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月夜のデッキ

 今年最後の満月が、黒々と広がる針葉樹林に乳白色の光を注ぐ。時折、梢がザワザワと大きく揺れている。ベランダ越しでも、凛と澄み切った夜風が木立を渡っていく様が、見えるようだ。木々の根本を埋める雪原は青白く、まるで――あの夜の海を思い出す。



『貴方も……パーティーは、お嫌い?』


 新大陸(アメリカ)行きの豪華客船。船内で繰り広げられている賑やかな舞踏会を抜け出して、デッキで大西洋を眺めていた俺の背中に、女の声が飛んできた。


 振り向くと、地味な黒いドレスの若い女が立っていた。月明かりを受けたプラチナブロンドが絹のように艶めき、同じ色の薄いショールが肩を包んでいる。


『貴女は……確か、マーシャル伯のご令嬢の――』


『はい、エミリアと申します』


 上品に会釈する女性には、見覚えがあった。ロンドンの社交会で、少し前までスキャンダルの渦中にいたからだ。


『失礼しました。私は、アルバート……』


『存じておりますわ、レスター男爵様』


 クスリと笑んで、彼女はこちらに歩み寄る。海は凪いで穏やかとはいえ、突然揺れないとも限らない。差し出した片手を、彼女は素直に掴んで、デッキに並んだ。


『私のことを、ご存知で?』


『ええ。商才に溢れた麗しい殿方の噂は、サロンでは格好のお茶菓子ですもの』


 麗しい、か。

 緩くウェーブの付いた漆黒の髪に、蝋の如く白い肌。高く細めの鼻筋と、鋭角的に尖った顎。俺の中性的な顔立ちは、整っていると評されることが少なくないのだが。


『やれやれ。どんな醜聞が広がっていることやら』


 俺は、月光を弾く波の飛沫に目を向けて、苦笑いした。男が美女をワインの肴にするように、上流階級のご婦人達は、珍奇な新参者をネタにして潤うのだろう。


『あら。ご自分を卑下なさるのね』


『所詮、成り上がりの余所者ですから』


『出自が謎めいている所が、一層魅力的なのですわ』


『そんなものですかね』


 美しいと噂されていた彼女の瞳は、近くで見るとエメラルドに似ていた。確か、こんなビジュアルの異国の猫がいたはずだ。


『レスター様は、アメリカへは、お仕事ですか』


『いや。このまま移住するつもりです』


『……え』


『公に広まると、色々煩わしいですからね。商売は譲って、一から再出発です』


 ロンドンで10年近く続けてきた貿易の仕事は、腹心の男に託してきた。俺は、必要な資金源と、僅かな身の回り品をトランク1つに詰め込んで、アメリカ行きの汽船に乗ったのだ。


『――羨ましいわ』


 少し間があってから、エミリアは呟いた。長い睫毛が憂いを帯びる。


『貴女は……ご旅行ですか』


 良家の令嬢が、侍女の1人も伴わず単独行動するのは、かなり異常だ。しかし、乗船後の数日間、船内で見かけた彼女に、付き沿う従者の姿はなかった。


『表向きは』


 微かに眉を潜めた横顔は、予想に反して凛とした気高さを取り戻していた。


『本当の所は、南部の農場主に売られるんですの』


『売られる? 穏やかじゃないな』


 デッキに凭れ、彼女の顔を覗き込む。視線に気付いたように、こちらを見上げると、硬い眼差しでぎこちなく微笑んだ。


『……貴方も、私の噂はご存知でしょう? 異国の富豪に嫁ぐというのは、外聞が良いのです』


 勿論、(スキャンダル)は、知っている。


 およそ3ヶ月前、マーシャル伯爵家とバール伯爵家の婚約が決まった。当時、花婿はスペインにいたのだが、結婚式のために帰国することになった。ところが馬車がフランスとの国境に差し掛かった辺りで、盗賊の襲撃を受け、呆気なく落命してしまった。

 それでも――それだけなら、彼女は悲劇の花嫁として同情されただろう。


 噂好きの社交会は、どこからともなく彼女(エミリア)の過去を掘り返した。

 実は今から4年前、10代半ばの彼女には、複数の縁談話が持ち上がっていた。美しく聡明で、家柄も申し分ない。社交会にデビューするや否や、両手に近い数の求婚が殺到したそうだ。


 花婿候補達は、家柄や人柄、様々なふるい(・・・)にかけられた挙げ句、シモンズ家とコーエン家が最終候補に残った。両家は奇しくも古くからのライバル同士で、そんな因縁もあったのだろう。両家の若者は、些細な口論がきっかけで決闘になり――どちらも還らぬ人になってしまった。

 マーシャル家に非はなかったものの、周囲の配慮もあり、縁談の申し入れは引き潮の如く消えた。


 そうして、ほとぼりが冷めたかと思われた4年後。再び花婿候補が、悲劇的な死を遂げたのだ。

 「マーシャル伯爵の令嬢は、呪われている」――。

 (スキャンダル)にならないはずがなかった。


『酷い話だ。こんな美しい花を手折るなんて』


 「魔女」という不名誉な噂が立つ前に、彼女は体よく追い払われたに違いない。実家からも、社交会からも。


『花、と……仰ってくださるの……』


 エメラルドの瞳が揺れる。月の女神(アルテミス)の欠片を宿した双眸は、酷く魅惑的で――。


『まだ開きかけた蕾でしょう、貴女は』


 見開いたままの瞳に微笑むと、ツイと顎を捕らえ、半開きの唇を塞いだ。ビクンと一度震えたが、彼女は俺を拒まなかった。柔らかな唇をなぞり、竦めた舌に触れながら、細い腰をグイと引き寄せる。顎から頬へ、更に首筋に掌を滑らせると、甘いポイントがトクリトクリと指先を誘惑する。ここに犬歯を突き立てれば――彼女は俺のものになる。


