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未来へ繋ぐ使命

 ベランダのガラスに、薄く自分自身の姿が映る。艶やかだった闇色の髪はシルバーグレーに退色し、張りがあった肌はくすみ、皺が刻まれて久しい。


 次の誕生日で350歳になる。300歳を過ぎた辺りから老化が始まった。普段より頻繁に血を補給したが、転がり出した石の如く、老いていく身体の変化を止めることは出来なかった。そろそろ、俺の蝋燭も燭台から外される時が近いのだろう。


 襟に留めた金色のタイピンに目を向ける。

 楕円形の中に紋章のように刻まれた文字――「(ジャンヌ)(リンデマン)」。亡き母のイニシャルが彫られた凹凸を指先でなぞる。



『アル……アルバート。あたしの側に来て』


 晩秋のある夜。ベッドに伏した切りになった母が、皺だらけの枯木のような腕を伸ばして、俺を呼んだ。


『母さん』


 ベッドサイドの椅子に腰掛けると、彼女は微笑んで頬に触れてきた。それから、左の薬指の指輪を抜き取り、俺の掌に乗せた。


『これを――貴方にあげるわ』


『え……だって、これは』


 母のイニシャルが刻まれた特別な指輪だ。これまで生活のために、彼女は幾つか所持していた宝飾品を手放してきた。そんな中でも、決して外すことなく大切にしてきたのだ。


『いいから。持ってなさい。貴方の寿命は分からないけれど……いつか、遠い未来で、貴方は父さんに会うはずだから。これは、道標になるわ』


 静かな口調で、言い聞かせるように語った――それは、俺には衝撃的な話だった。


『どういうこと?! 俺に父親は居ないって、言ってたじゃないか』


 澄んだ冬空のようなアイスブルーの瞳を細めると、母は乾いた笑いを溢した。


『あたしは魔女だけど、父親無しで子どもは作れないわよ』


 それから、飛び切り優しい笑顔を咲かせた。


『貴方は、あたしが心から愛した吸血鬼の子どもなの、アルバート』


 ずっと納得出来なかったことがあった。唯一の血縁者である母には無縁の「吸血」という渇望が、なぜ俺だけに訪れるのか。

 俺達が暮らすこの村には、確かに吸血の一族も存在する。しかし母の故郷は、幾つも山を越えた西の異国だと聞いていた。

 気も狂わんばかりに身を苛む、強烈な衝動への対処方法を――俺は母ではなく、村長(むらおさ)から学んだ。いや、学ばさせられたのだ。人間社会に溶け込んで、上手く生きていくための術として。


『父さんは……どうして居なくなったんだよ? どうして、母さんを独りにしたんだよ?』


 突然知らされた(ちち)の存在を、すんなり受け止められるほど、俺は大人ではなかった。

 指輪を掌の中に握り締めたまま、憤りを吐き出さずにはいられなかった。


 魔族が身を潜めて暮らす村の中にあってさえ、幼子を抱えた母が苦労してきたことを知っている。父親さえいれば、もう少し彼女は楽に生きて来られたに違いない。


『……それは――きっと運命だったのよ』


 雨染みの跡が複雑に模様を描く天井板を、それより遠い何処かを眺めながら、母はフィと真顔になった。


『あの人は、あたしに貴方を与えるために、遠い未来から来てくれたの。たった数日だったけど、本当に幸せだったわ』


『そんな――そんなの、分からないよ』


 俺は激しく首を振る。


『いいのよ、アル。きっと、貴方も大切な女性(ひと)と巡り会えば、分かるわ』


 固く、指輪を閉じ込めた俺の拳に、母の掌がそっと重ねられた。皺の目立つ小さな掌から伝わる温もりの弱さに、ドキリとした。


『共に過ごす時間だけじゃないの。心の深い所で繋がると――それは喩え一瞬でも、一生を満たしてくれる。そういう出会いがあるのよ』


 穏やかな眼差しが、俺の毛羽立った気持ちの隙間に染み渡り、いつしか円やかな優しさに包み込まれていた。


『……会えないのに、母さんは幸せなの?』


 大切な人といつも一緒にいたい。離れることは、幸せじゃない。

 そう信じていた俺は、まだ本当の恋も愛も知らなかった。


『ふふ……当たり前じゃない。父さんは、貴方っていう最高の贈り物をくれたのよ? あたしは家族を貰ったの。あの人とあたしを繋ぐ、こんな素敵な宝物を授かったのに、これ以上の幸せがあって?』


 姿も声も知らぬ、初めて知った父親の存在が、俺の中で確かな礎になる。母が注ぎ続けてくれた惜しみのない愛情は、俺だけでなく、俺と繋がる幻の父親にも向けられたものだったのだ。


『……父さんの、名前を教えてくれる?』


 母は、嬉しそうに瞳を細めた。


『デビッドよ。デビッド・レスター』


『デビッド……レスター』


 言葉を覚えたての子どものように、口の中で名前を繰り返した。


『いいこと、アル。この指輪は、いつか貴方の大切な女性(ひと)に託しなさい。そして、新大陸に渡って、共に一族を作るのよ』


『母さん……?』


『愛してるわ、アルバート』


 求めに応じて身を乗り出し、母とキスを交わした。涙ぐんだ彼女は、微笑みを浮かべたまま、安堵したかのように眠りに就いた。

 それ切り一度も目覚めることなく、息を引き取った。月のないハロウィンの夜だった。


 結局、母は180歳まで生きた。ベッドで過ごす時間が増えてからは『魔力が弱いから短命なのね』と笑っていたが、魔女の生態に詳しくない俺には、その言葉の真偽はよく分からない。


