麻耶 P7
11月12日 (日)
結局、昨日の夜は一睡も出来なかった。
彼と買ったロミジュリの文庫本を一夜で読破してしまったからだ。
「…………」
そして今、私は誰も居ない教室の窓辺でたそがれている。
日曜の朝。この爽やかな空気を肺へと送り込むために。
一睡もしてない頭には丁度いい薬だ。
「ロミオに……会いたい……」
ジュリエットの気持ちが分かる気がする。
きっと今の私と同じ気持ちだったん……って、違う!
私はただ、あの男の成績を落す為に……そう、これは作戦。
決して私は……恋をしているわけじゃ……
「ん? 朝霧早いな」
ビクっと肩が震える。
彼の声が聞こえた。真後ろから。
ゆっくり振り返る。
彼の……まっすぐな笑顔を期待しながら。
「お、おはよう。なにしてたんだ?」
教室に二人きりだからだろうか。なんだか恥ずかしがってる?
だがもうそろそろ皆集まってくる頃だろう。
二人きりの時間はすぐに終わってしまう。
「日曜の朝に学校に来るなんて珍しいから……空気を味わってたの」
私の言葉に頷き、彼も真横に来て深呼吸。
「あぁ、きもちいな。中々無いしな。俺達部活もやってないし……」
「そうね……」
ふと、彼の唇に目が行ってしまう。
昨日買ったロミジュリは、いささか刺激的過ぎた。
キスシーンが作者の趣味なのか、妙に生々しかったのだ。
……彼はどこまで読んだのだろうか。
「ねえ、葉月君。ロミジュリは何処まで読んだの?」
「あー……ごめん、気が付いたら寝落ちしてて……」
なんだと。私は一睡も出来なかったというのに。
なんか悔しい。なんで私はそんな夢中になってしまったんだ。
そして、なんで……さっきから彼の唇から目が離せないんだ。
「……朝霧? どうした? なんか疲れてるか?」
「……うん、疲れてるみたい……」
そう、これはあくまで演劇の練習。
いつかキスをするんだ。この男と、ステージの上で。
だから、練習しないと……。
「朝霧……?」
そっと彼に一歩近づき、顔を見つめる。
彼も察したのか、目の色が変わった。
ゴク……と唾を飲みこむ音が聞こえてくる。
かすかに荒くなる呼吸
目の前には彼の真剣な顔
だんだん、だんだん……彼との距離が縮まっていく
あと少し
あと少し
心臓が破裂しそう
胸が焼け焦げて、体まで燃えてしまいそう
もう、彼の熱い吐息が
すぐそこまで……
「おっはー」
クラスメイトの挨拶に敏感に反応し、互いに何事も無かったかのように離れてそれぞれ挨拶する。
「お、おはよう……」
「ん? 何二人共……顔赤くして……って! ご、ごめん! 邪魔しちゃった?!」
何かを察してしまったクラスメイトへ、私はぶんぶん首を振って否定する。
邪魔な筈がない。ここはクラス共有の場なのだ。
「い、いや、俺の鼻毛が出てないか朝霧にチェックしてもらってたんだ。今日ちょっと寝坊しちゃって……」
彼が率先して言い訳を繰り出した。
だが何だ、その見え見えの嘘は。君は鼻毛のチェックを女子にさせるのか?
「ふ、ふーん。ちゃんと身だしなみは整えないと……なんたってロミオなんだからーっ」
クラスメイトも、どこか余所余所しい態度で彼に話を合わせた。
ダメだ、恥ずかしい……自分でも今、熱があるのでは無いかというくらいに顔が真赤になっているのが分かる。
あぁ、穴が有ったら入りたい……。
※
いつもよりゆっくり、クラス全員が集合する。
時刻は九時。それぞれ席に着き、先日と同じく演劇部部長の早乙女君が場を仕切る。
「えーっと、皆日曜の朝からスマンね。早速だけど……実は、今日……俺、すげえ怖い夢見ちゃって……」
そんな話はどうでもいい、という男子のツッコミにクラスの大半が笑顔になる。
私も釣られて笑ってしまう。でも体の温度がいつまでも下がらない。
ずっと熱いままだ。どうしよう、震えまでも止まらなくなってきた。
朝一からキスなんてしようとしたからだ。
「じゃあ……今日から準備に入るわけだけども……って、朝霧さんどうしたの?」
「え?」
どうしたのって……何が? と首を傾げる。
するといつの間にか、瑠衣が席を立って私の隣りまで来ていた。そしてそのままオデコを当てる。
「……ちょ、なにこの熱! 38度6分!? あかんやん! なんで学校来たん!」
「え? え? いや、そんな熱あるわけ……」
というか、オデコあてただけで何でそんな正確に熱が測れるのだ。
あぁ、瑠衣はFDWだから……そんな事も出来るのか。
「ちょっと、手だして」
手を繋いでくる瑠衣。すると目の前に『Do you connect to a nanomachine?』の文字が。
ナノマシンに接続?
