泊名簿に名を連ねると、2階の角部屋に通された。
明日、馬車を手配して北に向かう予定だ。今夜を乗り切れば、エミリアの追っ手に見つかることはないだろう。
『夕食の間、気を付けて』
緊張感を保ちつつ、彼女は笑顔で頷く。
階下の食堂に行くと、男女が2組と中年の男性が1人――宿泊客とおぼしき人々が、既にテーブルに着いていた。
夕食は、他の客が食べているものと同じメニューが運ばれてきた。ライ麦のパンと豆のスープ。メイン料理は、店主の自慢だというローストチキン。付け合わせのマッシュポテトを口にすると、母がよく作っていたポテトステーキを思い出した。あれは、マッシュポテトの中に細かくカットした玉ねぎとキャベツ、ベーコンを混ぜ、塩胡椒で味付けしたタネをフライパンで焼いたものだ。『レスター家伝統の料理なのよ』嬉しそうに笑いながら、母は俺にも作らせ、味を覚えさせた。
芋のルーツは新大陸だから、やがて俺がこの地に来ても作れるように仕込んだのかも知れない。
『旦那方、酒はたしなまないんですかい』
食事の最後に、アップルパイをテーブルに運んできた青年が、俺達の顔を覗き込むようにして訊いてきた。
『お勧めがあるのか?』
『アメリカじゃ、アップルジャックが一般的ですぜ』
20代半ばくらいに見える男は、日焼けしたソバカス顔をニカッと崩した。
『アップルジャック?』
『ヨーロッパ風の言い方だと……アップルブランデーって言うんすかね。リンゴで作った蒸留酒でさ』
『悪くないな。……飲めるか?』
俯き加減のエミリアだったが、問いかけると小さく頷いた。
『じゃあ、貰おうか』
『へい、まいど!』
愛想笑いを残して、彼は踵を返した。
リンゴはヨーロッパから持ち込まれた作物だが、痩せた新大陸の土地でも育ったことから、開拓者の移動に合わせて広がったという。今や、アメリカの食卓には欠かせない、国民的作物となった。
程なく届けられた琥珀色の液体は、スッキリ爽やかな青リンゴに似た風味だった。気に入ったので、エミリアがグラスを空ける間に、俺はもう一杯飲んだ。
そうして食堂を後にして――すっかり寛いでいた22時過ぎ、その男が俺達の部屋にやって来た。
ー*ー*ー*ー
『レスター男爵ですね』
しつこいノックに、仕方なくドアを細く開くと、食堂で見かけた中年男が立っていた。
『貴方は? こんな時間に訪ねなければならない用件でも?』
皮肉を込めて、彼のダークブラウンの瞳を射下ろす。船の同乗者の中には、俺の名を知る者がいてもおかしくない。
『パーシー・コーエンと言います。廊下では……聞かれて困る話かと思いますがね』
口髭を綺麗に切り揃えた40代くらいの男は、10cmはあろうかという身長差をものともせず、むしろ挑むような強い眼差しを返してきた。
『……手短に願いましょうか』
扉を引いて、中に通す。コーエンは食堂で見かけた時と同じ、黒いスーツ姿だ。
『お連れのご婦人は……マーシャル伯爵のご令嬢ですな?』
エミリアは部屋の奥のベッド潜り込んでいたが、その膨らみにサッと視線を投げると、彼はズバリと言い切った。
『あれは、弟です』
負けずに断言する。男の話の意図を確信するまでは、しらを切り通すまでだ。
『あんたも――魔女に魂を奪われましたか。大人しく南部に嫁げばいいものを』
やけに事情に明るい。エミリアがアメリカに渡った経緯まで知っているとは――何者だ?