 俺は、使命(ミッション)を得た。遥かな未来で「父親」に出会うため――母さんと最愛の男(デビッド)が出会うための、命を繋ぐミッションだ。母が示した新しい世界に踏み出さなければならない。


 しきたりに従い葬儀を終えると、最低限の身の回り品だけをトランクに詰めて、村を出た。

 大陸の各国が王位継承を巡り混乱する中、社会の安定と経済発展の兆しを見せていたイギリス――大ブリテン王国へ渡った。

 時代は、18世紀に入ったばかりのことである。


ー*ー*ー*ー


 夜明け前――まだ水平線の上に歪んだ月が残る頃、エミリアの客室に荷物を取りに行った。

 ドレスや日用品を一通り詰めたトランクは、3つ。持ち物には全て、マーシャル家の紋章が刻印されている。決して安くはないそれらの嫁入り道具には、伯爵家のプライドが表れていた。


『全部は持って行けない。トランクは1つにしてくれ』


 港には、彼女の嫁ぎ先の従者が迎えに来ているはずだ。その目を逃れなくてはならない。大荷物は目立ち過ぎる。


『ええ。待ってて』


 意図を理解したのか、彼女は頷くと、3つのトランクを開け、中型のトランクに衣類や数冊の本などを詰め始めた。

 思い入れのある品ばかりに違いないが、彼女は潔く取捨選択していく。30分もかからずに作業を終え、トランクを手に俺の部屋に戻った。


『アルバートっ。貴方、太陽は……大丈夫なの?』


 船窓から朝日が部屋の中に差し込むのを見て、エミリアは俺を暗がりに追い立てた。我が身を思っての慌て振りが愛しい。


『好みはしないがね。灰にはならないよ』


 不安気に見上げる白い頬に触れ、そのまま唇を塞ぐ。甘やかな感触が心地好い。


『……良かった』


 淡く色づいた肌に笑顔を咲かせて、エメラルドの瞳が潤む。魅惑的な瞳を覗き込み、彼女の髪を優しく撫でた。


『エミリア。船が大陸に着くのは今夜だ。昼食までは、これまで通り1人で過ごしてくれ。昼食が済んだら、ここに来て欲しい』


『貴方は?』


『食事はいらない。少し眠るよ』


『分かったわ。お休みなさい、アルバート』


 もう一度キスを交わすと、エミリアは出て行った。


 太陽光を浴びても灰になることはない。けれども、日中は感覚が鈍るし、身体がだるい。やはり夜間の方が、俺の時間なのだと思う。

 彼女の香が残るシーツにくるまり――泥に沈むかの如く、深い眠りに落ちた。


ー*ー*ー*ー


 約束通り、昼食を終えるとエミリアが戻って来た。

 俺は自分の服の中から、一番細身の焦げ茶色のパンツとジャケットを取り出して渡した。彼女は着替えると、背中までの長い髪を紐でまとめ、グレーのベレー帽の中に収めた。

 元より小柄なだけに、彼女の外見は、すっかり少年のようである。


『喋らなければ、女だとバレないだろう。くれぐれも声を出すなよ』


 ベレー帽の影に隠れた瞳を覗き込んで、念を押す。素直な彼女は、緊張した面持ちでコクンと頷いた。


『今はまだ、いいんだぞ?』


 プッと吹き出すと、頬を真っ赤に染めた。そんな様子の1つ1つが可愛らしく、愛しい。


 手を引いて、ベッドの上に寄り添って座る。下船までの数時間、太陽の勢力下にある内は、なるべく動かずに過ごしたい。


『故郷を離れた時……こんな気持ちでアメリカに着くなんて、想像もしなかったわ』


 肩に頭を預けたエミリアは、左手の指輪を愛し気に撫でながら、静かに口を開いた。


『そうだな……まさか、生涯の伴侶(パートナー)に出会うとはね』


 肩を抱く手にギュウッと力を入れる。彼女の髪から漂う花の香りも、触れる肌から伝わる温もりも、ほろ酔いに似た安らぎを与えてくれる。まるで、ずっと昔から知っていたかのような気さえする。


 丸い船窓から射し込む明かりが徐々に色づき、飴色から茜色に移ろう。

 やがて部屋に宵闇が忍び込んで来ると、昼間鈍っていた感覚が目覚め始めた。

 闇に親和性のある俺の身体は、水の濁りが消えるように、研ぎ澄まされていく。瞳は、明かりがなくとも室内の隅々が見えるし、耳を澄ませば、壁を越えて近隣の室内や廊下の物音を拾うことも出来る。

 そして、吸血鬼の本能は、隣で微睡むエミリアの体内を巡る、芳しい血液の流れを感じ、ゾクゾクとそそられている。


『……エミリア。そろそろ起きた方がいい』


 額に口づけて、そっと身を離す。俺に光源は不要だが、彼女に不安な思いをさせたくないので、ランプを灯した。


『……貴方の側だと、安心しちゃうみたい』


 彼女はベッドから降りて立つと、恥ずかしそうにジャケットを軽く払う。ベレー帽を直してやる振りをして、唇を軽く奪った。


 ちょうど汽笛が低く響く。港に近づいたのだろう。


『いよいよ、上陸なのね』


 エミリアの瞳に、緊張と期待が入り混じる。


『大丈夫だ。何があっても、俺が守る』


 誓いを込めて、もう一度口づけた。


 30分後――2回汽笛が響いてから、船は新大陸に接岸した。



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