牲は新世界より(4)
ジャンヌは、鎖骨を見せるようにたっぷりと胸の開いた黒いロングワンピースを身に纏った。7分丈の袖は、フワリとドレープが効いて、セクシーなのにエレガントだ。見惚れた視線に振り向いた彼女は、「ワルプルギスに着ていくつもりだったのよ」と頬を染めてはにかんだ。
彼女は次に、本棚の陰から取り出した木箱の鍵を開け、首腕指に付けられるだけの宝飾品を装着した。調合した薬草や媚薬の類いを売って、稼いできたらしい。
俺は、この時代に来た時の衣服を身に着ける。
互いの身支度が整った時、まるで急かすかのようにカラスの鳴き声が小さく聞こえた。
夜明けが近い。そもそも魔力は夜のものだ。強い力が戻ったとは言え、日が昇ってしまうと、元も子もない。
俺達はバスルームに急いだ。
ジャンヌが室内に踏み入った途端、空気がビリッと震え、ヤヌス鏡の曇りがみるみる晴れて綺麗に澄んだ。
指先が鏡面に触れると、オオーン、と遠吠えに似た共鳴音が室内に響き渡った。彼女は目を閉じて、口の中で呪文を唱える。
呼応するように灰色のモヤに似た淀みが現れ、ゆっくりと時計回りに流れ出した。暫く渦巻いた後、ヤヌス鏡は、見覚えのある部屋――21世紀の俺の寝室を映した。
「……デビッド」
サファイアのような輝きを放つ瞳が、俺を捕えて微笑んだ。頷いて、バスタブの中に立ち、ヤヌス鏡へと腕を伸ばす――スッと、水の中に入るように抵抗もなく、指先が鏡の中に消えた。
続けて片足を入れる。靴底に触れる床の感覚はない。体重をあちら側に預けたなら、そのままズルリと落ちそうな気がした。バスタブの中に残した片足に重心を置いたまま、ジャンヌに右手を差し出す。預けた彼女の左手を握ると、互いに確りと力を込める。あちらへと体重を移すと、川の流れに踏み込んだようにザアッと身体が飲み込まれた。あっという間に胸の辺りまで鏡の中に消え、慌てて彼女の身体を引き寄せ――強く引くのだが、彼女の左手は鏡面を越えられなかった。
「ジャンヌ!」
俺は、戻ろうとした。掴んだ左手を起点に、彼女の世界に帰ろうとするけれども――まるで激流の如く、逆らうことが許されない。
「……デビッド」
覚悟していたように、ジャンヌは微笑んだ。鏡に飲み込まれて行く俺の顔に近付くと、甘く切なく唇を合わせた。
容赦ない流れが、俺達を引き裂く。唇が離れ――。
「嫌だ、ジャンヌ――!!」
叫んだが、虚しく、青い瞳が消えた。暗転した空間に視界が慣れると、俺は寝室の床に転がっていた。
ー*ー*ー*ー
どれだけの間、床で呆けていたことだろう。自分の涙など、久しぶり過ぎて、泣いていることに暫く気付けなかった。
もし、現代の何処かに彼女が存在するのなら、足が砕け翼が千切れるまで探し回るのに。あの時代に戻る手段があるのなら、何をなげうっても――レスター家の当主の座すら惜しくはないのに。
「ジャンヌ……」
こんなことになるのなら、彼女を失うのなら、現代になんて還らなくても良かった。インターネットもテレビも冷蔵庫も要らない。あの時代で、彼女と戦乱を掻い潜り、ずっと……命尽きるまで暮らしていきたかった。
――コトン
身を起こした時、小さな音がした。薄暗い中に、鈍く光る塊がある。拾い上げると、見覚えのない金色の指輪だ。ジャンヌが嵌めていたものが抜け落ちたに違いない。宝石は無いが、武骨な楕円形の台座には、印章のような文字が彫られている。目を凝らして読む。これは――イニシャルか?
「……バカな」
雷に貫かれたような衝撃が走り、飛び起きる。俺は、寝室の隣にある物置部屋に駆け込んだ。小さめの一室は、レスター家所縁の品々が納められている。
迷わずに、祖父の遺品が纏められているチェストの扉を開けた。
長らくしまった切りになっていた祖父の肖像画――漆黒のジャケットの胸には、いつも着けていた、金のタイピンが描かれている。
確認するために、チェストの一番上の引き出しから、小さな木箱を取り出す。輝きは少しくすんでいるが、表面に彫られているイニシャルはしっかり読み取れる。「JL」――彼の母親の名前だと聞かされていた。
掌の中のリングと見比べる。デザインも大きさも、瓜二つ。イヤリングの左右のように、全く同じものだ。
「――は……ははっ」
何だよ……そういうことなのかよ。
思わず力が抜けて、その場にへたり込んだ。
祖父が、威厳に満ちた目付きで俺を見下ろしている。癖毛の白髪に、漆黒の瞳。すっきり高い鼻筋と、弛まない細い顎。更けてなお整った造形は、若かりし日の美貌を窺わせる。
俺は一族の中でも、一番祖父に似ていると言われてきた。そりゃそうだろ、『じいさん』――。
「あんたの母親は……飛び切りいい女だったよ」
魔女狩りと戦火を掻い潜って、ジャンヌは生き延びたのだ。逃れた先は、恐らく東欧。生まれた俺の子は、やがて新世界――アメリカに渡って財を成し、現在のレスター一族を生み出した――。
立ち上がり、タイピンを引き出しに戻す。
「極上の赤ワインでも飲みたい気分だ。それに――直伝のポテトステーキと洒落こむか」
ジャンヌ曾祖母の形見の指輪を小指に嵌めて、俺は祖父の肖像画にニヤリと笑う。厳つい眼差しが、微かに笑みを返したように見えた。
【了】




