夜の監獄 2
奇妙にねじれた鉄格子を乗り越えたとき、すでに先ほどまでに感じていた苛立ちや不安はどこかへ消えていた。奇妙な興奮と緊張が彼を支配していた。
どちらへ行けばいい。彼は先ほどまで灯りが差していた側を見た。廊下は行き止まりで左右に分かれていて、右側には看守の部屋らしきものが見えていた。
そこに行くべきではないと、彼は理性ではそう理解していた。だが危険は承知でも、丸腰でこの異常な空間をうろつくことは耐え難いことであった。
彼は慎重に、しかし素早く廊下を渡り看守の部屋に踏み入ると、あたりを物色した。
雑多に物が置かれた石造りの小部屋は、先ほどの振動のために大きく歪んでいて、半壊状態といったところであった。これほどの破壊がこの牢獄全体に?彼は訝しんだ。それが先ほどの脱獄囚によって引き起こされたとでも言うのか?「まさか。」彼は一人唱えるようにつぶやいた。
あまり時間は無い。確証はないが、急ぐべきであった。喧騒は増し、牢獄中の囚人が自分と同じく脱出を試みているのだと思われた。
壁に掛けられた看守の制服に目がいくと、彼は震えるほどの寒さと、吐き出した白い息に気がついた。と言うより思い出したという方が正しいのだろう。しかし囚人が脱出しつつあるのだ。看守の格好などするべきではない。それでも結局看守の制服のコートをとり、素早く羽織った。
それから看守の机に手をかけて、引き出しを漁った。書類の山をかき分け、あった。木製の小さい箱を引っ張り出した。
箱を開き中を改めると、そこには四連装のリボルバー銃がしまわれていた。それを引っ張り出し、制服の内ポケットにしまうと、最後に部屋の隅に倒れていた松明を掴み部屋を飛び出した。
彼自身驚くべき事に、この世界に関する基本的な事項についての記憶は彼の中から消えていなかった。監獄の監視官のことを看守と呼び、牢屋には罪を犯した囚人がいて、彼らはしばしば脱獄を試み、それを防ぐための武器が備えられているということまで、彼は覚えていたのだった。
ただ、彼は自分自身についての記憶がなかった。
看守の部屋から引き返し、自分が先ほどいた牢屋を通過して行き止まりを曲がった。
目の前に男が立っていた。
自分より大柄であり、縮れた無精髭が修行者のような印象を与えさせていた。そして筋肉質な腕と荒んだ目の様子は、彼がこの牢獄にいる年月を示すように感じられた。
彼は、とにかく両手を挙げて、敵対の意思がないことを示した。
「そんなことで見逃してもらえると思ったのか?ええ?」髭の男は嘲笑うように近づいてきた。
「違う、俺は看守じゃないんだ。」彼は胸許を開いて中に着たままの囚人服を見せ、髭の男と同じ囚人であることを示そうとした。
「隠しても意味はない。」髭の男は探るように言った。「この階には看守の部屋しかない。使われている牢屋はなかった。」
「違う!」彼は答えた。「気付いた時には牢屋の中にいた。この制服はその部屋からとったんだ。」
「ふむ。」髭の男はどうすべきか考えあぐねているようだった。
「確かに俺は看守の顔と名前は全て覚えている。お前のような看守は知らないな。『気付いた時には』というのは?どういう意味だ。」
「俺は」彼はそこで少し詰まった。信じるだろうか?この男は。だが他に答えようもなかった。
「俺は今日までの記憶が無い。」
「は!」髭の男はまたしても嘲笑うように声を上げた。「この緊急時にか?笑えない冗談だな。俺を舐めてるってわけだ。」
「そうじゃない。」彼はそこで胸許に入れた拳銃のことを思い出していた。だが使う気にはなれなかった。
「何が起きてるんだ?」彼は挑発に質問で返した。
「エルドリッチだよ、囚人のな。」髭の男は彼の記憶を試すように答えた。
「エルドリッチ」少し間を置いて彼は繰り返した。
「まぁ記憶喪失にしろ何にしろ」髭の男がすかさず言った。「お前と問答してる暇はねぇよ。」と言うと男は反対側の廊下に立ち去ろうとした。
「待ってくれ」彼はすがるように言った。
「俺も連れて行ってくれるか?」
「好きにしな」髭の男は振り向かずに答えた。「だが足手まといになるなら、お前を助ける気はない。」
「ありがとう。」彼にとってはその答えで充分だった。「あー…」
「ジョセフだ。」男が答えた。「お前は?」
「すまない、名前も思い出せない。」彼は恥ずかしげに答えた。
「そうかよ。」ジョセフはそっけなく答えた。「名無しのジャックとでも、呼んでやるさ。」