追跡者の日常
時計の針は午前8時45分。
ストーブがつく前の教室は、少し乾いた空気が充満していて学校という空間の閉鎖性を思い出させる。
今日の連絡事項を担任教師である黒内が話しているが誰も聞いていない。
みんなあのことで頭がいっぱいだからだ。
「今朝のホームルームは以上だ。何か気になることはあるか?」
「ヒカルのやつは今日も休みですか?」
いたずら好きで好奇心旺盛のアキラが今日も黒内にちょっかいを掛ける。なんで休んでるかまで知ってるくせに。
「うむ。風邪みたいだな……。私も詳しいことはわからん。」
少し困ったような、自身の回答に苦しさを感じている黒内の顔。それを満足気に眺めるアキラの表情は不愉快そのものだ。
「風邪ねえ……」
アキラはヒカルがなぜ学校を休んでいるのかはよく知っていた。最も正確には聞いただけではあるけど。
ヒカルが学校に来なくなって3日目。
学校は事件のことを隠そうとしていたが、私たち生徒の多くはヒカルが母親殺しの有力容疑者であることを知っていた。
アキラはそれを知っていながら、頑なにそれについて口をつぐむ先生たちに面白がってヒカルについての質問をぶつけている。
高校生の情報網というのは恐ろしいものである。学校のある街の端っこで起こったような小さな出来事も学校関係者の誰かが見ているもので、誰かが知ったその情報は恐ろしいほどのスピードで学校中に広まる。
私はどこ吹く風で、いつも通り日常を送っているが内心心配でもあった。
昔からヒカルのことは知っているがそんな男であっただろうか。それとも私が深く関わっていない間に、ヒカルは変わってしまったのか。
「ミホ、1時間目の理科実験よ。実験室いきましょ」
頬杖をついて物思いにふけっていると、机の目の前には美少女。学年随一の人気を誇るカナが立っていた。
「あいあい。ちょっと待ってねい」
私は中身がぐちゃぐちゃのスクールバッグから使い古した筆箱を取り出す。赤色のかわいいやつ。ヒカルにもらったものだ。
教室から寒い空気の凍ったような廊下に出ると、男子が数人固まってわちゃわちゃと話をしていた。
「やりそうだったよあいつは……。どこかおかしかったもんな」
ヒカルと仲の良かったノブヤ。ノブヤのいう”あいつ”というのがヒカルであることは容易に想像がついた。ノブヤの話を聞いて周りの男子連中は野次馬気分で面白がっているが、肝心のノブヤの表情が神妙そうに見えるのは気のせいだろうか。
「やーね。ああいうの。まだ犯人がヒカルくんだって決まったわけでもないのに。ミホ小学校のときヒカルくんと仲よかったんでしょ?何も聞いてないの?」
「まあ昔の話よ。高校に入ってからなんて全然喋ってないし。腐れ縁ってやつ」
と、その後カナが何か言っていたが私の耳には入らなかった。
廊下の窓から見えた光景に目を取られたからだ。
反対側の校舎の1階、保険の新川先生が刑事らしき男たちとともに歩いている。
何かを証言しているのだろうか。警察の連中はやけに嬉しそうだ。ヒカルを逮捕するのに有力な証言でも得ることができたのだろうか。
「ちょっとミホ、聞いてるの?」
「ああうん。ごめんごめん」
私は内心ゾッとしていた。
ゾッとした心持ちを表に出さないようにすることに必死だった。
普通、学校の生徒が1人殺人事件に関わっているとわかればみんなそれなりに取り乱すものだ。私のように内心ヒカルのことを心配していたり、馬鹿な男子たちのように野次馬根性を出してみたり。
しかし、新川先生にはそれが全くなかった。
凍りついたような、普段のあの笑顔。保健室の優しい先生を象徴するようなあの笑顔。あの笑顔がそこにのっぺりと貼り付けられていた。
営業スマイルだろうか。
私にはその新川先生の顔がひどく恐ろしく思えた。感情を隠すような、仮面をかぶったようなあの顔。それともあれがあの人の素顔なのだろうか。
一点透視図法の見本のように、奥まで伸びた廊下はさっきよりもずっと冷たく、足の底が冷えるような心地がした。