表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とある死志望者の日記  作者: 冬真 春
てきとうなとこを書くだけの只の自己満足
12/14

生きづらい社会と自殺法についての提案。

※この内容は、一個人の勝手な発言で、言いたいことを言うだけなので、右から左へ受け流すように捉えていただければと思います。

 世の中は不自由だ。

 言論の自由や思想の自由など、色々な自由はあるけれど、おかしな発言をすれば、不特定多数に叩かれ、その発言は取り下げろと強要される。出る杭は打たれるという諺があるように、普通ではない事をすると、すぐに誹謗中傷を浴びてしまう。


 何故、様々な自由を掲げているのに、集団と違う行動を取ると批判を浴びてしまうのか。


 何故、様々な自由を掲げているのに、自殺するという選択肢はいけないこと、という結論に至るのか?


 一人が「死にたい」と発言すると、周りの人は、死んではダメとにかく死んではダメや、産んでくれた両親が可哀想や、世界には生きたくても生きられないからあなたは生きなきゃいけない、といった発言をする。


 両親や関わってきた人々に恩を返すという理由はまだ理解できる。が、あなたは恵まれているから生きなきゃいけないというのは傲慢なのではないだろうか。少なくとも、死にたいと思った原因がある以上、恵まれているとは言えないはずだ。


 結局は本人の意思なのだ。周りが迷惑がかかるとか、周りに恩を返すとか、そういうのは自分自身が辛い時に周りに関わっても、自分に負荷が掛かってしまう。


 自分自身が一番大切だから、自分が幸せじゃないと、他人を幸せにすることなど出来ない。それ以上に他人の不幸が自分の幸せになってしまう。他人の不幸は蜜の味というがまさにその通り。

 因みに、他人の幸せが自分の幸せだという人は例外である。違う世界に住んでいるのではないでしょうか。


 では、自分を幸せにするにはどうすれば良いのか?

 何をすれば自分が幸せになるのか?


 答えは人それぞれである。

 朝御飯を食べることが幸せだと言う人もいれば、設定した課題をクリアすれば幸せと感じる人もいる。何気ない毎日が幸せと言う人もいれば、何かを達成しないと幸せと感じることが出来ないという人もいる。


 じゃあ、私の幸せとは何か?

 それは死ぬことである。大切な人に降りかかった雨に傘をさせることではない。



 少し昔話をしましょう。

 私は学校では優等生の部類に入っていました。得意科目は物理に数学。理由は必ず一つの答えがあるから。

 反対に苦手な科目は国語と英語。理由は記憶するのがめんどくさかったから。

 学校は正直楽しくも辛くもなかった。もしかしたら少しは楽しかったのかもしれない。

 授業を受け、6限目が終わると部活動で運動をする日々。

 体育祭も、文化祭もそれなりに力を入れた。

 そして、あっという間に三年が過ぎ卒業。


 その時代は、大卒でも就職難と言われていたので、高校卒業後、大手企業に就職。そして今に至る。


 学校は楽だ。

 言われたことをしていればよい成績を貰えるのだから。そして、みんなとは違うことを使用とすれば怒られ、同じであると強要される。

 そうして、言われないと出来ない人間がまた一人生まれてしまった。


 社会は自分に対して何も言ってはくれない。言ってくれるとすれば仕事の事に上司が言うぐらいだ。

 それ以外は自分で探さなければならない。

 学校では、それを探す方法を学び忘れた。

 だから、自分から動けない。いつも受け身。何に対しても総受け。


 数年働いている間に、何故生きているのだろうと自分自身に問いかけるようになった。毎日仕事をして、家に帰って、テレビを見て、眠くなったら寝る。そして次の日も仕事をする。そんな毎日。

 変わらない日々を過ごすのなら、今死んでも一緒ではないかとそう思うようになった。

 むしろ、今死んだ方がこの先のあらゆる不安を感じることなく終われるのでこの方が良いのではとも思えていた。

 未来の姿を想像するよりも、今の自分のままここで終わる方が楽に思えた。


 私が働いていた会社はそこまでブラックな会社ではなかったので、ニュースやネットで見るブラック企業に勤めている人からすれば幸せなのかもしれないが、私は幸せとは感じなかった。