『……そうか、コーエン。貴方は、4年前の』
指摘された途端、男の瞳に憤りの炎が揺れた。
『甥は、理知的な……前途ある青年だった。あんな血生臭い闘いを選ぶようなヤツではなかった。彼女に惑わされるまでは……!』
エミリアを巡る決闘で、命を落とした当事者の親族だ。厄介な存在に見つかったものである。
『貴方は――単に忠告に来た訳ではなさそうですな』
水を向けると、男はフッと息を吐き、私情を抑えたようだった。
『流石、ビジネスに長けたお方だ。話が早くて助かります』
忌々しげにベッドを一瞥してから、コーエンはニヤリと口の端を歪めた。
『ここから10軒ほど離れた宿屋に、彼女を探している男達がいます。私が親切心を発揮しても――構やしませんかねぇ?』
目的は強請か。密告されたくなければ、口止め料を寄越せと言うのだろう。
『……少し待て』
部屋の中央にあるチェアを示す。コーエンが勝ち誇ったように口髭を撫でながら、腰を下ろした。
俺はベッドサイドに置いた自分のトランクから、金貨の入った麻袋を1つ、掴む。ジャラリと重い欲望の音がする。
不意に視線を感じて瞳を向けると、涙を一杯に溜めたエメラルドの瞳が、シーツの隙間から見詰めている。コーエンには見えない角度で微笑み、小さく囁いた。
『大丈夫。耳を塞いでおいで』
それでも不安気な眼差しが返ったが、俺は表情を引き締めると、コーエンの元に戻った。
期待に満ちた視線が、麻袋に絡み付く。
『ひと財産築いた男爵様は違うねぇ』
『幾らだ』
『……ケチな話は、無しにしましょうや』
業突く張りが。麻袋まるごとせしめる魂胆らしい。
『中身を改めてくれ』
チェアの横の円テーブルに麻袋を置く。
ゴクリ、男の喉仏が上下した。ヤツは身を乗り出すと、両手で手早く麻袋の口紐を解く。現れた黄金の輝きに、ニタリと唇が緩んだまま、チャリチャリとテーブルの上に金貨を積み上げていく。
夢中になっている男の側から、そっと気配を殺し――背後に回る。
『コーエン』
『あ――えっ? ヒッ?!』
名前を呼ばれて反射的に顔を上げた。その一瞬を逃さずに、大きく広げた右掌で、背後から喉を掴み、身体ごと持ち上げる。
『あっ……あぐっ……ぅが……!』
暴れた拍子に、チェアもテーブルも倒れ、床に金貨が散らばった。
もがく男の左手が、俺を掴もうと伸ばされたので、ヤツの腕をグイと捻り上げると、肩の間接が砕ける音がした。声にならない叫びを――上げようとするも、締め付けられた喉からは、空気が抜けるような鈍い音しか漏れない。
床から浮かされた足が、それでも抵抗をみせてバタついている。
『相手が悪かったな』
肩が砕けてダラリと下がった左の襟元を引き裂く。締められ続けた首筋には、血管が浮き出ている。
『アルバート!』
左の肩口から覆い被さるように顔を近付け、剥き出した犬歯を頸動脈に突き立てようとした時、エミリアの悲鳴が上がった。
目を上げると、コーエンが右手を懐に忍ばせ、拳銃を握ろうとしているのが見えた。
手首を掴み、一気に握り潰す。骨ごと砕ける音に混じり、ゴトンと拳銃が床に落ちた。グゥ……という呻きが低く鳴る。
再び命の源を確認すると――舌舐めずりをして、今度こそ食らいついた。甘い体液が溢れ出し、コーエンの身体がビクリ、ビクリと痙攣している。その律動が、なおのこと俺の興奮を掻き立てる。
やがて――木枯らしのような微かな風が、ヒューと耳に届いて、饗宴は終わりを告げた。
握る掌の中で、男の首がバラバラと砕け出した。赤い液体に染まった犬歯を、かつて人肌だった干物から抜くと、その衝撃だけでコーエンは霧散した。後には、ヤツが身に付けていた衣服がパサリと床に蹲った。
『……フゥ』
活力が全身に染み渡る。心地好さに痺れるものの、やはり中年男の血液はコクとまろやかさに欠ける。まぁ、個人的嗜好をどうこう言う状況でもないが。
倒れたテーブルとチェアを起こし、散らばった金貨を拾い上げる。コーエンの拳銃だけ、麻袋に並べてテーブルに置くと、残ったヤツの抜け殻をひと纏めにした。厄介だが、どこかで処分せねばなるまい。
『――アルバートっ』
シーツをはね飛ばして駆けてきたエミリアは、泣きながら抱き付いてきた。瞳から溢れた光が、彼女の姿を赤く照らす。
『さっきは、ありがとう。助かったよ』
きつく俺に密着している、彼女の髪と背中を撫でる。彼女はフルフルと、首を激しく横にした。
『私のせい……! ごめんなさい、アルバートっ』
涙声が返る。コーエンを消したのは、俺の判断なのだが。どんな言葉でなだめようかと考えあぐねる一方で、吸血の場面を目撃してもなお、俺を拒絶しない彼女に深く安堵していた。
ー*ー*ー*ー
エミリアと住み着いた北の町は、最古の大学が設立された学術都市だ。折しもアメリカでは、紡績業を中心に産業革命が始まり、この町の郊外にも続々と工場が建設された。国際貿易の拠点としても発展し、その後長い間、この町はアメリカ経済を牽引することになる。
俺は、工場経営の傍ら、イギリス時代に培ったノウハウを活かして貿易会社を企業した。生活の基盤が安定するのに比例して、家族も順調に増えていった。
19世紀を直前にして、時代は大きく動く。
舞台は、フランス――1789年に革命が勃発した。財政難と凶作、重税に対する人々の怒りが爆発した出来事だといわれるが、原動力になったのは、アメリカ独立に触発された、当地のブルジョア達だった。彼らには、国民のための国家を作り上げるという希望があったのだ。
かの国始め、ヨーロッパの情報は、新大陸にも逐一伝えられ、動向が注目されていた。
しかし、レスター家に打撃を与えたのは、革命から約15年の後、新たな時代の風雲児として「皇帝」を名乗った男――ナポレオン・ポナパルトの登場だった。
独立を果たした後のアメリカ経済は、大陸各国との貿易に支えられていた。しかし、ナポレオンがイギリスの国際的孤立を狙って発令した「大陸封鎖令」によって、イギリスとの船の往来が禁止された。
我が社――レスター商会は、かつてのツテを活かし、交易相手の8割がイギリスの会社だったのである。