麻耶 P10
11月 12日 (日)
目を覚ましたのは夕方だった。
和室の壁に掛けられた時計を見ると、時刻は午後五時を回っている。
布団の中で体は汗でグッショリだった。少し体を動かすだけで、冷たい汗の感触が背筋を震わせる。
「大丈夫か?」
その声に驚きつつ、ゆっくり時計とは反対方向へと首を向ける。
そこにいたのはリオ君だった。薄暗い部屋で、ずっと私の看病をしていたのか。
「リオ君……」
やばい……嬉しい。
風邪を曳いて体力が落ちているせいか、心細くなっている。
まるで雛鳥だ。彼が恋しくて堪らない。
「汗、掻いてるか? ちょっとお母さん呼んでくる……」
そう言って立ち上がろうとする彼の袖を、そっと掴んだ。
行かないで、と駄々を捏ねる子供のように。
「……どうした? 喉乾いたか?」
乾いている。喉はカラカラだ。
汗に水分を全て持っていかれた気分だ。
でもそれ以上に……リオ君が欲しい。
欲しい、欲しい、離れないで……
欲しい、欲しい、もっと、近くに来て……
欲しい、欲しい、君が欲しい
「リオ君……」
擦れた声で名前を呼ぶ。
自分の声で思い知らされる。
今の自分がいかに弱っているかを。
「麻耶、汗掻いてるなら着替えないと……」
それもそうだ。
でも、ここに居て……
今一人にしないで……
「大丈夫だよ、すぐに戻ってくるから……」
そっと、彼に言い聞かせられ、掴んでいた袖を離した。
「じゃあ……お母さん呼んでくるから……」
言いながら……ゆっくり顔を寄せてくる
あぁ、リオ君が……近い
すぐそこに彼がいる
もっと、もっと……確かめたいよ、君がここに居るって……確かめたいよ
その時……唇に柔らかい感触を感じた。
唇が……そっと重ねられた
「ん……ん……っ」
必死に体を動かして……彼の首に腕を回す
逃がさないように……ずっと、ずっと……
でも、唇はゆっくりと離された。
彼に頭を撫でられ、あやしてもらう。
自然と腕の力は抜け、再び目を伏せた。
あぁ、これが夢なら……覚めないでほしい
私……もう……
11月 13日 (月)
瞼に当たる日の光で目を覚ました。
耳には心地よい鳥のさえずりが聞こえてくる。
ゆっくりと体を起こすと、再び汗が凄い。
もう布団も、漏らしたのか? というくらいグッショリだ。
「あらーっ、麻耶ちゃん起きたー? おはよー」
「母さん……」
朝からハイテンションな母に挨拶をしつつ、気持ち悪いのでパジャマも下着も全部脱ぎ捨てた。
もう寒気はしないが、ひどく体がだるい。
「まだ無理しちゃダメよ。熱は引いたみたいだけど……はい、着替えましょうねー」
「いや、自分で着替えるから……」
いいつつ母から着替えを奪い取る。
というか体が臭い。汗臭い。やばい、お風呂に入りたい。
「お風呂入る? ぶり返さないように、肩までゆっくり浸かるんだよ? ぁ、なんなら私も一緒に……」
「いいから……っていうか……リオ君は?」
途端にニヤニヤしだす母親。
なんだ、その顔はっ。
「うふふのふ。麻耶ちゃんったら。あんな素敵な彼氏が居たなんてねーっ、昨日、遅くまで看病してくれてたのよ? でも流石にお父さんが車で送ったわ。妹さんも家で待ってたみたいだし」
あぁ、そうか……リオ君は私だけの物じゃ……
って、違う!
というか、いつの間に名前で呼んでんだ、私!
あ、あれ? 昨日……そういえば、キ、キ、キスをしたような……気がする。
私は、リオ君……あの男の成績を落す為に、付き合ってるフリをしているだけであって、断じて正式なお付き合いでは……
ズキン……と胸に痛み
いや、私……いつまでそんな子供じみた言い訳してるんだ。
私……私は……リオ君の事……
好きだ
※
お風呂に入った後、母親の作ったオジヤを食べる。
昨日は食事もせずにひたすら眠り続けていたらしい。母親に五回以上着替えさせられたと聞いたが、全く記憶に残ってない。覚えているのは……唇に残る、ほのかな感触……。
「美味しい? 麻耶ちゃん」
「ん……うん……父さんは?」
「今日はもう仕事だよ。麻耶ちゃんの事心配してたんだから」
仕事……?