『ん――んんっ!』


 不意に身を捩り、彼女は口付けを外した。瞳が月の滴に濡れている。


『離してっ』


 掠れた叫びを上げ、俺の腕を振りほどくと、彼女はふらつきながら船内に駆け戻った。


 彼女が立っていた床板に、銀のショールが落ちている。拾い上げて――自分の唇を舐めた。まだ彼女の余韻が残っている。


『……何やってるんだ、俺は』


 再び独り切りになったデッキの上で、ほとんど変化のない乳白色の海原を眺める。微かな夜風が、思いがけず上気した頬をたしなめるように吹き抜けた。


ー*ー*ー*ー


「父さん、ジェームス達から『駅に着いた』と連絡がありました」


 漆黒の髪をきちんと後ろに撫で付け、シルバーグレーのスリーピース姿で、息子のティモシーが現れた。


「そうか」


 暖炉の上の置時計に視線を向ける。20時を回っている。あと、1時間もすれば到着するだろう。


「寒くないですか」


「ああ、大丈夫だ」


 短い言葉を交わし、ティモシーは階下に消えた。

 久しぶりに一族が集う夜だ。ホスト役の彼には、しっかり取り仕切って貰わなければ。


 再び、ベランダの向こうに広がる冬景色に瞳を戻す。

 乳白色の光を浴びた木々のさざめきが、舳先を誘う波のように、前世紀まで記憶を浚っていく――。


ー*ー*ー*ー


 それから2日ほど、エミリアは船内に姿を見せなかった。まるで、俺と顔を合わすことを避けているみたいだった。


 航海も、あと1日――明日の夜には新大陸に着くという、前夜。

 元より夜行性の俺は、月明かりの海原を眺めるため、デッキに滑り出した。


 ――あれは。


 人気のないデッキの側にに、黒く細い先客がいた。


『お1人じゃ、危ないですよ』


 ハッとした表情で、こちらを振り返ったのは、エミリアだ。数日前とは違うデザインの、やはり黒いドレスで……よく似合っている。


『きっと……お会いできる気がしてました』


 エメラルドの輝きを深めて、彼女が微笑む。隣に並ぶと、潮の匂いを押し退けて、名も知らぬ花の香りがフワリと主張した。


『明日の夜には、新大陸ですね』


『ええ……。レスター様は』


『アルバート、と』


 一瞬戸惑いを見せたが、彼女は小さく頷いた。


『あ……アルバート様は、不安ではないのですか』


『不安? 何故?』


『誰も、知る人も、頼る人もない土地で、お仕事も……一から始められるのでしょう?』


『ああ。しがらみのないことは、むしろ気楽なものです』


『しがらみ……』


 異国出身で素性の知れぬ俺を、快く思わない人間も決して少なくはない。商売で新規参入した頃に比べると随分ましになったが、それでも、未だに妨害を受けることがある。


『誰も、過去を知る者がない。私のことも――貴女のことも』


 ハッとしたように、彼女は瞳を逸らした。俯いた切り、しばらく答えなかったが、手すりを握る両手が小さく震えている。俺は敢えて促さず、海原に視線を投げた。


『戻る場所など無いことは、分かっています』


 何かを決断したかのように顔を上げた彼女は、まっすぐ地平線の彼方を見詰めた。眼差しがきついのは、自分自身に言い聞かせているからだろうか。


『でも――私は、怖い。見ず知らずの土地で、声を聞いたこともない男に嫁ぐなんて――このまま、永遠に着かなければいいと願ってしまうんです』


 旧大陸(ヨーロッパ)価値観(しがらみ)に捕らわれない「自由の国」、アメリカ。しかし彼女がたどり着く先は、新たな(しがらみ)の中でしかない。洋上の航海、この短い旅の間だけが、唯一羽を伸ばせた時間だったのだろう。


『エミリア』


 手すりを握る右手に、俺の手を重ねる。小さく動じた細い指先は、ヒヤリと冷たい。


『もし、貴女が嫁がなければ、マーシャル家に迷惑がかかりますか?』


『ええ――いえ、恐らく。でも私には』


『家も信仰も、捨てる覚悟はありますか?』


『……アルバート様?』


 エメラルドの瞳が、俺を捕らえる。躊躇いと驚きと、微かな希望の光を宿して。


『言葉を交わしたのは、今夜で二度目です。それでも――俺が何者でも、全てを捨てて共に来る覚悟はありますか?』


 俺は、白馬の王子ではない。彼女を待つ南部の男のように、高貴な花を我が物にしたいだけかも知れない。だが――蹴散らされることが容易に想像でき、彼女自身も望んでいない。俺に手折ってはならない理由があるだろうか。


『……連れて行っていただけるのですか』


 身体ごと真正面に向き合うと、食い入るように真剣な眼差しを向けてくる。


『心も身体も――命も、俺に委ねるというのなら』


『……私。今夜、貴方にお会いできなければ、ここから身を投げるつもりでした』


 重ねた俺の手の上に、更に左手をそっと乗せる。掌は震えていた。



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