 両親の老後のことや、地域の人から見られる目なんかよりもよっぽど死ぬ方が幸せだと感じた。


 しかし、残念なことに自殺が出来なかった。自殺をする勇気がなかった。


 包丁を持っての刺殺は刺さったときの痛みを想像して、包丁を振り下ろすことが出来なかった。

 ビニール袋を用いての窒息死は、酸素が薄くなって呼吸の回数が多くなり、酸素を求めて肺が上下して、頭がキーンとつらくなったが、死ぬまでそれを続ける勇気がなかった。

 縄を用いての首吊りは、そもそも家のなかに吊るせるような頑丈な物がなかった。

 屋外でするぶんには人口が多すぎた。

 高いところからの飛び降りはそもそも、勇気がなかった。

 電車にぶつかることは、電車の遅れや掃除などで、たくさんの人に迷惑がかかると思って出来なかった。

 たくさんの人に迷惑がかかるということに対しては他のどれも同じである。


 結局、死にたい死にたいと思っていても、それをするための勇気が無いのだから出来ない。

 もしかしたら、死にたいと思っていても、心のどこかでは他人への迷惑や常識を言い訳にして、死なないように言い訳を作っているのかもしれない。

 一瞬だとしても、痛いのは嫌だ。


 ニュースで自殺などの報道をよく見るが、その人の方がよっぽど勇気がある。爪の垢を煎じて飲みたいぐらいである。もっとも、そのときになってみれば腐敗して気持ちが悪くなるだろうが。


 自殺の原因はいじめが大半だが、そういう誹謗中傷はSNSでよく見る。一昔前まではスマートフォンも普及していなくて、携帯電話での繋がりは現実で知っている人同士のやり取りが大半だったと思う。

 学校でのいじめはあったと思うが、それも本人にばれるリスクがある場所での陰口やメールでのやり取りなどが多かった。


 しかし、今となっては一人一台はスマートフォンを持っていて必ず何かしらの、不特定多数が集まるSNSをやっている。


 好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。そういった趣味や考えを沢山の人と共有できることは、良いことであるが、その一方で匿名で発言できるという性質が、リスクを負わなくなることでその発言に狂暴性を持たせていることも確かである。


 バレなければ何を言っても良い。バレる心配がないからもっと過激になっても大丈夫である。というふうになってきていると、どこかでいっていた気がする。

 イカサマはバレなければイカサマではない。とは全くの別物である。


 ネットのグループで過激な発言をしている人が実は現実では物静かなおとなしい印象の青年だった、ということもあったはず。


 科学の進歩が人類を衰退させている。という発言を聞いたことがある。

 とある主婦が、食後の食器洗いや掃除を完全に機械に任せるようになってから楽になっていたが、その分動かなくなって体重が増えてしまい、その事に怒り、機械を作ったメーカーを訴えた、というようなことがあったと思う。うろ覚えだが。


 もちろん、スマートフォンが普及する前も、パソコンを通じて同じようなことは起きている。

 ただ、スマートフォンが普及したことでその数が異常に増えているだけなのだ。


 インターネットがあれば、何でも知ることが出来る。

 親に知られたくないことでも簡単に調べられる。そう、スマートフォンならね。と言うように、情報の取得が容易になった世の中。


 教育上、親が知ってほしくないことも、スマートフォンを持っているだけで簡単に色々なことを知ることが出来る。

 インターネットの良さは、色々な情報を簡単に取得することが出来ることで。悪いところは、情報があっているかどうかわからないこと。


 間違った情報を鵜呑みにして、それを別の人に伝えることで情報が広がり、正しい情報が出た瞬間に、間違った情報を伝えた本人が嘘つきとしてコミュニティのなかに存在してしまう。

 やがて、嘘つきを排除しようと、それ以外の人が団結してSNSを使った陰湿ないじめが始まる。

 匿名だからという理由で過激な発言がとびかい、対象に明確なダメージを与える。

 そして、そいつはそのコミュニティがいやになり死にたくなってくる。

 これで死志望者の完成。


 人間、間違えることは良くある。みんなそれがわかっているのに、一回の失敗でこいつはダメだとレッテルを貼る。ネットだと失敗してもバレないから、ネットの中が安全で安心で楽だから、自分の居場所の様に感じてしまうのではないだろうか。そして、現実での居場所はどうでもよいと感じるようになる。そうやって世界は出来ている。


 ここでは、私自身の匿名性を使った文章については棚にあげておきます。実際に間違った発言があったとしたも、その事について揚げ足を取られても私自身にはダメージは無いだろうと思います。だって、私自身は特定されていないのだから。




 では、死にたいと思っているけれど、死ねない人間はどうすれば良いのか?