「ほら、はよ許可して」
「う、うん……Yes……」
すると目の前が一瞬白くなり、なんだか少し震えが止まる。
あぁ、瑠衣がナノマシンを操作しているのか。
「やっぱり……風邪ひいてるやん。皆にうつしたらどうするん、ほら、帰るで」
「え? い、いや……でも……」
つい、彼を見てしまう。
先程キスをしようとした……彼を。
『ははーん、そういう事かぁ』
その時、頭の中に瑠衣の声が響いた。
私にしか聞こえない瑠衣の声。
『任せとき、やから今日は帰りな』
またもや何か察された。
思わず俯いてしまう。いや、少し頭が重い……。
「早乙女君、この子、ちょっと熱高いし家に帰すね。でも私も今日色々と準備しなきゃだし……」
瑠衣は少々……いや、かなりわざとらしく「んー」と悩むフリをして彼と目を合わせた。
そして再びわざとらしく……
「レオ君……この子居なかったら練習も何も出来んよね? ちょっと家に送ってもらっていい?」
そのわざとらしい対応に、クラスメイトの大半が何かを察したように頷いた。
そしてトドメを刺すかのように、生徒会長が立ち上がる。
「俺がタクシーを用意しよう。レオ、お前が適任だ、行って来い」
「ん?! ちょ……いや、でも女子の方が……」
口答えする彼に、クラスメイト全員がブーイング。
主に女子から。
「葉月君しか居ないって! 私達準備あるし!」
「そうそう、ジュリエットが居ないとロミオは何も出来ないんだから!」
「仕方ない子ね、ロミオ」
なんだか後半ズレてる気もしないでもないが、ロミオは観念したようだ。
荷物を纏めて私の席まで歩み寄ってくる。
「……大丈夫……じゃないよな。立てるか?」
「玄関まで私が肩貸すよ。レオ君、この子の荷物もってあげて」
瑠衣に肩を貸してもらいながら立ち上がると、嘘みたいに足に力が入らない。
こんな状態で良く学校まで来れたな、と自分で思ってしまうくらいに。
それから瑠衣と葉月君と共に玄関まで。
数分後、生徒会長の呼んだタクシーが玄関の前までやってきた。
凄いな、タクシーってこんなに早く来る物だろうか。
「ほら、乗った乗った。ごめんね、レオ君。申し訳ないけど、この子ちゃんと寝るか、しばらく監視しててくれる?」
「え? それって……家の中に入れって事……」
「よろしくー」
満面の笑顔で手を振り、私達を送り出す瑠衣。
瑠衣との接続が切れた瞬間、なんだか体が更に重くなった気がする。
寒い……寒い……
震えが止まらない……
ぁ、これ……ダメな奴だ
心が折れかかった、その時……手に暖かい感触が。
「俺は藤崎みたいにナノマシン管理出来ないけどな……平気か?」
「うん……ありがと……」
手を握ってくる彼。
指を絡めるように……しっかりと捕まえられた。
暖かい。彼の手の温度が体全体に……胸にまで届いてくるようだ。
いつかの喫茶店のように……私は強く握り返した。
胸が高鳴る。
だが私は恋をしている訳じゃない。
ただ、風邪を曳いているだけだ……。
あぁ、でも……
今は甘えてしまおう
彼に風邪をうつさない程度に……
私はそっと、彼の肩へと自分の身を預けた
ここで時間が止まってしまえばいい
この心地よい……暖かさの中で