ふと時計を見ると、時刻は既に午前10時を回っていた。
ぁ、完全に遅刻だ。いや、それ以前の……
「もしかして学校行こうなんて思ってる? 絶対ダメだからね。明日も念のため……」
「だ、大丈夫だから……明日は……。母さん、おかわり」
丼ぶり一杯のおじやを食べつくし、おかわりを催促する。
何せ昨日なにも食べていないのだ。体が栄養を欲している。
「はいはい、食べ過ぎて今度はお腹壊さないようにね」
オジヤを注いでくれる母。
ふと、時計を再び見ると学校の授業風景が思い浮かんだ。
今頃皆は勉強をしているんだろう。そして午後からはロミジュリの、文化祭の準備。
あぁ、なんか悔しい。こんな大切な時に風邪で倒れてしまうなんて
「はい、どーっぞ。ゆっくり食べるのよ?」
「うん……いただきます……」
再びオジヤを食べ始める。
体が貪欲に吸収していくのが分かった。母のナノマシン管理のおかげなのか、風邪事態はすっかり治っているようだった。今は体力が落ちてダルイだけだ。
「それにしても……葉月君って凄い子なのね、麻耶ちゃんを抑えての一位なんて……」
「ん……うん……」
「昨日、色々とお話したのよ? あんな事やこんな事を……」
いや、どんな事だ。一体何を尋問したんだ、この母親は。
もしかして昨日の夜、キスした事も……
「麻耶ちゃん、お母さんは応援してるから。お父さんも葉月君の事気に行っちゃってねーっ、もう帰り際、君なら麻耶の部屋に泊まってもいいぞーっ、なんて言いだして……」
「……は?」
信じられない、あの父親が?
いつも無口で、私がテストで100点とっても眉一つ動かさなかった、あの男が……
「ぁ、そうそう、瑠衣ちゃんからも電話あってね、麻耶はちゃんと寝てるかーって」
瑠衣……なんか手のひらで踊らされてる気がする。
リオ君に告る切っ掛けを作ったのは瑠衣だ。
それまで私は、リオ君の事なんか……これっぽちも……
「ごちそうさまでした……」
オジヤを完食し、新しい布団へと潜りこむ、
今日、一日ちゃんと大人しくしてよう。
そして明日から……また学校に……
※
夢の中、リオ君とロミジュリの練習をしている。
私は白いワンピースを着ていて、目の前でリオ君がロミオのセリフを喋っている。
『…………っ』
でも何も聞こえない。彼の声が聞こえない。
続いて私がセリフを喋るシーン。
『……っ……っ!』
同じく声が出ない。
なんで……どうして……
言葉が出てこない
何か、何でもいいから喋らないと
溢れだす感情が重すぎて、言葉が出ない
お願い、お願いだから……私の、私の……この言葉を……!
「あぁっ……はぁーっ!」
激しく息を乱しながら目を覚ます。
既に部屋の中は真っ暗。
窓の方を見ると、月明かりが優しく差し込んでいるのが見えた。
「はぁ……夢……いや、分かってたけど……」
そっと布団から抜け出すと、体は既に軽かった。
今なら50メートル全速力で走れそうだ。
窓辺に立ち、月を見上げる。
今日一日、リオ君に会っていない。
会いたい……でも彼はロミオじゃない。
こんな夜に会いに来る男なんて……
「麻耶」
自分の名を呼ぶ声に振り向くと、そこに立っているのは父親だった。
なんだ、期待させおってからに。
「体に障るぞ、布団に戻りなさい」
「はい……」
大人しく言う事を聞いて布団に戻る。
すると父親が珍しく、私に掛布団を掛けてきてくれる。
どういう風の吹き回しだろうか。
「怖い夢でも見たのか、魘されてたみたいだが」
あぁ、もしかしてそれで起きてきたのか。
確かに怖かった。言いたい事を……伝えたい事を口に出来ない事が、あんなに怖いなんて……
「麻耶、学校は楽しいか?」
なんだ突然。
楽しいか楽しくないかで言えば……まあ、楽しい。
今は特に……彼が居るから……。
「ひたすらお前に……剣道と勉強をやらせてきたからな……それが正しかったのか……」
あぁ、父上。夜中だからテンションが変になってる。
普段の貴方なら、そんな事口が裂けても言わない筈だ。
でも、テンションが変なのは私もだ。
「私は……感謝してるから……その御蔭で、リオ君とも……」
出会えたんだから
あぁ、なんか凄い眠い
もう眠ってしまおう
そして起きた時には……学校へ行く時間だ。
もう……怖い夢は見ませんように……