 変えられるのは自分か世界しかない。


 Q、自分が変わるとすればどう変わればいいのか?


 A1、心を入れ換えて生きていくようにする。


 現状では無理がある。死にたいと思うようになった人間はそう簡単に変わらない。それこそ自殺が出来なかったから、心を入れ替えてこの世の中を生きていきます!と思えるような人間は自殺に至るまで心が壊れたりしないはずである。

 自分の存在が根底から覆されるような事象でも無い限り、心変わりなんて望めない。例えば、一目惚れして、その人のために生きていこうと思います!や、宗教に入信して心が浄化されたり?


 A2、自殺出来るだけの勇気を持つ。


 自殺が出来なかったから、その勇気を持つこと自体もあり得ないだろう。なら、自分が出来ないのなら出来る人に頼めばよい。包丁で滅多刺しにしてくれる人や、高いところからの突き落としてくれる人を探したり。出会う確率は少ないだろうが。




 ふと思ったのだが、殺人犯は何を思って人を殺しているのだろうか?相手に対する憎しみだけなのだろうか。

「かっとなってやった、後悔はしていない」という言葉をニュースで聞いたことがある。

 かっとなるということは、その瞬間だけ常識よりも、殺人衝動が勝ったということになる。そういう状態になるまでストレスがたまっていたのだろうか?

 当事者になっていないからわからない。まあ、知りたいとも思わないが。


 他には「誰でも良かった」という台詞を聞いたことがあるが、それは殺人という行動が倫理や道徳を上回ったことになるのだろうか?殺人自体が楽しくなってしまったのか、殺人しかすることがなかったのか。本人にしかわからない世界なのだろう。


 残念なことに、私を怒りや敵意などで殺してくれるような知り合いはいない。そこまで、ストレスを与えるようなことはしていないはずだし、そもそも、深く付き合っている仲はいない。


 やはり本人の捉えようなのではないのだろうか?些細なことでも、ストレスになることはあるだろうし、私自身がどうでもいいことでも相手からしたらどうでもよくないかもしれない。

 例えば、「私潔癖症なんですー」っていって、手をしっかり洗っていても手袋無しで握ったおにぎりは食べられないのに、それ以上に汚いはずのスマートフォンは平気でさわるやつ。スマフォも洗えよって思う。

 そこで、別に自分が触ったものなら大丈夫なんです、とか言った時には「はいそうですか」と、スルーしますけどね。

 結局、本人がどう思っているかなのだと思う。


 ストレスについてもそう、怒られたということに対して、自分はダメなんだと思うのか、自分を成長させるために起こってくれていると思うのか、はたまた、なにも感じずに流すのか。


 何が良くて何が悪いのかはその時で対応が変わってしまうが、ネガティブよりも、ポジティブに思える方がよっぽど世界は輝いて見えるはずだ。そして、私はネガティブである。


 この考えはそう簡単には変わらない。A1と同じである。


 閑話休題。




 では、自分が変われないなら世界を変えるしかない。世界というのは学校、地域、会社等など。


 例えば、学校で虐められているなら、学校を変えるか、学校の中を変えるしか無い。

 もし、学校を変えたとしても、本人の虐められたという経験が、また虐める奴の目に留まり、そこでもいじめが発生するだろう。

 だから、どこの学校でも虐めは少なからず発生している。その原因を取り除くしかない。いじめの当事者を除外するか、いじめが起きないように監視をするか。


 後者は難しい。

 監視には時間や人員が掛かる。そして、学校内でしか機能しない。どれだけ取り締まったとしても、見えないところで起きている。

 いたちごっこである。

 被害者が先生に言えないのも、見えないところで酷くなってしまうことが予想されるから。第三者が行動を起こせないのも、当事者になってしまうことを恐れているから。


 前者もまた難しい。

 虐める側、虐められる側そのどちらも取り除いても、また、どこかで別の誰かが誰かを虐め始める。


 それだけ人間の欲は醜いのである。他人に自分の存在を認識してもらわないと、自分であることを証明できない。

 どこまでも、人は一人では生きていけないのである。


 他人と比べることは良いことだが、それが行きすぎてしまうと、他人を見下すことが存在意義になり、虐めていないと自分が保てない。虐めることが当たり前となる。

 みんなとは違う、ということでも同じである。その人のだけみんなとは違うから、という理由でみんなでその人を批判する。それがエスカレートして虐めになる。


 だから、虐めは無くならない。


 会社でも別のコミュニティでも人間関係は良好でなければいけない。相手のことが嫌いだったとしても、うまくやらなければならない。ダメな上司に当たったときこそ上手く関わらなければならない。

 人間関係が一番大切で、そのコミュニティでの生活のしやすさを決める。


 でも、それが出来なくて、心が壊れてしまった人は?

