リオ P6
11月 12日 (日)
「兄様、兄様……朝ですよ」
シアに起こされ、ゆっくりと瞼を開ける。
ベットへと上がりながらカーテンを全開にしていく妹。
「今日も学校行くんでしょう? 朝ごはん、作ってありますから」
「あぁ……サンクス……」
欠伸をしながらベットから降りる。その時、一緒に床へと落ちる本があった。
昨日、朝霧と一緒に買ったロミオとジュリエットだ。
途中まで読んで眠ってしまった。
「……ぁ、もしかして演劇の勉強ですか? 兄様はもしかして何か配役が……」
「あぁ……ロミオ……」
次の瞬間、シアの口から凄まじい超音波のような叫び声が。
思わず耳を塞ぎ、一気に脳が覚醒する。何よりも効果のある目覚ましだ。
「に、兄さんがロミオ?! ど、どうしたんですか! ぁ、救急車……! 脳が、脳が!」
「まあ落ちつけ妹よ。君の気持ちも分からんでも無い。しかし兄の脳は正常だ。試しにどんな問題でも解いてやろう」
「え、じゃあ……宇宙が丸い事を証明してください」
ポアンカレ予想ですか。無理だわ。
※
シアと朝食を共に。
本日のメニューはスクランブルエッグにアボガドサラダ……それに食パン。
っぐ、俺アボガドは苦手なのに……勿論シアもその事は知っている。
兄が苦手だと知っているのに出すとは。なんて子だ。
「兄さん、好き嫌いはダメですよ。ロミオ役するんですから」
一体どういう事だ。ロミオだって嫌いな物くらいあるはずだ。
そう、例えばアボガド……
「子供みたいな事言わないでください。ほら、食べてみたら美味しいですよ?」
別に食わず嫌いなわけじゃない。食べた事はあるんだ。だが口に入れた瞬間広がる鉄のような味に、俺の体は拒否反応を示してしまったのだ。
「それは小学生の時の話でしょう? 今食べてみたら美味しいかもしれませんよ」
それは一理あるかもしれない。昔、酔った親父にイカの塩辛を食べさせてもらった事がある。その時は凄まじい生臭さと、塩っ辛い味に思わず吐き出してしまったが、今は普通に食べる事が出来るのだ。
「じゃあ……一口……」
小さく切られたアボガドを口の中に入れる。
ぅ、そうだ、この味だ。どっかの誰かがマグロみたいで美味しいよ! と言っていた。
だが当時の俺は、ならマグロを食べればいいじゃないか、とアボガドを否定していたが……。
「ま、まあ……食べれん事は無い……」
小学生の頃は一口食べただけで吐き気を催したが……。
うん、まあ、食べれる。
「時に兄さん、ジュリエット役は誰なんですか? もしかして藤崎先輩とか……」
「ん? いや、朝霧だ」
その瞬間、手に朝霧の柔らかい手の感触が蘇る。
喫茶店で握った朝霧の手。やばい、今でも鮮明に思いだす事が出来る。
「朝霧先輩……? たしか常に学年二位の人ですよね。そんな凄い人と兄さんが……」
「何を言う、俺だって学年一位だぞ、妹よ」
食パンにジャムを塗りつつ齧る。
イチゴジャムの甘さと、かすかな酸味が美味しい。
ちなみにこのジャムもシアのお手製だったりする。
「それで……例のシーンはどうなさるんですか?」
「……? 例のシーンって……何だっけ」
「ですから……キスシーンですよ」
思わず吹きだしそうになり、焦って喉に詰まってしまう。
コップに注がれた牛乳を一気飲みしつつ、とりあえず落ち着く。
「き、キスシーンって……お、俺は別に……」
「ロミジュリの一番の見せ所じゃないですか。演劇部の先輩に聞いたんですけど……前にキスをしたフリだけで終わらせたクラスがあったらしいですが……その時は激しいブーイングの嵐だったそうですよ。なんでも、ロミジュリを勝ち取ったのだから……しっかりやれ、との事らしいです」
成程……ロミジュリの演目は実力テストで各科が争っていた物だ。
それを勝ち取ったクラスは、ロミジュリを徹底的に演じきれ、という事か。
ただ単にキスシーンが見たいだけ、という気もするが。
「クラスで一生懸命用意した物にブーイングされるのは悲しいです。だから……兄さんも朝霧さんと……」
途端に顔を赤くするシア。
いやいや、君演劇部だろう。キスシーンくらい……
「無いですよ、普通学生の演劇でキスなんて……でもロミジュリ、しかも年に一度の文化祭となれば話は別です」
そ、そうなのか……あの朝霧とキス……