 もう立ち直れない。やる気がなくなった。生きる意味が見出だせない。でも、痛みが怖くて自殺はできない。そんな人はどうすれば良いのか。


 そこで、提案があります。



 自殺がしたいけど、痛いのを想像してしまい、自殺が出来ないというそこのあなた!

 定められたお金を支払うことで、麻酔を使った痛みの感じない方法で、あっという間からこの世を去ることが出来ますよ!

 その中も、'自殺法'


 その特徴は、なんといっても痛みを感じないこと。痛みが怖くて死ねない人が、痛みを感じないまま永遠に眠りにつくことが出来ます。


 他にも良い点があります。


 ダメだダメだと自分の心を痛め付け、立ち直れなくなったあなた!

 自分の体を差し出すことで、血液、臓器、実験体、その他色々、あなたの体の隅から隅まで知らない誰かの役にたつことができます。


 これで、役に立つという事実を持って良い人生として、生を終わらせることが出来ます。


 人生を終わらせたいけれど、死ぬ勇気が無くて、死ねないからと今を淡々と生きているあなた。

 この'自殺法'一度考えてみてはいかがでしょうか?

 きっとあなたに安らかな永遠の眠りが訪れるでしょう。


 というのはどうでしょうか?



 あくまで、私自身の勝手な想像で、殺す際の手続きや、現実の苦労や、死んだあとのその人の所有物の管理等は触れていないですけど、こんなのがあれば今よりももっと自殺というハードルが下がるのではないでしょうか。最も、誰かを頼る時点で他殺になってしまいますが。

 それでも、自分の意思で死ぬことになるので、やっぱり、自殺になるのではないでしょうか。


 近年、医療の進歩と共に高齢化。結婚や出産の減少で少子化。科学の進歩で、人と人が実際に会わなくても交流できてしまう社会の構築。


 なんにしろ、何が変わることで良いことも悪いこともどちらも起きてしまいます。例えば、誰かを殺しました。ここでは、悪いことは人を殺してしまったこと。良いことは、その人がもしかしたら殺人を考えていて、殺されるはずだったひとを助けたということ。


 この自殺法の良いところは、

 死にたくても死ねない人が安らかに死ねること。

 それで発生した人間の体を別のなにかに使えるかもしれないということ。臓器の保管、手術の練習等。

 人工の減少。

 自殺法に関わる労働力が必要となるため、職が増える。

 もし国がこれを行うのであれば、自殺者の所有物の全てを国の所有ということにすれば、国の国庫が潤う。

 等でしょうか。


 反対に悪いことは。

 自殺法を使った、合法殺人が発生する。

 自殺法をしたいと思う人は人生が嫌になった人ばかりだと思うから、資産を持っていなくて、国が行うのであれば、借金は減らない。

 など、挙げたらきりがないほど出てくると思います。


 世界には自分にそっくりな人が三人はいると言われています。なら、思考がそっくりな人も三人は居るのではないでしょうか。

 私は痛みを感じずに死にたいと思っています。つまり、同じように死にたいと思っている人は必ず三人以上になります。


 需要があれば、供給しなければならない。


 人口が増えれば、賄える場所を増やすか、人口自体を減らさなければならない。

 死にたいと思う人がいれば、殺す人が必要になる。

 人を殺したいと思えば、殺される人が必要になる。

 また、その現場を見たい人がいるかもしれない。


 自殺法を使ったビジネスが生まれれば、その仕組みを開発した人に多額の金が入ったり、見世物にすれば、見たい人、殺したい人、死にたい人など様々な関係でお金が動くことでしょう。


 死にたい人は安心して死ねる。殺したい人は合法的に殺せる。なんてwin―winな関係なのでしょうか。


 一度、頭のいい人が本格的に考えてくれることを願っています。

 いつの日か、安全に自殺出来ることを願って。



 結局何が言いたいかと言うと、

「現実が辛いから誰か私を殺してくれ。出来れば痛くない方法で」

私自身は気持ちの問題だと思います。何にせよ、それが楽しいと思えば楽しい。楽しくないと思えば楽しくない。ただそれだけ。


因みに体罰は嫌いです。言葉攻めはされるのが好きです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] あなたはまだ、生きていますか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