あの小さな唇に……
って、いかんいかん。
「ちょ、ちょっとトイレ……」
「お世話しましょうか? 兄様」
「ひ、ひぃ! そんな子に育てた覚えは無いですわよ!」
※
日曜の朝から学校へ行く。
早々無い機会だ。しかも今日は私服での登校が許されている。
といっても俺は制服だ。私服なんて面倒臭いし、男子は大抵こんな時でも制服だ。
「もったいないですね、折角皆に見せびらかす機会ですのに」
シアは当たり前のように私服。
だが相も変わらずミニスカート。
「女子は皆……おしゃれに命かけてるんだな。男子がそんなの履いたら凍死しそうだ」
「一度見てみたいですけどね、男の子がスカート履いてるの……ぁ、でも高校生になって、人生で初めてスカート履いた子なら知ってますよ」
なんだって。今までどうしてたんだ。中学も制服はスカートだろうに。
「今年入ってきた一年の子ですよ。可愛いんですから。ぁ、紅葉……」
家から出て少し歩いた所、歩道脇に紅葉が連なっている。
今日はなんだか空気が澄んでいて綺麗に見える。いつもと変わらない紅葉の筈なのに。
「なんだか日曜の朝ってワクワクしますね。そのせいか風景も変わって見えます」
「シアは詩人だな……俺はダルイとしか思えん」
詩人といえば、昨日購入したロミジュリはまるで詩を読んでいるようだった。
いつのまにか展開が進んでいて、俺には少し読みずらい話だと感じた。
そういえば……シアは読んだ事あるのだろうか。
「なあ、シアは読んだ事あるか? ロミジュリ……」
「ありますよ、小学生の頃に……」
何と。小学生で既に読了済みだったとは。
さすがだな。あんな難しい本を……。
「とは言っても絵本のような物でしたけど……ラストも実際のロミジュリとは違う物でした」
ほう、興味深い。
どんなラストだったんだ?
「ハッピーエンドです。最後は両家に認められて、二人は静かな農村で暮らし始めるんです。それだけにショックでしたね、本当のロミオとジュリエットの結末を知った時は……」
なるほど、そんな絵本もあるんだな。
静かな農村か。
そういえば早乙女が学校の文化祭でラストを省略、変更する事は珍しくないって言ってたな。
「それは本当ですよ。学生が主役の演劇の観客は、更に年下の子が大半ですからね。ラストにロミオとジュリエットが自殺するシーンは……やっぱりショック大きいじゃないですか」
「じゃあ……そもそもロミジュリなんて公演しなければいいんじゃないか? たとえば桃太郎とかでも……」
はぁー……とあからさまに深い溜息をつくシア。
むむ、なんだね。言いたい事があるなら言いたまえ。
「ロミジュリの結末が悲劇で終わってるのにも関わらず……ここまで有名なのは何でだと思いますか? 他にもあるじゃないですか、シェクスピアは喜劇だって書いているんです。むしろそっちの方が多いくらいですよ」
何故……何故と言われてもな。
単純に男と女が熱い関係を……
「そう! そこですよ! 両家の間に挟まれ、関係を絶とうとされても尚、二人は更に愛を育もうとしました。たとえば……兄さんが朝霧さんと結婚しようとして、あちらのお父様に反対されたらどうします?」
「まあ、必死にお願いする。そこで諦めたら、俺の気持ちは所詮その程度だったって認めるようなもん……」
「そう! まさにその通りなんですよ! 男女の関係は特別です、たとえ神様に反対されたとしても、そう簡単に諦めきれる物じゃありません。ロミジュリはそんな男女の恋愛を、本当に熱く表現しているんです。だからここまで有名に、人々に知れ渡ったんですよ。そして、その恋愛物語を一番欲しているのは、思春期の少年少女達です、彼や彼女に伝えたい……人を恋する、人に恋すると言う事は、こういう事なんだって……! だから私達演劇部も……」
熱く語りだすシアさん。
だが今は日曜の朝。
家の前を掃除している婆ちゃん、犬のサンポをしているオッサン、ジョギングしてる犬、その全てからの視線を集めてしまっている。
それに気が付いたシアは、顔を赤くしながら黙ってしまった。
演劇部とはいえ、シアは元々引っ込み思案な子だからな。
「まあ、良く分かった。ありがとな、シア」
頭を撫でながら慰める。
そうだ、ロミジュリを勝ち取った以上、ハンパな事は出来ない。
文化祭に向けて頑張ろう